見出し画像

海が見える町。

新型コロナも5類移行でマスク着用も個人の自由となり、催事や飲食、旅行への難易度も更に緩和した時が来て嬉しく思う。個人的にも花粉症がそろそろ治まり、マスクを外して暑い夏を過ごせるのは楽しみだ。

そんなコロナ収束を感じさせるタイミングで、育った地元の福島県双葉町に行ってきた。

東京から電車で約4時間。3時間ほどで双葉から南に位置するいわき駅で乗り換える。時間は11時すぎ、電車は1時間に1本だ。30分ほど街を散歩する。5月と言えど夏のような陽気で空は高い。夏は涼しく、冬も雪が降らない沿岸地域の空気だ。改札で乗り換えがうまくできず、駅員さんに相談すると、若い方だったが訛りを聞いてどこか安心する。歴史や地域的なものもあり、福島県内陸部より、茨城や宮城沿岸の訛りに近い。

電車に乗り、ボックスシートが常備される車両を懐かしみ、いわきから1時間かけ双葉に向かう。平日の昼間、まばらにいる人は皆んなマスクをしている。

2011年の東日本大地震で原発を擁する双葉町は人が住めなくなった。今でこそ避難指示解除が出た地域もあるが、この10数年で避難先で新しい職を見つけ、新しい居を構え、新しい家族との生活を覚悟した人々が多くいる。町の機能がない土地に人が戻りたいと思う要素は限りなく少ない。

1967年の原発の誘致で町が潤い、職となり、家族が養え、町が育っていた地域だ。役場や、学校や、病院や、田んぼに畑、飲食店があって、町があった。ただ一個の機能が回復してもまだ町にはならない。人が住むには住むだけのメリットと機能が必要だ。

震災があって数年して、あの町はただの土地となり、侵入不可、廃炉作業だけ進み、福島のどこか広大な土地に新しい町として機能が新設すると自分は思っていた。しかし町の動きは、絶対無理であろうあの町を取り戻そう感が今も残る。

駅を建て直し、電車も開通し、住宅の再建が始まり、人口回復を目指し、人を呼び戻そうとしている。沿岸の開けた場所には東日本大震災・原子力伝承館なるものが建った。遺構と違う。わざわざ建てたんだ。まだ伝承するほど回復もしてないし、伝えるには辺鄙な場所で、観光するほど生優しいものでもなく、展示の中身も悲惨さを伝えるには易く、復興を望むには弱く、史料を学ぶとしても稚拙で、何が復興と言えるか分からない中で、福島県復興記念公園を作ろうとし、その数km先で今後3.40年、何世代かかるか分からない原発の廃炉作業のクレーンが見える。駅からの道中には生い茂った雑草とあの時のまま崩れた家がある。希望と絶望と無情が同時にある。作る、壊す、人の触れないものが別々にある異形だ。

まるでSFのような、次元も分からなくなるような現実を見て今でも考えようとすると混乱する。徐々に自分の考えも変化してるのかなと自問する。「あの時」は「あの時」しか感じ得ず、「あの時」の痕跡も今の自分の補正もかかる。ポジばっかりでもネガばっかりでもなく、白黒つかないグレーな、なんとも言えない感覚を残したい。絶対良い、絶対悪いじゃない部分。史料にするならそこが学ぶべき所だと思う。津波自体は人間が引き起こしてない。だから復興を目指せる。だけどあの町は原発がある。人為的な歴史がある。勤勉で怠慢で、キレイゴトも取り繕うことも、自責も他責も、どっちとも言えず行き迷うことも、大事にしてるものが違う色んな人がいるから、それこそ残して欲しい。そこで語り、そこで働き、そこに記録する、徐々に記憶から歴史になって、体験してない子達が職を得て生活していく。あの土地になにがあったか知らない人がまた町を作り始める時がいつか来る。だから残して欲しい。これを残せないのも人間なのだとしたら、この矛盾と理不尽の混じる見せかけがあの町に詰まってしまっている。

ついに人生の半分を東京で過ごして、今いる家に帰るのが1番落ち着く体にもなった自分は、家族も違う町で生活していて、あの町が好きでも嫌いでもない。たまたま生まれてたまたま育って、体があの町を知ってるから思いが強くなるだけだ。同じ国、同じ地域、同じ町出身だから皆んな同じ気持ちかと言うとそうでもない。でもあの何もない町で、家族と過ごして、友達と遊んで、ゲームして漫画読んで、絵描いて楽しいなって、あーでもないこーでもない、あーなりたいこーなりたい。東京に行ってみたいと1番考え込んだ理由ときっかけがある。あの町で育ったから、自分の機微が出来上がったと思う。この機微がある事はどうか伝えたい。

伝承館を出て、海に向かう。陽を遮るものもない真っ直ぐな道を歩く。コロナの騒ぎにかき消されたか、自分の関心が薄まったのか、汚染や放射能の言葉も流行りを失ったみたいに聞かなくなった。黒いビニールに包まれた汚染土の山は2年前より減ったことに景色の変化を感じる。広大な土地にはゼネコンや企業が入り、見慣れないキレイな施設に向かって大型トラックやプロボックスが走る。一般車とすれ違ったと思えば移住した方か、町の様子を見に来た方か、「いわき・わ」ナンバーだ。

陽が暑く、長袖シャツを脱ぐと風は涼しい。雑草が生い茂る道端にシロツメクサとススキの葉の匂いが懐かしい。シロツメクサを摘んで、ススキの葉で指を切った子供の時を思い出す。そこに潮の匂いが混じり、嗅覚から脳裏にインパクトを残し、ここが育った町なんだなと、鬱蒼とはこの事かと知る。

海に着き、空気を吸って、砂を踏んで、波の音を聞いて、眼前に広がる色と形を見て、髄から全身が裏返されるような感覚になる。海に行った事がある人、海に思い出がある人、海の近くで育った人、海を記憶してる人は、特定の海が記憶されてると思う。自分にはこの海だった。砂は黒く、濡れると灰茶がかり、枯れ木やゴミが混じり、濃紺の先にくすんだ緑がかった波が続く海。快適さはない。雑然とした浜だ。この海で毎年ゴミ拾いをして、泳げば砂が体に入り込み、海を飲めば苦しくて、砂浜で転んで膝を掻っ切って病院に運ばれて、泳ぎを覚えたからと無理して足の付かない所まで行き波に飲まれて何回転もして気付くと沖に流された子供の時。自転車で向かって泳いで濡れてまま家に帰ったりした。

波に削られ角の取れた滑らかな小石を拾い、波で洗い、懐にしまおうとしたが、波に放る。

自分が起こした濁音を聞いて満足する。

海から育った団地がある方へ進むが、警備員とパイロンと帰還困難区域の看板が道を塞ぐ。2年前に来た時から1mも近付けなかった。あっさりした気持ちだ。だよな。諦めとは違う。行けない事を分かって来てる。行けない事を見に来たのかもしれない。行けない道がある。行けない家がある。このフィクションみたいな現実を見に来てる。あの団地を見れた時何があるのかも分からない。でも見たいという欲がある事は分かる。

思いを寄せながら町だった道を引き返し、空と家を抜け駅に着く。切符ではなくICカードで改札を抜ける事に戸惑う。シートに座ると日にやられたか、目力の筋肉痛か、気持ちが警鐘してるのか頭痛が起きる。頭痛も子供の時から頻繁になることだ。携帯している痛み止めを飲み、夕陽に輝く雑草の眩しさがこちらを睨み、田から飛び立つサギを見つめ、点在する家屋が目に留まり、気付くと瞼は落ちて東京に向かう。


おざなりと言えばそれまで、だらしないと言えばそれまで、だけど几帳面に理詰めで全て明瞭に説明できない事があると思う。

このモヤが、なんでだろうが、なにかのきっかけになって、なにかがあることに繋がると感じてる。いつも考えると抽象的だ。でも描くと、絵にすると具体的になると思ってる。それが自分の欲と役割だと思い込んでる。思い込みは強力だな。情け無い。

こうしてまた日常で絵を描きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?