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オレンジシュート
汗が弾ける。
すっぱい液体は、ぼくを憎む。
キラい、ということであれば、どうぞご自由に。
どうせこれからも、あるいは一生、何度でも再会するのだから。
ぼくに対する汗の気持ちとは違って、リングとボールはそれぞれを求め合う。
その姿に、ドキドキする。
膝のクッションと手首のスナップだけで、ボールは簡単に空を飛ぶ。
モップだったら、こんなに昇らない。Tシャツやタオルならば、明後日の方向に行くはず。バッシュであっても、思ったように遠くに飛ばない。
ボールは、自身の欲していることを知っている。
リングから、求められていることも把握している。
うれしいのだろう。
そんなにクルクルと踊っているなんて。
求愛のダンス、ってやつか。
それにどこか、火照っているようにも見える。
真っ赤ではないところが妙にリアルだ。
一方で、リングは動かない。
堂々としているだけなのか、それとも奥手なのか。
でも、ツヤツヤとしているから、たぶんゴキゲン。
それにボールと同じように、顔を赤らめている感じがする。
とにもかくにも、相思相愛ってやつだ。
予想通り、ボールはリングを通り抜けてスプラッシュ!
まだ踊り続けているボールを抱きかかえ、ぼくは、再び愛の物語を描く。
🏀🏀🏀
ひとりぼっちの体育館は、孤独ではない。
木がある、日差しがある、バスケットボールがある。
それに檀上のピアノも、モーニングソングを奏でている、気がする。
週に何度か、ぼくは朝の体育館を独り占めにする。
体育館は、いつでもオープンだ。
「おお、またいるのか、お疲れ」と体育教師がときどき顔を見せるだけで、基本ひとりっきり。
朝練をしているにもかかわらず、ぼくの通う高校に、バスケットボール部はない。
正確には、男子バスケットボール部だけがない。女子のほうはある。県内では強豪と言われている、地元で有名な部活。入部している生徒の数も、他の部活より数倍多い。強さを求めて、みんなが集まってくる。
ぼくは帰宅部だけれども、朝練をやめようと思ったことはない。
非常にシンプルに、バスケットボールに夢中なのかもしれない。あるいは、中学生時代の名残りがそうさせているだけかもしれない。もしくは、ひとりぼっちの時間を愛しているだけなのかもしれない。
朝練とはいえ、通常の部活のように、決まったトレーニングを行うわけではない。自分の思うままに体を動かしているだけ。試合に勝つための練習ではないので、気楽だ。なんとなくレイアップシュートを繰り返してみる、なんとなくミドルシュートを10本打ってみる、なんとなくスリーポイントシュートが決まるまで練習する、なんとなくダンクに挑戦してみる。
体育館を独り占めにしてても、誰からも怒られたことはない。
ぼくが占有している体育館は、校内でほとんど利用されていないほう。各部活の朝練のみならず、体育の授業でも、つかわれることはほとんどない。正門の近くにあるメインの体育館と比べるとフロアの広さは4分の1程度で、倉庫には蜘蛛の巣がはり、明らかに老朽化が進んでいる。いずれかは取り壊す、ということは決定しており、それまでの間は自由につかっても問題ないらしい。この学校の校風は、自由・協調・博愛。
「またひとりでやってんの?」
得意としている左サイドからのレイアップシュートを決めた瞬間、背後から声。
「うちらにまざっても、いいんだよ」
同じクラスメイトで女子バスのナシモトさんは、自分たちの朝練の休憩時間、ときどきぼくのひとりきりの練習を見に来て、そう誘ってくれる。
「ナシモトさん」
「練習には参加しても大丈夫。試合には出れないけれど。顧問にも、許可をもらっているし」
「いや、ありがたいけれど…」
パスちょうだい、と言いながらカツカツと館内に入り、スリーポイントシュートのラインに向かうナシモトさん。
ぼくは慌ててパスをすると、美しいシュートフォームで、リングにボールが当たることなく、スリーポイントシュートを決める。
さすが、高校二年生の時点でエースを任されていることだけはある。
気の抜けたように弾むボールを見つめながら、ナシモトさんはふたたびぼくを誘う。
「ひとりじゃつまんないじゃん。団体スポーツなんだし」
「うん。でも、そんなにうまくないから…」
「上手下手は関係ないって」
「そう?」
「関係ないよ。強豪チームで練習はハードだけど、初心者もいっぱいいる」
「うーん」
「なんでいつもひとりで朝練しているの? ものすごく謎だよ」
「よくわかんない」
「はい?」
「別に体を動かすことは好きじゃないし、早起きも苦手だし。だからよくわかんない」
「あいかわらず、おかしなこと言うね」
「ただ、習慣を崩すことは怖い。確かなことが不確かになることにストレスはある。毎朝のトーストに苺ジャムはイヤで、マーマレードじゃないとやっぱりダメ、みたいな話」
「わたしはリンゴジャムがすきだな」
「果肉たっぷりの?」
「もちろん!」
「でも今は、マーマレードのままでいいかな」
「そう…」
やばい休憩終わっちゃう、とナシモトさんはバタバタと出口に向かう。
「また誘いに来るね!」
その残された言葉を、ぼくの心はブロックショットする。
🏀🏀🏀
肉まんとあんまん。
ぼくはどっちなんだろう。
体育館は、梅雨や夏前にもかかわらず、蒸し蒸ししている。
ぽたぽたと流れる汗は、肉汁なのか。
それなら、肉まんと小籠包。
ぼくはどっちなんだろう。
目的のない朝練は、今も持続している。練習時間は、1時間にも満たない。曜日も決めているわけではない。ゆっくりと準備運動をする、ドリブルをつく、壁に向けてパスをする。シュートをする。だいたいこの4つのトレーニングで完結している。
ぼくと、ときどき覗きに来る体育教師やナシモトさん以外に、この体育館に訪れる者はいない。ここは独居房なのか、それとも家庭科室なのか。
スズメやカラス、野良猫たちが、野外からぼくの練習風景を見守っていることはある。けれども、館内に入ることはない。野良猫は遠くから不思議そうにボールの動きを目で追う。カラスは名前のわからない背丈の高い木からぼくを見下ろし、校歌と同じくらい聞き飽きているカァカァという鳴き声を発し、空を駆けていく。
ひとりきりの体育館では、すべての音が驚くほど大きい。
ドリブルをつけば、ドシンドシンと怪獣の足音。
ボールがリングに当たる音は、モンスターの遠吠え。
壁とボールの接触音は、巨人の右ストレート。
すなわち、人類vs怪物――
肉まんと小籠包、ぼくはどっちの具材なんだろう。
「どこ見てんの?」
大きな声量に驚く。館内では人の声も大きくなる。ナシモトさんはぼくの数メートル後ろにいる。
「どうしたの? ボールを持ったまま、外をじーっと見つめてるなんて。なんか怖いよ」
「いや、いい天気だなと思って」
「うん、確かに晴天だね。陸上部もサッカー部もラグビー部も、みんな気持ちよさそうに体を動かしている」
校庭では、他の部活動を勤しんでいる生徒がちらほら。県内でもトップクラスの強さを誇るラグビー部は、毎朝練習している。
「どこかの部活動に入ったら? ひとりきりではつまらないじゃん?」
そうアドバイスしながら、ナシモトさんはぼくの肩をもむ。
「女子バスの練習に交ざるのがイヤだったら、他の部活に入ろうよ。もう1年以上つづけてるじゃん、朝練。本当は、みんなと一緒にスポーツしたいんでしょ? そうじゃなかったら、ずっとひとりきりで練習してるなんておかしい」
「ひとりぼっちがつらいわけじゃないんだよね」
「楽しそうには見えないけど」
「すごく楽しいよ、怪獣もいるし」
「怪獣?」
「この体育館には、確実にいる。そして、ぼくの手によって生み出せる」
「やっぱり怖いよ」
「ごめんごめん、驚かそうとしたわけじゃない。結局のところ、毎朝のトーストは苺ジャムじゃなくて」
マーマレードがいいんでしょ、と言いながら、ナシモトさんはぼくの手にしているボールをスティールする。
「1on1しようよ。強豪チームのエースが相手になってあげる」
ナシモトさんは、背中や股の間でドリブルを繰り返し、ディフェンスして、とぼくを挑発。
やっぱり上手だな。
ぼくはこの人に勝てるのだろうか。
負けたくない、という欲望はほとんどないけれども。
いずれにしても、ふたりになった館内に、もうモンスターは出現しない。
そして、肉まんや小籠包の具材にならなくても、すむのかもしれない。
🏀🏀🏀
夏は、体をアイスクリームにさせる。
ぐにゃりと溶けて、べたべたの身体。
ときどき休まなければ、ぼくの存在は地球上から消える。
生きていくことは、なんて甘くないのだろう。
夏休みは、目前に迫っていた。
その期間も通学して朝練したい気持ちがある一方、暑い中、わざわざ学校まで通う必要性を感じられない。昨年と同様、長期休暇だけは、朝練を中断させよう。そもそもなぜ持続させているのか、わかってもいないし。
ナシモトさんは、以前よりも頻繁に体育館に訪れ、ぼくと練習する機会を増やしていた。せっかくの休憩時間に、と最初は断っていたけれども、朝練のメニューはハードじゃないから大丈夫、ということらしい。ウソか誠かわからないけれど、わざわざありがとう。
練習するとはいえ、1on1を数十分行うだけ。
いつもぼくが負けて、ナシモトさんが勝利する。
もわっとする暑い大気も、ぽたぽたと滴る汗も、館外から見守るカラスや野良猫も、ぼくを味方してくれない。ただし、県内の選抜チームにも加入しているエースとのトレーニングによって、ぼくはメキメキとバスケットボールの腕を上げている気がする。
「先月よりも、先々月よりも、うまくなってる」
また負けた、とうずくまっているぼくの肩をたたきながら、そう褒めてくれる。
「もしかして、こっそりと猛練習してる? わたしに勝てるように」
ぜぇぜぇしながら、そんなことはしてない、と思う。
でももう、マーマレードはやめたんだ。
毎朝のトーストにマーマレードは、やめた。
その代わりに、ブルーベリージャム。
毎日の朝食に、酸味の強い、つぶつぶのブルーベリージャム。
「なにぶつぶつ言ってるの?」
ナシモトさんは、不思議そうにうつむくぼくを見つめる。
自作の湖の真ん中は、今日も快適だ。
(了)
※この物語は、フィクションです