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デザイン基礎教育
最初は、鼻がなくなってしまった、と思った。
朝起きて、洗面所にてすぐにそれに気づいた。
歯磨き粉にも石鹸にも、まったく香りがない。
湯気の立つコーヒーやカリカリのトーストも同じ。
整髪剤も制汗剤も、本来の役目が損なわれている。
だからわたしの鼻は、どこかに消えた、と思った。
匂いがしない、という現実はものすごく怖い。
5月を彩るラベンダーも、肉汁がジュージューと歌うBBQも、ぽかぽか陽気にくるまれた洗濯物も、ニンニクの効いたカツオのタタキも、すべてなくなることになる。あるいは、見た目だけは華やかな食品サンプルと変わらない。
もう一度洗面所に向かい、鼻の有無を確認する。
さきほど洗顔したとき、確実に手のひらに突起物が当たった。
だから鼻がない、という現実はありえない。
・・・うん、ある。
よく言えば、新鮮なイチゴ。
悪く言えば、賞味期限切れのごま団子。
そんな鼻が、わたしには1粒ある。
つまり、風邪です。
もしくは、花粉症。
どちらにせよ、鼻がきかない。
頭からTシャツをかぶったときに、いつもの柔軟剤の香りがない。
風邪、ということにして、会社を休もうか・・・
と一瞬頭をよぎったけれども、そんなわけにはいかない。
鼻づまりがひどいだけで、体調はすこぶる良好だ。
それに、今日から新入社員がひとり弊社に加わる。
新入りへの社内説明や研修は、わたしが担当する。
わたしが休んだことにより、上司の激昂する姿が容易に想像できる。
嗅覚を失ったとしても、わたしの業務に支障は出ない。
デザイン事務所だから、視覚を酷使するだけ。
目薬の消費量に、自信があるのみ。
また、人の話をたいして聞いていないわたしにとっては、聴覚が活躍することもほとんどない。ランチやおやつのチョコレートの味がしなくなることは、最悪だけれども。
もしわたしが、新しい香りを作り出す調香師だったら、この状態では仕事にならないだろうな。
レストランのキッチンで働くスタッフも、鼻がきかなければならないはず。そう考えると、デザイナーに鼻は、不要なのかもしれない。目と耳、口、そして手さえあれば――
鼻がないとか、鼻なんてなくてよしとか、わけのわからない鼻論を展開していたからなのか、妙にむずむずしてきた。
しかしティッシュでチーンとしても、なにも排出されない。このままティッシュ箱の中に戻せるぐらい、なにひとつ汚れていない。
そんなことはない、おかしい、と鼻の中に指を入れると、今度は予想通り、指先にべっとりと「アレ」がつく。なぜかわたしは、このことにほっとする。
深緑の「アレ」をしげしげと眺めると、ギザギザとした形状で、全体的にのっぺりとしている。
そして少し湿っている部分もあれば、カピカピに乾燥しているところもある。
ああこれは、大陸みたいだ。
指先に、ひとつの大陸だ!
もうすぐ出社の時間にもかかわらず、鬼ごっこばかりしていたあの頃のように、わたしはこの緑の大陸を丸めたくしかたない。鼻たれ小僧の時代は、指先でクルクルとさせて、キレイな円形を作っていた。そしてその完成品を誰にも見せることなく(はずかしいから)、悦に浸っていた。
どうして小学生時分は、深緑の「アレ」を丸めることに、喜びを見出していたのだろうか。そういえば、くちゃくちゃと噛み続けた、ガムに対しても同様の行為をしていた。
手先がベタベタになる粘土遊びや、ほとんど耐久性のない泥団子づくりの延長?
もしくは、手を動かすことによって、心を落ち着かせていた?
もともと手先は器用な方だから、キレイな丸を作ることは難しくない。不器用だったらおそらく、デザイナーを生業にすることはなかったと思う。そして深緑の「アレ」をこねていた習慣は、デザインの基礎教育になっていたのかもしれない。弊社の新人教育でもこねる習慣を採用・・・なんてことはしない。
しかし、今指先にある緑色の大陸は、こんなにも不気味な色であっただろうか。かつては、もっと淡かった気がする。真珠のような光沢もあったはず。深緑ではなく、黄緑色。ランドセルを背負い走り回っていた田舎町の大草原のような、純粋な色。
わたしの鼻は、都会の空気に侵されてしまったのか。
かすんだ空に、巨大ビル群。人口数と比例して増えるゴミ。弱肉強食を前提とした、人々の汚い魂。
わたしの体の内側全体も、もはやもとの美しいピンク色ではないのかもしれない。そしてデザイナーであっても、鼻の中も体もカラフルにすることはできない。
ホコリの積もった壁掛け時計をのぞくと、もう自宅を出なければいけない時刻になっていた。時間にルーズな社風であっても、大幅な遅刻は、社員たちの目を鋭くさせる。とうぜん、給料も減る。仕事が終わらなければ、残業時間が増す。
でもわたしには、そんなことすべて、無関係だ。
なぜなら、これから世界征服を始めるから。
緑色の大陸を、指先でコネコネする。
深緑の「アレ」を、美しい球体に仕上げる。
そしてその黒ずんだ地球を、ネットにアップする。
加工することなく装飾することもなく、ありのままの形でSNSに投稿する。
世界最高の朝食として、
世界中に広まりますように。
(了)
※この物語は、フィクションです
※少しだけ汚い表現に関しては、なにとぞご了承ください
※あと、鼻く○は絶対にネットにあげないでくださいね!