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真の哲学者たちへ捧ぐ

ニーチェ『善悪の彼岸』

どうも!ニーチェの生まれ変わり、阪本弘輝です。

盛りました。シンプルに僕の誕生日がニーチェの命日と一緒ってだけです。

プラトンばっか流石に飽きそうなので、今回は気分転換にニーチェはさんでおきますね。

写真はただのビールです。ドイツのビールどころか、ビール主体の写真ですらないです。大分の旨い飯の写真です。

いやぁ、ドイツ行ってみてぇ。けど新卒1年目の僕ではまだ無理ですね。交際費と本代で全てが消える今日この頃です。

中二病が通る道

”君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。”

はい。出ました。これね、よく聞くやつです。漫画やらアニメやらで何度も目にするあれです。東京喰種なんか第1巻(なんなら第1話?)とかで出てきますよねこれ。

哲学ってジャンル自体、中二病をこじらせた人が手を出しがちです。その中でもニーチェは最早、誰もが通る道だといっても過言ではありません。

盛りました。でも『ツァラトゥストラはかく語りき』に手を出して大怪我した中二病患者は僕だけやないですよね???

家畜の安寧

今回紹介する『善悪の彼岸』は、平たく言うと、世間一般でいう善とか悪とかにとらわれることなく、真に高貴なる生き方を貫け!というメッセージが込められた本です。

読んでみるとわかると思うのですが、ニーチェは高貴でない人々を繰り返し“畜群”と呼び、罵声を浴びせ続けます。畜群とはこれ即ち「畜生共の群れ」の略なのでしょうが、ちょい言い過ぎでは???思わず「イエーガー!」と叫びたくなってしまいますね。

まあニーチェは余りにも捻くれ者だったので、このような表現になってしまったのでしょう。他にも今だと非難轟々だろう表現も多々ありますが、そこはご容赦を。

それでは、中身へ入って行きましょう。

マルチパックアイスをどう分配するのが望ましいか

子供用に、8個入りのマルチパックアイスを母親が買ってきてくれたとします。その場には妹と弟がいます。さて、どのような配分が望ましいでしょうか?

とりあえず自分は2個以下にして、弟や妹の方がたくさん食べられるようにするのが、年長者としてあるべき姿でしょう。僕もそう思います。でも、どうしてそう言えるんでしょうね?

西洋哲学においては、暗黙の了解がありました。理性は本能よりも善きものであり、悪しき本能を、善き理性でコントロールすべきだ、という前提です。

それに対して、ニーチェは以下のように述べます。

”仮象、欺瞞や我欲や欲望への意志に一切の生にとってのより高く、かつより原則的な価値が帰属させられなければならないだろうことは、ありうべきことであろう。”

それまでの西洋哲学で大前提とされてきた事柄を、彼は徹底的に疑ってかかります。仮象ではなく実態を、欺瞞ではなく真実を、我欲ではなく公共善を、欲望ではなく理性を追求することが、人間にとって善きことであり、それを目指さないのは悪であるという、大前提を。

知的好奇心も本能の一部

僕がこのnoteにつらつら書いているような本を読んだり、それについて議論していたりすると、周りからは「勉強」している人と思われがちです。「勉強」はどうやら、面白くないことだと捉える人も多いらしく、「なんの為にそんなことをしているの?」と聞かれることもしばしば。

これに対する僕の回答は決まっています。単に、面白いから、です。

スポーツに詳しい人は、選手だったりチームだったり、あるいはゲームの戦略だったりを知って、分析したり観戦したりするのが面白いから、スポーツに詳しいんですよね?他のあらゆる種類の愛好家に関しても、同様のことが言えると思います。

つまりは興味関心の対象が異なるだけであって、ドラマだろうがアイドルだろうが、どれも本質的には「勉強」と同じ要素を持つわけです。じゃあ我々は、「なんの為にそんなことをしているの?」ですかね。ニーチェは言います。

”意識的な思惟の大部分をなお本能活動のうちに数えなければならない。しかも哲学的な思索の場合でさえも”

かつてアリストテレスも”すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する”と記しましたが、我々は誰に強いられるわけでもなく、ただ楽しいからとついつい「勉強」をしてしまいます。そう考えると確かにこれは、本能の領分に含まれている、ということになりそうです。

ところが古代ギリシア以来、「勉強」の代表例である学問などは、明らかに理性の領分として考えられてきたわけです。こうなってくると、そもそも理性と本能という二項対立すら、怪しくなってきませんか?

偽物が本物に敵わない、なんて道理はない

ニーチェは引き続き、常識を疑います。

”真理が仮象よりも価値が多いなどということは、もはや一つの道徳的先入観である。(中略)配景的な評価と仮象性に基づかずには、全く生というものは成り立たない。”

ここでいう仮象というのは、我々が主観的に捉えていて、客観的実在性がないもののことです。例えば水の中にある物を考えていただきたいのですが、我々の目には歪んで見えたり、実際の姿より大きく見えたりしますよね?

こういう仮の姿ではなく、真の姿を捉える、というのが古代ギリシア以来、哲学に要請されてきた大きな関心事の一つでした。別に難しい話ではなく、僕らも「仮そめ」ではなく「本物の」愛を探していますよね?それと同じです。

でもニーチェからすれば、「仮そめ」でもいいわけです。それが無ければ生きていけないわけです。あ、僕が「仮そめ」の愛すら得ていない現状は無視してください。生きてます。

というかそもそも、真理が仮象に勝るものだとする、これまでの哲学者の暗黙の了解自体を、ニーチェは疑っているわけです。

そういや衛宮士郎が凛ルートで証明しちゃいましたしね。”偽物が本物に敵わない、なんて道理はない”ってことを。あのシーン、マジで震えます。”いくぞ英雄王、武器の貯蔵は十分か。”

「ありのまま」ではなく「ありたいように」見る

哲学は古代より、常識を疑い、真理へと到達する、そういう営みとして、長い歴史をかけて育まれていきました。そこでは常に客観的な説明が求められ、哲学の延長にある、現代の学問においても、その姿勢は変わりません。

ですがニーチェは言います。

”哲学はいつも世界を自らの姿に擬して創造する。それよりほかの遣り方を知らない。”

カエサル『ガリア戦記』に曰く、"Homines id quod volunt credunt"つまり、「人間は、信じたいと望むことを信じる」わけですが、哲学者もまた、そうした人の性からは逃れられないということなのでしょう。ニーチェからすれば、哲学というのは、「ありのままに」ではなく、「ありたいように」世界を見る行為だったのです。

奴隷道徳

ですがニーチェは、だからといって哲学という行為自体を否定しているわけではありません。

では、ニーチェが口うるさく批判している対象とは何なのか。

”彼らが全力を挙げて得ようと努力するのは、万人のための生活の保証・安全・快適・安心を与えるあの畜群の一般的な緑の牧場の幸福である”

僕たちにとっては民主主義的な価値観として挙げられることの多い、「自由」だとか「平等」だとかといった近代啓蒙思想の所産をニーチェは、”奴隷道徳”として蔑みます。以下、ニーチェの”奴隷道徳”に対する悪口の数々をご確認ください。

”畜群的人間が、自分だけが唯一の許された種類の人間であるかのような顔をして、自分を温順で協調的で、畜群に有用なものにする自分の性質を、本当に人間的な美徳だとして賛美する”

”「近代的理念」をかざす人間、この思い上がった猿は、自己自身に対する不満を抑えることができない。...(中略)...そこで彼の虚栄心は、彼がただ 「共に苦しむ」ことを欲する”

ニーチェはそんな”畜群”に対して”嘔吐”するとまで述べます。いや、汚いから吐くんはやめろや。

力への意志

現代人からすれば中々受け入れ難い話かもしれませんね。ではニーチェがむしろ志向すべきとする価値とは何なのかを見ていきましょう。

”生そのものは本質上、他者をわがものにすることであり、侵害することであり、圧服することであり、抑圧・峻酷であり、自らの形式を他に押しつけることであり、摂取することであり、最も穏やかに見ても搾取である。”

「うわ、極度のジャイアニストやんけ…」と思う方も多いかもしれませんが、ニーチェからすれば、こうした”利己主義は高貴な魂の本質に属する”ものだそうで、”奴隷道徳”に対して”主人道徳”と呼びます。

『善悪の彼岸』の中では、こうした”主人道徳”へと人を駆り立てる本能、あるいは欲求のようなものを、”力への意志”と、ニーチェは表現します。力への意志。うん、中二病極まってますね。

そしてこの”力への意志”こそが、人類を発展させてきたものだと、ニーチェは考えているようです。また、高貴な人間にとっては、宗教は”抵抗に打ち克ち、支配をなしうるための一手段”であり、道徳は”長きに亘る強制”なのであって、この”力への意志”を貫徹するための道具だったわけです。ニーチェは言います。

”反理性的なものが、ヨーロッパ精神にその力強さ、その容赦ない好奇心、およびその動き易さを育成する手段であった”

真の哲学者

”哲学はこうした僭王的な衝動そのものにほかならず、力への、「世界の創造」への、《 第一原因》(※物事の根本原因)への最も精神的な意志なのだ。”

これまでの議論を踏まえ、上の文を読めばわかるように、ニーチェにとってあるべき哲学の姿とは、平たく言えば王者のための、あるいは「独立した」人のための、哲学だということになります。ニーチェは言います。

”真の哲学者は命令者であり、かつ立法者である。”

ですがこれは誰にでもできる、とはニーチェは考えていないようです。曰く、

”独立であるということは、極めて少数の者にしかできない事柄である。それは強者の一つの特権なのだ”

”今日では時代の趣味と時代の徳が意志を弱め、稀薄にする。意志の弱さほど時流に適ったものはない。”

要するに、一部の人間、恐らくは”力への意志”に突き動かされた者しか、ニーチェのいう”真の哲学者”足り得ないということです。さて、僕たちはどうでしょうかね。

我々がこの本から得られることは何か?

ニーチェがこの本を書いてから、130年以上たっています。そんな我々は、どういった教訓を学びとることができるのでしょうか。

①常識をアンラーニングする姿勢

読んでみるとわかるかと思うのですが、ニーチェはよく言われているほど、何でもかんでも否定しているわけではないです。そもそも論を追求しているだけで、その論を聞くと、「まあそれは確かに疑問やったわ」と思わされるものが多いです。

”常識とは偏見のコレクションである”とはアインシュタイのお言葉だそうですが、批判的に物事を見る、という姿勢が身につく本であることは間違い無いでしょう。

②自分を貫く姿勢

ニーチェは言います。”真の哲学者は…(中略)…絶えず自己を賭ける。彼は分の悪い賭け事にこそ敢えて臨むのである”

結局ニーチェが言いたかったのは、「自分の信念を貫け」というメッセージだったのではないかと、僕は思います。そしてそれは恐らく、自分自身に対して言い聞かせていることでもあったのでしょう。ニーチェも、それにこれを読んでくださっているあなたも、また僕も、賛同者ばかりに囲まれて生きているわけではありません。でもそれでいいのです。曰く、

 ”或る者にとって正当なことが、全くなお他の者にとって正当なことではありえないということ、一つの道徳を万人に対して要求するのはまさに高級な人間に対する侵害であるということ”

従って、ニーチェからすれば、”畜群”になど、わかってもらえなくて結構なわけです。あのソクラテス先生も、誤解され、それでも信念を貫いて、死んでいったのでしたね。

まあもっとも、ニーチェのように、そのために他者を蔑む必要はないのですが。

③ポピュリズム時代の視座

本文で述べられていたように、”主人道徳”の下で生きるのは簡単なことではなく、大多数の人は”奴隷道徳”に従って生きることになります。ニーチェは言います。

”ヨーロッパの民主化は最も綿密な意味での奴隷制度に予め誂え向きな型の人間を生み出すことになる。”

そして予言の如き一文が、のちに現れます。

”畜群的ヨーロッパ人にとって一個の無条件的な命令者の出現ということこそは、堪え切れなくなって来る圧迫から解放されるための絶大な恩沢なのだ”

これは、 後にドイツでナチスが台頭したことを思い起こせば、かなり鋭い指摘だったことがよくわかります。 ハンナ・アーレント『全体主義の起源』やエーリヒ・フロム『自由からの逃走』といった、ナチス・ ドイツの台頭要因を分析した名著が第二次大戦後に刊行されていますが、いずれの本も、本質的にはニーチェのこの文章と、ほぼ同じことを言っています。(これらの書籍に関しては、いずれ取り上げる機会があるかもしれません。)

宗教や共同体の力が弱まった近現代。「神が死んだ」時代を生きる人々は、それでもやはり、なにか拠り所を求めずにはいられません。だからこそニーチェは、まやかしに扇動され、“畜群”に成り下がらないよう、自己を保持せよと説くわけです。

そしてこれは、21世紀も同様です。いわゆる「ポピュリズム」が台頭する昨今の世界情勢を目にしていても、それはお分かりいただけるのではないでしょうか。

我々も、ニーチェから”畜群”と言われてしまわないように、強く生きていきたいものですね。

以上、『善悪の彼岸』を紹介させていただきました。結論、マルチパックアイスは、食べたいだけ食べましょう。

さーて、今日は金曜日!本能に身を任せ、存分に飲みましょう!もちろんほどほどにね!


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