やりたいことがわからなかった人間が、本音の熱量でスタートアップピッチで優勝するまでの軌跡
こんにちは!オオムラヒロキです。
プロコーチとしてクライアントさんの人生を扱うようになったので、改めて自分自身の人生を俯瞰するために、31年間の自分史を振り返ってみました。
内省が好きなので、今までも人生の振り返りを何度も繰り返してきましたが、今回約4.1万文字で人生を言語化してみると、気づいていなかった自分のパターンを見つけることができました。
キーワードとしては、
・「目的を達成するプロセスを、いかにして楽にできるか(戦略)をいつも考えている」
・「追い込まれるとパフォーマンスを発揮する」*上と矛盾するようで、実は表裏一体
・「人生で重要な判断は、直観で即決」
など
少し長いですが、1人の人生の物語として、どうぞお楽しみください。
大村拓輝、アメリカで人生をスタートする
1993年7月6日、大村家の長男としてアメリカのバージニア州で生まれた。父母僕妹の4人家族。
父親も母親も両方日本人で、僕はいわゆる純ジャパというやつだ。なぜアメリカで生まれたのかというと、大企業で勤める父親が駐在していたタイミングだったから。
父親は理系で光学系のエンジニアとして就職したものの、マーケティング/企画に移り、現在も同じ会社で働いている。母親は結婚をきっかけに製薬会社を寿退社し、専業主婦として、僕と妹を育て上げてくれた。
ただアメリカで生まれたということで、ラッキーなことに僕はアメリカのパスポートを持っている。そして、母親がプーさんのクリストファーロビンが大好き(あの優しい感じが好きらしい)なので、僕のミドルネームは、クリストファーだ。
*アメリカのパスポートを持っているしミドルネームもあるのに、英語が喋れないことがダサすぎて、大学時代にアメリカ留学に行くことになるのはまた後ほど語りたい。
そんな母親は初めての出産を海外で経験するという、今考えるととんでもないことをやってのけているが、僕を産む時は無痛分娩だったので、ピースして産んでいた。当時を振り返っても、母親はあんまり怖くなかったとのこと。僕のポジティブな性格は母親譲りなのかもしれない。
とはいえ、アメリカの時の記憶はほぼない。1歳半で日本に帰国し、幼稚園までは青葉台、幼稚園から大学までは相模原で育ったので、僕はバリバリ日本人。もっとアメリカに住んでいれば、英語の勉強に苦労なんてしなかったのにと何度思ったことか。
活発な幼少期
幼稚園では、竹馬、けん玉、駒まわしなど、日本の遊びをしっかり教えてくれるところだった。いまだにどれも得意で、けん玉はびっくりされるほど上手い。笑
ちなみに、ここで出会ったいつも一緒にお砂場遊びしていた友達と今でも親友だ。社会人時代にルームシェアする仲でもあり、先日も31歳の誕生日を祝いに行った。幼稚園からずっと友達というのもなかなか感慨深い。
人を見た目でジャッジしない癖があった
幼稚園の頃を思い返して印象に残っていることは、同じクラスの自閉症だった友達のMくん。Mくんとは意思疎通ができて、仲良くしていたのを覚えている。運動会ではMくんと一緒に走る役割で、一緒に完走することができて嬉しかった。
大人になってから知って感動したのは、彼の母親含めて誰の名前を呼んだこともなかったMくんが、初めて名前を呼んだのが僕の名前で、彼の母親からとても感謝されたということだ。今もそうだけれど、何かのレッテルで人をジャッジすることがとても苦手で、その人そのもので判断するという癖がある。
もう一つは、中国人でアトピー持ちだったRちゃん。普通に日本語も話せていたと思うんだけれど、外国人だということとアトピー持ちだということで、少しクラスから浮いていたようだ。思い返せば、遠足でのペアはいつもRちゃんだった。先生も僕が全然気にしていない感じを察して、ペアにしていたのかもしれない。
毎日遅刻ギリギリ登校の小学1年生
住んでいた地域には小学校が多く、僕は区分のルールによって、家から近い小学校を横目に通り過ぎながら、少し遠い小学校に通っていた。クラスは1学年40人弱で、2クラスしかない学校だった。
小学校1年生の頃の登校班では、ちゃんとみんなで一緒に行かずに、同い年の男友達と3人でいつも遅刻ギリギリで登校していた。寝坊しているわけではない。登校班の集合時間はきちんと守っていたので、通常15分かかる通学路を、30分以上かけて登校してたことになる。
なんでそんなに時間がかかっていたのかというと、いくつか覚えているのは、以下のようなことを通学路で行っていたからだ。
集合場所にある蜘蛛の巣に、アリの餌やりをして、蜘蛛がどうやってアリを捕食するか観察する
通学路に生えている草花を観察して、花の蜜を舐めたりする
いつもと違う道がないか模索する
3人で文字通りフラフラ歩いて、ゆっくり登校するのが楽しかった。怒られた記憶はあまりないので、遅刻はしていなかったのだと思う。小学校2年生になってから、実は朝休みという時間があって、授業が始まる前に、みんな校庭などで遊んでいるということを知って、とてもびっくりしたのを覚えている。
また僕の家は遠かったので、帰りの通学路の最後の方はいつも1人で歩くことになった。結構長い一本道で、つまらない。どうやったらこのつまらない時間を楽にできるか考えた結果、一本道を1人で歩き始めたタイミングで、家につくシミュレーションを脳内で始める。先に脳内を家に帰らして、トイレに行ったり、お茶を飲んだり、レゴを触ったり、やりたいことを妄想する。そうすると、身体は自動歩行モードに切り替わり、今歩いている現実に意識があまりなくなり、家にいることに臨場感を感じるようになる。そうすると不思議なことに、いつの間にか家に着いている感覚になるのだ。思い返すと、いつも意識的に歩いていることから気を逸らすために行っていた。
小学2年生から始まった早すぎる反抗期
自他ともに自覚があることとして、僕の反抗期は小学校2年生~小学校5年生くらいまでがピークだった。自由にゆるゆるやっていた小学校1年生から、2年生に上がって、"けじめ"という言葉が大好きで、モットーが「人のふり見て、我がふり直せ」な厳しめの先生(けじめ先生)が担任になってから、学校での集団生活を守るようにさせられ始めたのを思い出す。
その先生は、熱くていい人ではあるんだけれど、2年生の時の僕は、とても苦手意識を感じながら、学校ではいい子な自分を演じること頑張っていた。その反面、家の中で親にあたったり、妹に意地悪したりして、ストレスを発散していた。家族と旅行とかダルい。友達と遊ぶ方が楽しい。カメラを向けられたら、必ず睨む。小2だったから可愛いものかもしれないけど、めちゃくちゃ親に反抗してた。
正義を振りかざす先生への小さな反抗
2年生のあるとき学校でなんらかの出来事があり、本当は何も悪くない友達が、けじめ先生の思い込みでみんなの前でめちゃくちゃ怒られた。真相を知る僕たちは、彼はやってない!と抗議したけれど、まったく受け入れられなかった。そこで僕のスイッチが入った。彼は自分がすべて正しいと思い込んでいるような振る舞いをする。であれば、彼の指摘が誤っているということをみんなの前で何らかのカタチで認めさせたいと考えた。
どうやろうか考えていた時に閃いたのが、けじめ先生が授業の話を聞いていない生徒に対して行う、「○○くん、今先生がなんて言っていたか言ってみなさい。聞いてなかったでしょ。」という癖を利用することだ。
閃いたら即実行。僕は先生の話をめちゃくちゃ聞きながら、聞いてないような素振りをして、けじめ先生の癖を引き出した。
「大村くん、今先生がなんて言っていたか言ってみなさい。」と少し怒り気味に聞いてきた。僕の心の中は、「キターーー!!!」である。しっかりバッチリ聞いていたので、心臓はバクバクしながらも、パーフェクトな答えを出して、しっかり聞いてましたけど、何ですか?とやり返した。(結局、聞く態度を直しなさいって怒られたけど笑)みんなからもよくやった!みたいな感じになって、誇らしかったのをとても覚えている。
日韓ワールドカップの影響で、サッカーを始める
小学校2年生から社会人になってもずっとサッカーを続けてきた。始めたきっかけは幼稚園からの親友と、バスケとサッカーを見学しに行ったこと。決定的な理由は覚えていないけれど、たしか日韓ワールドカップも控えていたから、何となくバスケではなくて、サッカーにした記憶がある。ちなみに親友はバスケを選んだ。
そのサッカーチームは、4つくらいの小学校から構成されたチームで、他校の友達と繋がれたのはすごくいい経験だった。小2から始めて、足がどんどん速くなったし、そこそこプレーができるようになって、すぐにレギュラーになった。
でも、人とぶつかることとか、体を張るフィジカルなプレーが大嫌い。だからヘディングが本当に嫌で、いつもヘディングボールを避けまくってた。それでコーチにはよく怒られていたけれど、それでもサッカーを初めて3年間は本当に試合で1回もやらなかった。たしか小学校5年生になって、ある時ふと思い立ってヘディングしてみたら、思ったよりも痛くなくてそこから急に克服した。
スルーパスをチームにいた足の速い仲間に出すのが快感でたまらなかった。しかし、めちゃくちゃ厳しいパスを出すから、よくコーチから「愛がないなあ」ってフィードバックされてたのを思い出す。そのコーチの存在も今の自分を形成する上で大きな影響を与えてくれた方で、とにかくみんなに考えさせる人だった。この状況だったらどうする?ってよく聞かれた記憶がある。
そのコーチを僕はとても尊敬している。勝つことよりも、サッカーを生涯スポーツとして楽しめることを大事にしている人だった。だから型にはまらないスタイルを選んだり、どこに行っても通用する土台を作ることに注力していたのだと思う。一方、彼はずっと少年のような人で、よくガンダムのことや、鋼の錬金術師のことなどで、いっつも話が盛り上がった。今でもたまに連絡を取る仲だ。コーチなんだけど、友達みたいな人だった。
大人になってからそのコーチに言われて印象に残っているのは、僕はいつも目を見て話を聞いていたということ。人の話をしっかり聞く子で、珍しいと思ってたと教えてくれた。
たしかに今もそうだが、僕は尊敬している人の話はできるだけそのまま吸収できるように全力で目を見て聞く。情報を話している人の目から飲み込むイメージで、当たり前のことだと思っていたけれど、これも僕の特徴の一つなのかもしれない。
試合に出られるのに、仮病を使って断る
サッカーチームの試合では、一つ上の学年に呼ばれるようになった。その学年のコーチは普段はとっても優しいおじさんなんだけど、サッカーの試合になると、(愛のあるかたちで) めちゃくちゃ怒鳴る人だった。舐めた動きをすると、めちゃくちゃ怒られる。そもそもビビリな僕は、試合に呼ばれるのは嬉しいんだけど、上の学年で試合に出ることが心底嫌だった。だから、遠征とかに呼ばれても、お腹痛いとか仮病使って試合に出ないようにしてた。(だったら行くなよって今は思う。笑)
怒られるのも嫌だし、上の学年で上手い人たちの中で堂々とプレーする自信がなかった。ミスしたらどうしようっていつも思ってた。一個上の学年に呼ばれる状態で、通常の学年で試合をする時が、緊張感から解放されて、1番パフォーマンス出てたと思う。これは中学校のクラブチームでも同じだった。
探検が大好き!マンホールの下にも思わず潜入
学校が早めに終わる水曜日は、いつも友達と探検に出掛けていた。1度車で連れて行ってもらった遠い公園に、記憶を頼りに自転車で行ってみたり、公園の中のおそらく昔の防空壕のようなところに潜入したり、川沿いの排水口の中を探検したり、とにかく自転車で行ける範囲は探検しまくった。排水口探検をした結果、マンホールの下にいたと気づいた時はすごいワクワクしたのを覚えている。
一方、家ではいつもカードゲームをしていた。
探検からの帰宅後は、いつもカードゲームで1人で遊んでいたのを覚えている。僕の時代は、デュエル・マスターズか遊戯王だった。1人で2つのデッキを使って対戦しながら、どうやったら勝てるのか、そのためのデッキ構成は何が最適なのか?を追求することがすごく好きだった。
あだ名は、「かっこつけカマキリ」
サッカーチーム内で流行ったあだ名のつけあい。エロゴリラや、天パサル、ゲジマユなど、辛辣なあだ名を付け合っている中、僕は「かっこつけカマキリ」というあだ名をつけられた。たしかに髪型とか服装などにとにかく人一倍気を遣っていて、寝癖がつかない寝方を研究したくらい、寝癖とか絶対直していた僕には、ぴったりなあだ名だった。そういえば、好きな女の子にも、ナルシストって言われて、悲しかったのを思い出した。笑
小学校高学年あたりから、クールキャラをずっと演じていた。アニマックスでやってたこどものおもちゃで、クールなキャラを見て、めっちゃかっこいいって思って、彼の行動を真似してた。修学旅行もみんながこの格好をしているのに、僕だけクールに構えている。笑
中学校出だしから、生意気だとマークされる
これまた学区のルールから、同じ小学校やサッカークラブの友達が通う家のすぐ近くの中学校ではなく、少し遠い中学校に通うことになった。その学校には同じ小学校の人はほとんどいないし、小学校のサッカー友達もほんの数人しかいない中学校だった。
知らない人だらけで、ドキドキワクワクの始業式。始業式終了後にいきなり担任の先生に呼び出された。内容は髪の毛を染めていないかの確認。僕は地毛が少し茶色だけれど、染めていない。きちんと説明したら、すぐに先生は信じてくれた。
その中学は、僕が入学する10年前は市内で1番荒れていて、1Fの窓ガラスが全部割られた事件が伝説となっている。それゆえ、校則なども結構厳しかったのかもしれない。実際地域がらヤンチャな人もたくさんいた。
そんな中、学校が始まってすぐ、正門で上の学年の派手めな女の先輩に声をかけられた。ガチでビビった僕は、何て返したらいいか分からなくて、ガン無視(聞こえていないフリ)をしてしまった。そこから上の学年で、生意気なやつ的な感じな噂が周り、マークされてしまった。結果、生意気だとか、あらぬ噂を立てられたりと、危害はないんだけれど、ちょいとややこしかった。
サッカー人生で1番楽しかった中学時代
中学校に上がってからも、サッカーは部活ではなくクラブチームに所属した。このチームもいろんな学校の人で構成されるチームで、他校の友達ができるのは嬉しかったし、チームメンバーでつるむのはとても楽しかった。自宅から自転車で40分近くかけてグランドに通って、月水金土日の夕方から夜にかけて、サッカー三昧だったけれど、辛い記憶はほぼなく、いつも楽しかった気がする。とは言いつつも、自転車で行くのがだるいので、雨が降ると練習中止をいつも祈っていたけど。
中学のチームでは、上手い人が多かった。小学校時代に対戦して、苦戦させられた相手が仲間になっているのはとても頼もしかった。僕は変わらずいつもボランチかサイドハーフをやっていて、自分が走って点を決めるよりも、どうやって自分が楽をして、ボールや味方にたくさん動いてもらってゲームを組み立てて勝つかを無意識でたくさん考えていたと思う。
フォワードに野人のあだ名を持つ足がめちゃくちゃ速くて、フィジカルがとても強いTくんがいたので、しょっちゅうTくんに走ってもらって点を決めてもらっていた。アシストがとにかく好きだった。
まるで漫画のシチュエーションで、初めての彼女ができる
中学2年生になると、カップルが少しずつできて、大波に流されるようにどんどんみんなが付き合い始めた。当時かわいいなと思う人はいたけれど、ビビリだった僕は正直なところ、リスクを冒して自分から告白してまで付き合いたいと思う人はいなかった。
そんな中、色恋沙汰の情報を掌握している友達(必ずいる情報屋)から、どうやら同じクラスのOさんは、僕のことが気になっているらしいという情報をもらった。その方はとても可愛らしい方で、めちゃくちゃ嬉しかったが、おとなしい性格もあって僕は一度も話したことがない人だった。
僕は単純なので気になっていると言われると、めちゃくちゃ気になってくるが、やっぱり話す機会がなさすぎて、何も前に進まなかった。カップル爆誕ウェーブに乗り、さらにカップルを生み出したい人たちからすると、僕らの状態は焦ったかったのだと思う。
とある昼休みに別のクラスの女子から呼び出しを受けた。誰も人目がないところに呼び出されるのかと思ったら、まさかのクラスの目の前の廊下だった。4クラスしかない学年の2組だったので、いわゆる廊下のど真ん中。しかも相手は、同じクラスのOさんが目の前に立っていた。
一度も話したことのない子と、廊下のど真ん中で1:1で立たされている。しかも、野次馬も集まり始めて(情報屋の友達が配置を仕切っている)、みんなが座って僕らを囲むような状態になった。周りのガヤがうるさい中、Oさんは何も言わず、僕も緊張しすぎて何も言うことができない。1:1で立たされてから、どのくらい時間が経ったかわからないが、ついに昼休みが終わるチャイムが鳴った。先生も授業のためクラスに戻ってきて、何やってんだ〜?みたいなことを言ってくる。これでようやく解放されると思ったが、そんなタイミングで、Oさんから告白された。情けないが、僕は「はい。」しか言うことができなかった。廊下が歓喜に沸いた。先生もニヤニヤしていた。その後の授業はほとんど記憶がない。ずっとドキドキしていた。人生で初めての彼女ができた。
めちゃくちゃドラマチックな感じで付き合ったことで、これは本気で好きにならないと、と謎の使命感を感じていた。一度も話したことがなかったので、色々話してOさんを理解したいのだが、お互い緊張して全然うまく話せなかった。メールを通して少しづつ距離を近づけながら、一緒に帰ることで話せるようになってきた。僕が本気で好きになり始めてきた3ヶ月後に、突然「好きじゃなくなった」といわれて振られた。とてつもない喪失感に苛まれた。この時深く傷ついたのがトラウマで、その後高校までうまく恋愛できなかった。
やるべきことをやりなさいが口癖の父親
勉強は真面目に取り組んでいるので、成績は良かった。しかし、数学だけがとても苦手だった。小学生の頃は算数は好きだったし得意だったので、本来数学もそうなるはずだったのだが、数学の先生が少し特殊で、学年全体の平均点を30点台にしてしまうような難しすぎるテストをいつも出していた。本来好きだったはずの数学に対して、難しいという苦手意識が大きく刷り込まれてしまったのがこの時期だ。
高校受験は少しチャレンジングだけれど、市内トップの進学校に進むことに決めた。本当はもっと楽をしたかったんだけれど、トップ校と2位に結構差があって、下に行くなら、上に行きたいという気持ちが決め手となった。塾にも通って真面目に勉強をしていたと思うが、クラブチーム仲間との遊びの時間が少なくなるのも嫌で、よく遊んでいて親に怒られた。
そんな時父親はいつも「自分がやるべきことをやりなさい」と怒ってくる。結局勉強しろって言いたいのは透けて見えるのに、勉強しなさいとは絶対に言われたことはなかった。だから、やるべきことをやりなさい、と言われた時は、遊びがやるべきことだと思うから、遊んでくると言って遊びに行ってた。それに対して、なぜか怒られるんだけれど、無理やり止められたことはなかった気がする。
この言葉は、結局自分の行動に自分で責任を持てよ、ということだったのかもしれない。当時の自分は、誰のせいにもできないから、この言葉に対して不快な感情を抱いていたのかもしれない。けれども、物事を自分で決めるために大事な言葉だったのかもしれないと今は思う。
引きずっていたクールキャラからの脱却
中学校卒業に向けた、学年イベントがあった。学生が主体的に出し物を出し合う形式だったと思う。小学校後半から引きずっていたクールキャラのベールを脱ぐ瞬間が来た。何がきっかけか忘れたけれど、サッカー仲間と2人で、お笑いを全学年の前に披露することになったのだ。相方はお笑いキャラとして学年で定着しているHくん。出し物は、僕自身大好きで、当時流行っていたずくだんずんぶんぐんゲームにした。僕は金田役として、今までしまっていたおちゃらけな自分を曝け出した。クールキャラの僕が、振り切った金田さんを出したから、会場は大爆笑だった。卒業間際で、やっと少し自分を出せた。
無事に市内トップ校に合格。青春の高校生活がスタート
受験はとっても緊張したが、無事に合格して晴れて高校生になった。高校生活は本来の自分が出せて、本当に楽しい3年間だった。小中といろんな家庭環境を持ち、いろんな意味ですごく多様性がある人たちに囲まれて育った(これはこれで、社会を学ぶという意味で本当にいい経験だった)ところから、進学校として、優しい落ち着いた人に囲まれたことが大きかったと思う。
高校はクラブチームに行かずに、初めてサッカー部で活動することにした。そんなに強いチームではなかったが、部活という縦社会を経験する良い機会だと思って入ってみた。早速新入生は、本気の1発ギャグを披露して、部員として認められる必要があった。僕は1人ずくだんずんぶんぐんゲームで乗り切った。ありがとう金田さん。
僕らの学年のサッカー部は、珍しいくらいにクラブチーム出身が多くて期待された。1年生だけでの他校との練習試合では、クラブチーム出身者がリードして、結構余裕で勝てた。これはいけるかもと思っていたが、部活としての高校サッカーは、戦術がまるで違った。
ある時、顧問から好きな選手を聞かれた。
顧問の先生「大村、好きな選手は?」
僕「(当時ACミランにいた)ピルロが大好きです。」
顧問の先生「なるほど。僕たちのサッカーにピルロは必要ない。必要なのはガットウーゾだけだ。」
この会話の後に、僕は足が比較的速いことと、ボールタッチができるだけの理由でフォワードに転向させられた。僕は昔からゴールを取る感覚よりもアシストが好きだったので、フォワードは全然ダメだった。ポストプレーも上手くないし、ゴール前のキーパーとの1:1はめちゃくちゃ苦手。残念なことに決まる方が珍しかった。この時期からサッカーが難しくなった。
1年男子の半分が坊主になる
入学してからすぐの一大イベントとして、体育祭のダンスにおけるペア決めがある。僕らの学校は自分の生まれた月によって、春夏秋冬の4つチーム分けられる仕組み。ある日の朝会でチーム分けが発表され、7月生まれの僕は案の定夏組だった。朝礼が終わった休み時間で、すぐにサッカー部の友達とペアを探しに出かけようとしたら、廊下ですぐに夏組の子に声をかけられて、ペアを申し込まれ、本当はもっといろんな人を見てから決めたかったのだけれど、断れなくて秒で決まってしまった。(*結局ペアダンスを通して、この子が好きになり、告白して付き合って3ヶ月後に振られる)
また、体育祭に部活動対抗リレーという花形競技があった。そこでは各部活から選りすぐりの選抜メンバーが集い、しのぎを削る。もちろんほとんどのメンバーが高3だ。そんなリレーにサッカー部は毎年必ず1年生しか出さない。そしてそこで優勝できないと1年はみんな坊主にされるしきたりだった。健闘したが、結局僕らは3位で、みんなで坊主にした。野球部(問答無用)、バスケ部(なぜか1年だけ)、サッカー部(しきたりにより)がみんな坊主なので、学年の半分くらいの男が坊主だった。僕も人生初めての坊主になった。シャンプーがまったく泡立たないことと、自分の似合わなさが衝撃だった。
とにかく楽をすることばかり考えている
中学のサッカークラブの頃から、走るトレーニングがあった。体力をつけるために必要なのだけれど、とにかく辛い。どうやったらペースは維持しつつ楽になるのかを考え続けた結果、前を走る、ペースが合う人の背中をぼーっと見つめながら走るのが1番楽に走れることに気づいた。ぼーっと上下に揺れる背中を見つめながら、何にも考えずにそのリズムに合わせて身体を動かすと、自然とリズムがシンクロしてきて、自分の意思と体力で走っていないような感覚になる。それが楽に感じるので、走るメニューではいつも実践していたし、僕の中で楽に走る方法だった。
高校では冬に持久走大会(6.6km)が開催された。10位以内が入賞で表彰されるので、ひとまず入賞を目標に置いた。本番は入賞しそうなバスケ部の友達の後ろにずっとくっついて、序盤から8位くらいをキープしながら走っていた。その楽に走る技術を使って、ピタッとくっついて走っていた。その技術のおかげでラストスパートでまだ余力があったから、全力で追い越してみた。するとすぐ目の前に団子集団があったので、そこもぶっちぎった結果3位だった。1位と2位が陸上部だったので、なかなか素晴らしい成績だったし嬉しかった。いかに楽して勝つかを考え抜いた結果だった。
体育祭でのパンツ丸出し珍事件
体育祭の名物種目に、男子限定の棒倒しという競技があった。男は上裸に裸足で全員参加。2チームで争う形式で、敵陣地に立っている棒を倒し、先端についている旗を先に取ったチームが勝利するというシンプルなルール。
いかにして楽に勝つかを考えるのが大好きな僕は、このゲームに効率的に勝利するために、とある作戦を立てた。それはバスケ部のガタイのいいAくんを土台にして、僕が勢いをつけて背中を駆け上がり、相手の守りを超えて一気に棒にたどり着く作戦。正直うまくいくかどうかわからなかったけれど、とりあえず実行してみた。
開始の合図が鳴り、各チームの攻めが全力ダッシュで相手陣地に向かうなか、僕は影を潜めてゆっくり動き出した。ガタイのいいAくんが発射台となるのを確認して、僕は一気に助走をつけて彼の背中を駆け上った。
すると、予想以上にめちゃくちゃうまくいって、相手の守りを一気に飛び越え、すぐに棒に到達することができた!!しかし、棒にたどり着いた後のイメトレが足りなかった。思ったよりも棒が太くて手が滑りやすく、旗を取るまでに一瞬もたついた。
そうこうしている間に、守りをしている敵の中で、「やばい!!あいつのパンツを脱がせ!!!」という合図が駆け巡った。
写真にバッチリ納められているが、ズボンが脱がされて、僕の赤パンが露わになり始めているところ。ここからさらにエスカレートし、実は半ケツになった。僕の息子が向いている先は、応援するみんながいる方向だった。旗を取るか、息子を取るかの葛藤ののちに、もうどうしようもなくなり、僕は息子を守ることを選択してしまった。その間に、相手に先に旗を取られて負けてしまった。
かと思いきや、パンツを脱がすという反則行為が運営側で確認されて、判定が覆り見事勝利した!!!
結果としては嬉しかったが、一気にあっという間に旗を取れていたら、どれだけ素晴らしかったことか・・・悔やまれるが、めちゃくちゃ印象に残る出来事だった。ちなみにこの2枚は卒業アルバムに掲載されていた。笑
浪人しないことがモチベーションだった受験勉強に、火がつく
サッカー部では、6月あたりに開催された最後の大会で、強豪校に2回戦で当たった。結果はしっかり負けて、僕の高校サッカー人生が終了。しかし、全然泣けなかった。一つ上の先輩とやっている時の方が楽しかったからかもしれない。正直、これでようやく勉強に専念できるという気持ちで、名残惜しさなどは全くなかった。
ここから本格的に受験勉強が始まった。最初はとにかく浪人しないことがモチベーションだったが、とある番組がきっかけで転機が訪れた。
それは、極楽とんぼの加藤さんがMCを務める先輩ROCK YOUという番組。各業界の先輩方が出演し、仕事を語る内容だった。いろんな世界が知れるので好きでよく見ていたところに、ゲストとして佐藤可士和さんが出演した会があった。
彼が語る仕事が衝撃的だった。世の中に、ロゴをデザインするという仕事があることにとても感動した。人々の印象に残る代表的なものを作るという仕事。こんな面白い仕事が世の中にあるのか!!と目から鱗だったのを覚えている。
その後、親にロゴデザインの仕事はどこに行けばできるのかを聞いたら、広告代理店だと教えてくれた。さらに広告代理店はどこに行くのがいいのかを聞いたら、電通だと言われた。そして、塾の先生に電通に行くにはどの大学に行くのがいいのかと聞いたら、早慶以上、と言われ、早慶以上に行くことにこの時に決めた。(よくよく考えたら、ロゴデザインをするなら、美大だよな・・・)
それからは、リアルに10時間以上勉強する毎日。けれども全然苦ではなかった。点数が上がっていくことがゲーム感覚で面白かったし、参考本や授業によって、どんどん知識が吸収されていく感じも好きだった。わかることが増えることの楽しさがわかったのがこの時期だったと思う。
唯一の息抜きは、ご飯食べる時に見ていた「水曜どうでしょう。」大泉洋さんやミスターの掛け合いなど、本当にしょうもないことで、笑えるのが良かった。本当の意味で息抜きになっていた。ありがとう、大泉洋さん。
慶応は小論文を勉強しなければならず面倒だったので、早稲田にターゲットを絞った。それからは筆ペンで、「早稲田合格」と書いて、壁に貼っていた。毎日早稲田に合格した時のことをイメージしながら勉強してた。今思い返すとゴールの世界側に移動して、勉強していたのだと思う。とても大事なことをやっていた。
やり切った高校生活
高校最後の文化祭。サッカー部恒例の出し物で劇をやった。後にGoogle Japanに新卒で入社した友達がストーリーライティングを行い、壮大な修学旅行事件をテーマにした。
僕の役はチャラいパイロット(笑) 当時、オリラジの藤森慎吾さんのチャラキャラが大流行していて、彼をモチーフにしたパイロットだった。僕は学校では面白いキャラという定着がなかったので、脚本を担当した友達としては、滑るところという設定だったんだけれど、自分で言うのもアレですが振り切った演技で、ドカンドカン受けた。ありがとう、藤森慎吾さん。
後夜祭では、サッカー部、野球部、帰宅部で構成したバンドを組んで発表した。僕は楽器ができないのでボーカル。後々知ったこととして、3年間フルコミットした軽音楽部は、数組しか出られなくて、ぽっとでの僕らが後夜祭の舞台で演奏するということは、何人かから反感を買っていたらしい。けれども、出し物として何をやっても自由な場なので仕組み上は問題ない。サッカー部のネタで爆笑をとりつつ、バンドもやり切って、高校生活最後のイベントは終了した。
念願叶って早稲田に合格。広告研究会に入るが・・・
晴れて早稲田の社会科学部に合格し、大学生活をスタートした。(ちなみに日本史の試験が難しすぎて全然わからなかったので、ほぼ勘でマークシートを塗りつぶした。運が良かったとしか思えない・・・)
佐藤可士和さんの影響から、広告業界に携わるために広告研究会に入った。一応広告のこともやるけれど、実態は飲みサー要素強めだった。酔っ払ったことがない僕は、飲み会で頭がおかしくなる同期たちを見てとっても嫌だった。
そもそも神奈川の実家から大学に通っていた僕は、片道1時間45分かかるので、終電が早い。路頭に迷うのも嫌だったので、最初の方は飲み会では飲めないキャラを演じていた。合宿に行った時は、ドクターストップを受けたってよくわからん嘘をついて乗り切ったことも覚えている。学注コールとか、最初は新鮮で面白かったけれど、1ヶ月もすれば飽きた。飲み会を不毛だと感じてしまってからは、あんまり飲み会には参加していなかった。
そんな広告研究会が本気を出すのは、年に一回開催される早稲田祭。3年生が企画を練り動かしつつも1、2年生が主役となり、大きなイベントを実行する。僕たちは「自信」というテーマで、土屋アンナさんと大道芸のストリートパフォーマーをゲストに呼んだ600人規模のイベントを企画した。
そのイベントでは僕はMCを務めた。映像製作チームや渉外チームなどメンバー各自が本気で作り上げたイベントは会場満員の大成功だった。1年生でこの大役をやり切って、広告研究会にはある種燃え尽きてしまった。
アメリカ留学へ。常識がぶち壊される
サークルに燃え尽きた後、アメリカ国籍があるのに英語が話せないことが嫌だったので、留学を決意した。広告研究会をやめて、資金を貯めるためのバイトとTOEFLの勉強に勤しんだ。
留学先は募集タイミングの関係で、アメリカのオレゴン州ポートランドに決めた。治安がいいらしいくらいの下調べしかせずに飛び込んだら、本当に素晴らしい街だった。2013年頃からすでにサステナビリティ先進都市として有名であり、僕の今の事業につながる原体験となった場所でもある。
留学先では学校の近くの寮を選んだ。ルームメイトは、クエート生まれのインド人。大企業幹部クラスの父を持ち、とても裕福な家庭に育った彼は、インターナショナルスクールに通っていたおかげもあってインドアクセントはそこまで強くなかった。
当時彼は25歳で同じ大学の院に通うエンジニアだった。一方僕は20歳でアメリカではマイナーと呼ばれて、法律上お酒を飲めない立場だった。日本と比べてお酒に対する取り締まりが厳しいアメリカで、21歳未満と21歳以上が同じルームメイトになることは、本当に珍しいことだった。
留学した初日に、彼とビールを飲みながら語り合った。アルコールが入ると英語を間違うことへの恐怖感が緩み、英語がわかるし話せるようになる。衝撃的だったのは、インドでは23歳の女性は必然的に結婚する必要があるとのことで、当時彼は25歳で、彼女は23歳。結婚を選ばずに留学に来たことは、彼女と別れなければいけないということを意味していると言っていた。このご時世で年齢によって結婚がほぼ強制されることがあることに驚いた。
彼とは文字通り親友になった。お互い留学生として友達がいなかったので、毎日のように一緒にいた。ジム行ったり、ご飯を食べたり、金曜日は必ず家でパーティーしたり。僕らの部屋はみんなの溜まり場になっていて、鍵をかけることは基本なかったし、管理人からいつもマークされていた。うるさすぎて500文字の反省文を書かされたこともあった。
ちなみに初日は僕とルームメイトがビールを飲みながら、いろんなお互いの話をしているところに、向かいの部屋のウズベキスタン人のパーティー大好きな女の子がウォッカのボトルを持ってきて人生初のショットをした。記憶が飛んで、人生最大の二日酔いになり、翌日の留学生向けガイダンスを全て休んだ。それが留学生活のスタートだった。
毎週の金曜日の夜は、平日必死に勉強している学生たちのための時間。インド人、メキシコ人、ウズベキスタン人などの友達たちとよく外にご飯を食べに行った。けれどもマイナー(21歳以下)な僕は外でお酒が飲めない。最初は僕のことを気遣って、ご飯の後に一緒に家で飲もう!と言っていても、お酒が入ってみんな酔っ払ってくると、マイナーな僕が入れないところに行きたくなってしまい、直前でいつも僕は参加できないことになることがよくあった。最初はまじかよ!って思って裏切られた気持ちがあったけれど、だんだん慣れてきて、彼らの行動が急に変わっても全く動じなくなったし、何も思うことはなくなった。
留学中に日本では起こり得ないカオスな日々を過ごすことによって、僕の中で、土壇場力というか、包容力というか、動じない力が養われた。それくらいみんな好き勝手で、人生楽しんでいるメンバーだった。
Portlandの合言葉は、KEEP PORTLAND WEIRD (ポートランド、ずっと変わり者のままでいようよ)。文字通り街にはいろんな変わり者がいた。特に衝撃を受けたのは、平日の昼間から全身金色のタイツで、路上で全力でギターを演奏している人。心から楽しそうに演奏をしている。格好は全身タイツ。しかも金色。キャラが強すぎて、演奏は全然入ってこなかったけれど、街の人は何も気にしていない。あくまで平常運行のよう。この時に、ああ、こんな生き方もありなんだ。って思ったのがとても印象に残っている。
留学終盤、進路について考える
交換留学プログラムは通常6月に終わる。プログラムが終了するとみんな少し旅行したりしてから帰国する。帰国すると待っているのは、就活だ。
留学前の僕は、敷かれたレールに沿った人生を歩み、いかにして年収1,000万円を楽に最短で稼ぐか、みたいなことを軸にして生きていた。そのための留学という手段でもあった。しかし、留学を通した多くの異質な出逢いによって、僕の価値観は大きく変わっていた。
大学院のために進んできたルームメートや、MBAに通う28歳の日本人、パイロットを目指して勉強し直す30歳のアメリカ人、路上の金タイツ男などの生き方に触れて、自分の人生を主体的に作っていくということがとても大事だと気づいた。
だからこそ、プログラム終了後にそのまま日本に帰り、就活を始めると、敷かれたレールに乗っかる人生になってしまうので、絶対に嫌だと思った。
幸いにも僕はアメリカのパスポートがあるので、いつまでもアメリカに滞在できる。しかも大学の後期が始まるのは10月。実質4ヶ月の自由時間があった。
振り返ってみると、ポートランドでの生活は、僕にとっては大きな挑戦でありとてもドキドキしたけれど、早稲田生専用のヘルプデスクがあり、日本からの仲間もいて、とてもセットアップされた環境にいたことに気づいた。
であれば、知り合いゼロ、コネクションゼロの行ったこともない土地に行って、自分を試すのはどうか?という気持ちが湧き上がった。Portlandは西海岸なので、では反対側に行ってみよう、ということでNYに引っ越すし、現地企業でインターンをすることに決めた。
ゼロからの挑戦。NYへ引っ越す
当時留学先で仲良くなった好きだった子とは、日本に帰ってから付き合う約束だった。けれども僕がNYに引っ越す選択をしたことにより、彼女と揉めた。Steve Aokiのフェス会場で、お互いお酒を飲んでたせいもあるけれど、僕の人生史上最大の大喧嘩だった。めちゃくちゃ好きだったけれど、どうしてもそこNYに行くということだけは譲れなかった。
新しい世界に飛び込んでみたかったのもそうだが、後々この出来事を振り返ってみると、NYで経験値を積むことで、就活をせずとも楽に企業に入れるだろうという狙いがあったことに気づいた。就活のプロセスで楽するために、大好きな彼女と大喧嘩してまで引っ越すという決断をしていた。
引越し初日から大ハプニング発生
まずは住む場所を決めようということで、NYへ移住する前にネットにあるルームシェア掲示板的なサイトを物色していた。せっかくならば同じ大学生が近くにいた方がいいと思い、コロンビア大学の近くの部屋を選んだ。どうやら日本人学生もいるようで、この人と繋がればいろんなご縁が生まれると期待していた。
引っ越し当日重たいスーツケースを運びながら、NYに降り立ち、直前にもらっていた住所をmapで調べると、なんとコロンビア大学側とは真反対の、ブラックカルチャーで有名なハーレムだった。
あれ、話と違わないか、と思いながらもとりあえず滞在先に向かった。宿に到着すると、オーナーはペルー人。韓国人とアメリカ人のルームメイトがいて、3人でのルームシェアとのことだった。あれ、日本人学生は?と聞いたところ、ここにはいないとのこと。場所といい、ルームメイト情報といい全然違う。いろいろおかしいなと思いつつ、他にいくところもなかったので、とりあえずそこに滞在することにした。
荷物を置いて、着いた初日は、たまたま同時期にNYに遊びに来ていた友人とディナーの予定があった。ディナーをして家に帰ると、まさかの鍵が開かない。どうやっても開かない。オーナーとも連絡がつかない。初日からハーレムで野宿はやばいと思い、先ほどまで食事をしていた友達に連絡した。
それだったら泊まりに来てもいいよということで行ってみると、まさかの友人の父親がとある銀行の支店長だった。NY支店長の家は、本当にいろいろすごかった。バスタブが金色だった。その日はなんとかハーレムでの野宿を凌いだ。
(翌日オーナーに鍵の開け方を改めて教わったところ、ほぼ蹴りを入れないと開かないドアだった。しかも自室に日光が入らない部屋だったので、オーナーと口論になりながらも、1週間で部屋を逃げるようにして退去し、安心の日本人が運営するシェアハウスに引っ越した。)
世界を回す、金融のギラギラした世界に憧れる
この引っ越し騒動がある中で、滞在2日目に以前ボストンで1度だけお会いした先輩がNYに研修に来ているということをFacebookの投稿で知り、連絡して会いにいった。
彼は日本の会社に就職して、新卒研修に来たとのことだったが、実はそれは外資系投資銀行であるモルガン・スタンレー、ゴールドマンサックス、シティバンクなどの新卒1年目がみんなNYに集まっての合同新入社員研修だった。
まったく無関係の僕なのにその人が誘ってくれて、研修生の交流ディナーに参加させてもらった。そこから3次会くらいまで着いて行った記憶がある。それまで投資銀行が一体何をしているのかを知らなかったけれど、先輩たちの話を聞いて、世界を回している感じがとてもかっこよかった。Portlandのスローライフからいっぺん、NY滞在初日と2日で、金融のど真ん中、ギラギラした世界を知ってしまった。なんとも派手な世界だった。
NYのスタートアップで、金融コンサルタントデビュー
日本人シェアハウスに引っ越してから生活が落ち着き、インターン探しを始めた。金融業界のギラギラ感を知ってしまった僕は、金融を軸にインターン探しを始めた。いくつかの会社でFinancial Consulting Internというのがあったので、応募したところ2社受かった。ともに無給インターンだった。
とにかく経験値を積みたかった僕は、2つの会社のインターンを同時で走らせてみた。1つは、ヒスパニック向けにスモールビジネスを始めるために融資を始めるサービス。会社規模は30人くらいだったが、あんまりオフィスに人はいなかった。代表は、「パナマ運河の第3閘門が完成すれば、ビジネスが根本から変わる!!!」と毎日同じことを言っていたのが印象的だった。当時は言っている意味がよくわからなかったけど。
僕よりも少し年上のヒスパニック系の人と一緒に動きながら、スモールビジネスを立ち上げている人たち(個人経営店舗をやっている人たち)に、飛び込み営業を行う毎日だった。全然話が通じず、まったく売れない。というか、彼らは融資を必要としてないし、融資がそもそもどういうことなのかもよくわかっていない。僕と一緒に動いていた先輩も全然売れる感じがしなかった。
もう一つの会社がアメリカ人の代表とその奥さんのロシア人の副代表の2人が立ち上げたスタートアップ。アメリカ人のHRやアクセンチュア出身のロシア人などが集まっていた。当時は英語力の問題で何をやっているのかよく理解できなかったが、とにかく指示された顧客リストを作成する毎日だった。
自分の英語力も上がってきたタイミングで事業内容を改めて聞いてみると、カード社会のアメリカでは、クレジットカードスコアというものがすごく大切であるが、学生時代の滞納などで、スコアに傷がつき、社会人となってきちんと稼げるようになっても、スコアが低いので、家や車のローンが組めないことがよくあるらしい。
そんな顧客に対して、クレジットカードスコアをブーストさせて、ローンを組めるようにするというコンサルティングサービスだった。サービス内容を聞いて、なんというグレーなサービスだと思って呆れたのを覚えている。メンバーみんなはとってもいい人だったし、すごく素敵なシェアオフィスで働かせてもらったけれども、サービスにしっくりこなくて、予定よりも早めに卒業した。
社会を回すのは金融だ!と思って飛び込んだところは、たまたますごく変な場所で、なんというか、こういう仕事をしてお金を稼いで成り立つビジネスもあるのか、というとても勉強になった一方、働くってこういうことだっけ?と不思議な気持ちにもなった。
無事帰国。就活をしないことを決めた
働くということはどういうことなのか?という問いが頭に残ったまま、時間切れで日本に帰国した。自分が何をしたいのかよくわからなかったから、このまま就活するのは正直まったくやれる気がしなかった。
ただ、とにかく僕の中で消去法的に決まっていたことは、1)スーツを着ない 2)満員電車に乗らない 3)心から楽しいと思えることをする の3つだけだった。これを実現するためには、通常の方法で就活をしてはいけないと思ったから、帰国後は、就活をしない決断をした。
大学の授業で、面白いクリエイティブエージェンシーに出会う
帰国後に英語が衰えないように受講していたGlobal Mfarketingという講義で、外部講師としてUltraSuperNewの代表Tomoさんがやってきた。
UltraSuperNewは原宿発の独立系クリエイティブエージェンシー。彼らが手がけた広告案件のことだったり、メンバー半数以上が外国籍の方で、外資系をメインクラインとにしている雰囲気を聞いて、そうだ、僕は広告に興味があったんだ、と思い出した。
原宿のオフィスではギャラリーを持っているということで、すぐに履歴書を持ってアポなしで突撃してみた。その日はたまたまギャラリーは閉鎖していて、オフィスとして人が作業してた。ちょっと怯んだけれど、ドアを開けて、インターンしたくて来た、と伝えると、HR担当者が履歴書を受け取ってくれて、翌日代表のTomoさんとMarkとのインタビューを設定してくれた。直観的に動いたら、すぐに長期インターンが決まった。
インターン中は、なんでも屋としてお手伝いした。特に多かったのは翻訳作業。翻訳内容は外資系クライアントから送られてくるブリーフを、日本人チーム向けに日本語にする作業。今ならchat gptなどで一撃だけれど、当時の自動翻訳の精度は恐ろしいほど酷くて、人の作業が必須だった。ブリーフを日本語にしながら、キャンペーンを作る時はこんなプロセスで進めるんだ〜ととても勉強になったのを覚えている。Beats、Redbull、Heineken、Photoshopなどの案件が多かった。
UltraSuperNewでインターンをしているときに、マーケティングは事業主側と広告代理店の2つの側面があることを知った。クリエイティブエージェンシーとして広告代理店側を経験したので、事業主側も携わってみたいと先輩に相談してみたら、Audi JapanのDigital Marketingの有給インターンを紹介してもらった。すぐに受けてみたところ、推薦もあって受かった。
社会人になる前に、本気で一回社会人をやってみた
当時の僕は、まずは働いてから本当にやりたいことを見つけようと考えていた。Audiでのインターンはフルタイムでのフルコミットも可能だったので、大学を休学して週5で社会人を先に体験してみることに決めた。
当時のデジタルマーケティング部は上司と僕しかいない素晴らしい環境だった。しかもその上司が、デジタルマーケティング界隈でトップリーダーの井上大輔さん。彼からプロフェッショナルな仕事とはどういうものなのかを徹底的に叩き込んでいただいた。
彼のすごいところは、本当に僕のことを学生だと思わずに、1人のプロフェッショナルとしてみてくれるところ。その分鬼のように厳しかったけれど、彼からいただいて、今でも大切にしていることがたくさんある。Audiに入ったタイミングがほぼ同時だったのと、井上さんと僕の2人チームだったので、0から戦略を作るところを一緒に伴走させてもらったのは、本当に貴重な学びだった。
さらには、ほぼ毎日一緒にランチに行き、仕事以外のことを色々話した。くだらない話から、哲学のことや政治や宗教のことまで色々教えてもらった。ディスカッションする時はもちろんいつも論破される。学生の時にこんな貴重な時間を過ごせたのは本当にありがたい経験だった。
Audiに入って7ヶ月くらい経った頃、その後のキャリアをどうするか考え始めた。確証はなかったけれど、このままAudiに入ることもできそう。一方、デジタルマーケティングはとても楽しかったけれど、車という商材にいまいち熱中できない自分がいることに気づいていた。Audiはもちろんかっこいいけれど、BMWもメルセデスもそれぞれかっこいい。高級車は自分にとってまだ自分ごと化が難しく、そこに悩んでいた。
ある時、上司が何気なくいった一言がとても印象に残っている。僕らはインポーターだと。本国のチームが必死に作ったプロダクトを輸入して、日本の市場に売り込む。実はやっていることは輸入ビジネスなんだと。
この時閃いた。なんて効率のいいことをやっているのだと。出来上がった素晴らしい商品に味付けをする役割。その味付けを日本人好みに味付ける。素材がとてもいいので、少しの味付けで十分売れる。こんなに(語弊があるかもしれないが)楽なのに、インパクトが大きくて評価される仕事があるんだと、ロゴデザインの時に感じた興奮を思い出した。
僕は、最小限のインプットで、想定よりも大きなアウトプットが出ること(英語でいうとDo more with less)が大好きな人間だった。要するに、楽して想像以上の結果を出すということに興奮するし、それをするために無意識で全力を注いでいる。外資のマーケティングというインポートビジネスの面白さは、まさにそこに惹かれていた。
楽することに興奮する自分は、一生懸命やっていなくてみっともないとか、社会人としてダメなんじゃないかなど、このことを認めるまでに正直葛藤があった。けれども、ずっと無意識で考えてしまっていることだから、仕方がないし、止めようと思っても止められない、どうしても滲み出てしまう部分こそ自分らしさである。これを認めることができたからこそ、自分に対する解像度を上げることができた。
Crazyな、魂が震える出来事が起こる
Audiで僕がインターンをしている時期に付き合っていた彼女が、業界初のオーダーメードweddingを展開するCRAZYでインターンをしていた。そのインターンでは、学生に向けたイベントを主催しており、僕はそこで代表の森山和彦さんに出会った。彼が語る、働くということ、CRAZYが大切にしていることが、ドンピシャで心に突き刺さった。
当時彼が放った言葉で印象に残っているのは、人間性とビジネスを両方追求するということ。地球が喜ぶ仕事をすること。社員の健康が第一であり、お金はその次であること。あの時の震えは今でも覚えている。
そのイベントで心を打たれた僕は、CRAZYが3泊4日のブートキャンプを企画していると聞いて、すぐに参加を決めた。この時も直観で飛び込んだ。そしてこのブートキャンプがとんでもなかった。
今まで背負った鎧をすべて脱ぎ捨てた3泊4日のブートキャンプ
イベントで森さんの言葉に感銘を受けて飛び込んだブートキャンプ。コンテンツの最初は2チームに別れて宝探し。お題は「勝ちにこだわること」。定義が世界を変えることを学んだ。
続いて、鶏の屠殺。初めて食べるために生き物を殺すということを経験した。あの時の震えは忘れない。鶏が最後にあげる命の叫びは、その後ずっと脳内に鮮明に残り、しばらくスーパーに並ぶお肉を食べることができなかった。
そして最後がスタンドアッププレゼンテーション。5人1組で、1人が前に立ち、残りの4人が座って聞くスタイル。聞いている4人は話者のプレゼンに心の底から感動したら、立つ。そして、4人全員が立つまで終わらない。
プレゼンテーションのお題は、「自分が何者で、これからどこに行きたいのか。」僕は聞き手が理解しやすいように話を構築するのが得意なので、プレゼンは得意分野だった。しかし、頭で考えた言葉は真なる意味で感動を与えることができない。
自分の番が回ってくる。その度に何度も考えて、話して、考えて、話してを繰り返した。しかし、どうやっても4人の感動を引き出すことができない。数時間以上はやっていた気がする。その間ずっと内省しながら考えた。
ふとした時に、自分の身体にまとわりつく鎧のようなイメージが浮かび上がってきた。この鎧があるから、本音にアクセスできない、だから心を揺さぶる言葉が出てこない。そのことに気づいてからは、イメージ操作で、鎧を外すように心がけた。
そうして出てきた言葉は、”生きたい”という言葉。どうしてこんなにも生にしがみつくのかというと、”大村拓輝”という人間を愛しているから。どうしてこんなにも自分のことを愛せるのかというと、両親をはじめとするたくさんの人からの愛をたくさん受けて育ったから。こんなにも愛を受けて育った人間を、大切にしないことなどできないと。
この言葉が出てきた時には、自然と涙が溢れていた。小学校から泣くことはよくないと蓋をして、泣かないように生きてきた。そんな自分が、こんなに泣けることに自分自身が心底驚いた。このプレゼンで、みんなは感動して立ち上がってくれた。
ブートキャンプによって、自分の本音にアクセスしてから、世界の見え方が変わった。自分のことを愛しているから、生きたい!ということは、自分のことを愛している主体が別にいるのではないかと考え始めた。
考えれば考えるほど、よくわからなくなっていたのだが、ふと何か"別のもの"があって、大村拓輝という器に今入っていると考えるとすごくしっくりきた。大村拓輝を愛するということは、大村拓輝という人生を最大限真っ当するということ。
今までは、自分=大村拓輝という関係だった。今もそうではあるし、気を抜くとすぐに忘れてしまうのだけれども、本来は生きるということは、別の何かが、大村拓輝という器に入って、人生を、命を、真っ当するということだと思った。(そんな気がしている)
その感覚をこの時に掴んでから、世界の見え方が変わった。とにかく、何が起きても面白くなった。
きっかけはFacebook広告。新卒でNike Japanへ
あまりの感動体験だったので、CRAZYのファンになった。一方、今後のキャリアを改めて考え始めてみたが、何を成し遂げたいのか?に対する明確な答えはまだない。けれども、この命を使って、より良い世界を作ることに貢献したい、という漠然とした想いを口にするときに、その言葉に嘘はなくなっていた。
CRAZYのいろんな先輩方に話を聞いた。一方、Audiでのデジタルマーケティング業務も同時並行で行っていた。ある日のインターンからの帰り道。オフィスから品川駅までは10分弱歩く。何気なくみていたFacebook広告で、Nike Japanのマーケティング本部が2016年卒の新卒採用を開始したことを知った。
直感的に、これだ!と思った。マーケティングは面白い。けれども商材が心から湧き上がらなかった僕は、小学校からサッカーをやっていて、Nikeが大好き。しかもスパイクに関わる仕事をしたいという夢があった。そんな大好きなブランドでマーケティングができるなんて、まさに僕が望んでいることだと思った。
初めて本気の就活が始まった。最初のお題は、「あなたのJUST DO IT STORYを教えてください。」内容はNYで挑戦したことを書いた。無事書類選考と1次面接を通過し、2次先行の3週間のインターンが始まった。
3週間のインターン先行に、3日しか行けない制限が課せられる
しかし、当時フルタイム契約としてAudiで働いていたため、インターンを休んで参加することはできなかった。当時の会社側に状況を話して、2週間くらい休ませてもらえるかな〜と思って相談したら、3日間あげるから、そこでなんとかしてきて、と言われた。
え〜!3日間しかないの・・・と絶望したが、どうしようもない。ライバルは3週間参加しているインターンで、3日間でどうやって成果を出すかを考え、やり切る必要があった。
Nikeでの長期インターンにはメンターがそれぞれついてくれた。僕は、とにかく業務時間外にメンターに頼ることを戦略の一つとしたのと、3日間にできる限り情報を引き出せるようにいろんな人との面談を詰め込んだり、メールで聞きたいことをたくさん質問して、返ってきた連絡にはとにかく返信のスピードを意識した。
そうして3週間のインターンを3日間だけ参加し、最終プレゼン課題の準備に取り掛かった。プレゼンには、Audiで実践していることを存分に取り入れた。なんとなくずるい気がして井上さんには相談しなかったけれど、マーケティングの考え方はパクリまくった。笑
一流選手のモーションなどをAIにトレーニングさせて、モーションセンサーを搭載したトレーニングアパレルとセットで購入させることで、トレーニングの学習環境をナイキが根本から変えていこうという提案。デジタルマーケティングでターゲティングを行いつつ、プレイヤーの独自AIモデルを売るという新しいビジネス商材を構築することで、Nikeがさらに素晴らしいブランドになると提案をした。
個人的に今見返しても、なかなか面白いものだったと思う。おかげさまで、3日間しか行けなかったが、晴れて内定を獲得した。Audiのインターン中に電話がかかってきて、非常階段で受け取って、結果を聞いた時には、飛び上がるほど嬉しかったのを覚えている。
晴れて社会人へ。いきなり夢が叶ってしまう
就活をほとんどせずに、結果として想像もしていなかったキャリアがスタートした。就活を辞めると決断し、1)スーツを着ない 2)満員電車に乗らない 3)心から楽しいと思えることをするという3つの軸は無事達成された。
仕事が本格的に始まり、マーケティング本部の中で、僕はBrand Digitalと当時呼ばれていたデジタルマーケティングの部署に配属された。
最初の仕事はサッカー担当として、サッカースパイクのローンチイベントの企画。めちゃくちゃ嬉しいし、楽しかったのだけれども、初っ端からスパイクに携わるという夢が叶ってしまった。
Nikeに、"Product is King"という言葉がある。プロダクトが良ければ、すべて解決するという意味。素晴らしいイノヴェーションを搭載したシューズを、誰もが憧れるスーパースターが着用していれば、勝手に売れる。僕の仕事は、それらの素晴らしいプロダクトを、日本市場に綺麗にフィットするように味付けや顧客体験を整理する役割だった。その意味では、まさにDo more with lessな仕事でありながら、新卒1年目から年収もそれなりに高く、めちゃくちゃありがたいことに願ったり叶ったりな状況になってしまった。
ちなみにNikeへの新卒入社は、20年ぶりということで、僕含めて3人の同期はすごく重宝されていた。たくさん可愛がられたし、すごく期待されていたと思う。新卒1年目から花形のマーケ部署への配属。すごく誇らしい反面、いつも脳裏にはNikeの看板を外した自分に何が残るのか?という問いがずっとあった。
Nikeあるあるの大組織変更。マーケ本部の1/3がクビになる
働き始めてから1年弱たったある日、Nikeあるあるの大きな組織変更が起きた。その組織変更で60人いたマーケティング部は、20人ほどがクビになった。普通の企業ならなかなかあり得ないことだと思うが、Nikeでは4年に1度くらいのリズムで起きる。組織の新陳代謝がいいことが、Nikeの強さだと思った。僕はその組織変更で、慣れ親しんだデジタルマーケティング部を離れて、リテールマーケティングのRetail Brandと当時呼ばれていた部署に配属された。
何がわからないかもわからないリテールマーケティング。デジタルと違い、店舗ビジネスは関わる人がとんでもなく多い。労力もかかる上、人と人との関係性がものをいう。アメリカ本社との調整、日本社内でも営業、マーチャンダイジング、店舗などの各部署とのハブとなり、店舗のマーケティングを動かす必要がある。とにかくステークホルダーが多く、どこかを無視して企画を走らせると、聞いていない、と企画が潰されたりする。
デジタルマーケティングというほぼ帰国子女しかいない狭い世界で楽しくやっていた僕からすると、いきなり日本文化のところに放り出されて、本当に苦戦した。
誰が何を気にしているかを把握して、自分は求められる立ち振る舞いをする必要があった。自分がやりたいようにやらせてもらっていた環境から、関係各所を調整する作業がメインになって苦しかったし、単純にめちゃくちゃ忙しかった。
店舗マーケティングの何が正しいのかわからない。かといって、勉強する対象となる本やセミナーなども全然ない。当時の上司にとっては僕が初めての部下で、体系的に物事を教えるということに慣れていない。わからないことが、わからないという状態で、上司に詰められるというのは、本当に辛かった。
ある時、1:1で上司から手紙をもらって、泣いた。それがきっかけで、上司とは腹を割って話せるようになってから、徐々に信頼を築きながら、仕事の感覚も掴めるようになってきた。慣れるまでに本当に時間がかかったし、こんなに自分の無力感を感じたのは久しぶりだった。とても向いていないことをしていたけれど、ここで日本文化的な、義理人情的なことをたくさん学んだし、そういう人にも可愛がってもらえるようになったのは、大きな成長だったと思う。
いつか夢見た理想が現実になったけれど、どこか満たされない日々
2018年頃から、幼稚園からの幼馴染と学大でルームシェアを始めた。趣味でキャンプしたり、ランニングチームに所属したり、DJを始めたり、ホームパーティを開催したりとこの時期にご縁がとても広がったこともあり、めちゃくちゃ充実してた。
またコロナのタイミングで、再度大きな組織変更が訪れて、デジタルマーケティングのマネージャーに昇格した。20代半ばにして、狙っていた年収1,000万円も超えた。
しかし、仕事のことでいつも頭の片隅にあったのは、これは自分じゃなくてもできるのではないかということ。Nikeという看板がなくなった僕には何も残らないという不安。
たしかにプロジェクトのオーナーもしくはメンバーとして実行したのは僕だけれど、例え明日から僕がいなくなったとしても、誰かが代わりに実行することができる。属人的ではない組織としては素晴らしいが、どこかでずっとモヤモヤを感じていた。
このモヤモヤの原因は、自分が旗を立てて取り組んでいるのではなく、必要な作業をこなす毎日だったからだと気づいたのは、それからだいぶ先の話。
非日常の旅を求め、ユジノサハリンスクへ
少し話は脱線するが、2019年に男3人でロシアのユジノサハリンスク(旧樺太)へ旅行に行った。日露戦争後から、第二次世界大戦まで樺太として日本領だったため、当時たくさんの製紙工場が建設され栄えていたらしい。ロシア領となり、日本企業が撤退した製紙工場の廃墟が、そのまま残されていること知り、ずっと廃墟を見に行ってみたかったのだった。
ユジノサハリンスクには写真家の友達と一緒に行ったので、帰国後は祐天寺で知り合いのギャラリーを借りて、人生で初めて写真展を共同で開催した。
仕事もプライベートも充実しているのに何かが足りない。その何かとは?
いつか夢見た生活が手に入っている。とても嬉しいことなのだけれど、何かが足りなくて、どこか心の奥底ではモヤモヤしていた。同時に、ずっと本当にやりたいことがわからないという焦燥感にも駆られていた。
自分が本当にやりたいことって何だっけ?
人生をかけてでも熱中できるものが見つかったらどれだけ幸せだろう。
そんなことをずっと考えて続けていた。その答えを解決するために、自己啓発本を読んだり、ワークショップなど参加したりしたけれど、どれも現状を劇的に変える起爆剤にはなりえなかった。
コーチングと出会い、人生が動き出す。
そんなモヤモヤを抱えていた時期に、Mindsetの李さんとのご縁によって、コーチングという概念に出会った。李さんが運営するオンラインサロンMindset Schoolに2020年の立ち上げ時期に入会し、初回の講義で学生時代にCRAZY森山さんの話を聞いて自分の中で湧き上がった衝撃が、また訪れた。
その初回講義は、瞑想とゴールについての解説だった。
李さんの言葉のすべてが衝撃的だった。すぐに理解できないことだらけであったが、李さんの言っていることに、本質と答えがあると直感的に判断して、彼の講義を何度も見返した。
僕に足りなかったのは、"ゴール"だったんだ!!!
ようやく、長年探し求めていた答えが見つかった。
ゴールは、自分が心からやりたいことで、現在の生活の延長線上では辿りつかないところに、オールライフ(仕事/趣味/人間関係/社会貢献/知性/家族/健康/ファイナンス)で設定する。
逆に人生のゴールがないと、現状維持がゴールとして設定されてしまう。だからこそ、現状に満足はしているのに、変化や刺激がないからモヤモヤしていたんだと気づいた。
ゴールをつくるために教わった瞑想法を毎日実行していると、なぜかいつも見る景色があった。それが綺麗な川が流れる、木漏れ日が溢れる深い森の中だった。色々調べてみるとその景色は、屋久島のように思えた。
瞑想で見た景色を、実際に見にいく
早速、当時付き合っていた彼女(今の奥さん)と、瞑想で見た景色を見に行くために屋久島に旅行に出かけた。瞑想で見た景色に近いところを探しに苔むす森に入った。まさに瞑想で見た景色の中を散策していると、あることに気づいた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自然の世界は、目に見えるもの、目に見えないものが深く関わり合い、動物の死骸などは土を肥やし、その土で育った植物が、また動物の食べ物になる。そうやって、何もかもが美しく循環している。
しかしその一方、人間の世界は、美しく循環していない。
人間界と自然界の差異は何か?という問いが湧き上がる。
特に違和感がある点が、"ごみ"という概念だった。
だから、"ごみという概念をなくす"ことをゴールに置いた。
自分が人生かけて取り組みたいテーマに出会った瞬間だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ちなみに屋久島でプロポーズをした。人生のパートナーとの決断の場所にもなり、屋久島にはとても感謝をしている。また改めてゆっくり訪れたい。
ゴールが決まると、飛び込んでくる情報が変わる。
ごみという概念をなくす、というゴールが決まると、脳内に飛び込んでくる情報が変わる。今まであまり気に留めていなかった、サーキュラーエコノミー(循環型経済)というキーワードが急に気になり出した。
とにかくサーキュラーエコノミーにまつわる情報を調べまくっていると、どうやらオランダやヨーロッパが進んでいることを知った。いろんな記事を読んでいる中で、IDEAS FOR GOODの以下の記事を読んで、デジタルの力で、廃棄物をマッチングさせるサービス(Excess Material Exchange)の素晴らしさに感銘を受けて、これがやりたいんだ!とまた電撃が走った。
早速、日本に類似サービスがないか調べてみた。そうしたら一つもない。チャンスだと思った僕は、日本にこのサービスを持ってこようと決めた。
そこからは、あの手この手でExcess Material Exchange(通称EME)の代表にコンタクトを取った。そうしたらlinkedinで返信が返ってきた。
そこで僕は思いを伝えるために、30分のmtgをセットしてもらい、僕が何者でどこを目指しているのかをプレゼンするアポイントを取った。EMEとしても、スタートアップとしてまだまだ立ち上がり2年くらいのタイミングだったため、Nike Japanとの接点ができたということで、日本への市場展開に向けて、連携していこうということで話がまとまった。そこから僕はNikeで働きながら、EMEの日本展開に向けて動き出した。
順調すぎる滑り出しをするも、何をしたらいいのかわからなくなり躓く
EMEを日本に持ってくるのが決まったはいいものの、僕は何をしたらいいのか全くわからなかった。新規事業を開発するスキル0。サーキュラーエコノミーの知識0。コネクション0。という何にもないところからのスタートとなった。
留学先のポートランドで出会ったMBAホルダーで、いつか一緒に事業をしよう!と話していた先輩にまずは相談した。一緒に立ち上げようとなり、事業計画など頭だけ使う作業から始めてしまった。今考えると、考えながら走らずに、考えすぎて、行動ができない状態に陥っていた。ごみのことを何も知らない2人が、ネット上で調べたことであれこれ考えても、何にも進まなかった。
たった15分のコーチングで、人生が変わる
そんな新規事業立ち上げに躓いていたタイミングで、Mindset Schoolにて、李さんの15分コーチングを受けさせてもらえるチャンスを手にした。
このたった15分のコーチングが、僕の人生を変えた。
自己紹介と、ゴール設定とその後の動きを簡単にシェアした後に、コーチングが始まった。
セッションの中では、
起業家はWILLで旗を立てて、それを実現できる仲間を集めるのが仕事
自分がスキルを身につけてから事業を始めるならば、何年後になるのか?
何もできないことが、武器になる
Act, Act, Act → KNOW!行動をし続けることで、わかることがある
近い人に話すのではなく、スキルのある人を巻き込むこと
ごみに詳しい人、100人会っておいで!!!
という感じで、とにかく自分自身の認知が揺さぶられまくる時間になった。
何も持っていないので、動けなかったところから、何も持っていないからこそ、余白だらけで頼ることができるという認識に変わり、そこからごみに詳しい人に話を聞き始めた。
100人に話を聞く中で、奇跡の出会いが訪れる
コーチングセッションのおかげでやることが明確になったので、とにかく行動数を増やした。当時twitterでごみについてやサーキュラーエコノミーについて発信している人にDMを送り、zoomでの打ち合わせを設定してもらい、自分がやりたいことをピッチして、ディスカッションしながら、廃棄物についていろんなことを教えてもらった。
僕自身は、廃棄物やサーキュラーエコノミーについて無知だし、熱い想い以外何も持っていなかったけれど、こんなにも周りの人が協力してくれることにとても驚いたし、人に頼るということを新しい次元で理解することができた。挑戦している人に対して、世界は優しいのだと心の底から感じた。
それまで出会った方達は僕が日本に実装したい"デジタル技術を活用して、廃棄物をマッチングさせるというコンセプト"に対して、「いいですね。」「面白い」「とても必要だと思う。」「こうしてみるのがいいのではないか。」などの反応がほとんどだった。
あるとき、サステナビリティに取り組む大手広告代理店のお偉いさんが、ごみのことならこの人に話したほうがいい、と紹介してくれた方と打ち合わせの機会をいただいた。いつものように僕がコンセプトをピッチすると、開口一番に
「私は、15年以上前からそれに取り組んでいます。」
とコメントが返ってきた。
15年以上前からずっと、このコンセプトに取り組んでいる人がいたのか!!!!!と、すごく感動したのを覚えている。
彼は自称ごみオタクと名乗るほどごみについて詳しく、環境対策コンサルティングを生業としている方だった。実績としては、ミスチルの櫻井さんと小林武さんが手がけるap bank fesの環境アドバイザリーとして立ち上げメンバーとして関わっていたり、東京オリンピックの組織委員会でも、新しい廃棄物管理について仕組みづくりを考案していたりと、まさにごみの領域のプロフェッショナルだ。
初めての打ち合わせから、何度も会話を重ねるうちに、法律的な視点や、処理方法の観点から、日本の廃棄物業界がいかにユニークであるのかを知り、単純にオランダからサービスを輸入するだけではうまくいかないことがわかってきた。
彼自身はそれまでずっとコンサルを生業にしてきたが、サーキュラーエコノミーの市場の高まりを感じ、今まで温めてきた自社事業を立ち上げるために、まさに会社をスタートアップ化しようとしていたタイミングであった。
その彼がRECOTECH代表の野崎さんだ。結果的に野崎さんと意気投合し、オランダのサービスを持ってくるのではなく、自分らでサービスをつくることに決めた。RECOTECHは2020年末に第三者割当増資を実施しスタートアップとして立ち上がり、最初はNikeをやりながら複業として関わり始め、2021年に正式にジョインした。
Nikeを辞める決断をした当時は、オリンピックを目前に控える時期。オリンピックのプロジェクトメンバーにも選んでもらって、いわゆる花形のビッグプロジェクトをやらせてもらっていた。けれども、正直気持ちはサーキュラーエコノミーのことでいっぱいだった。RECOTECH側の資金調達も完了したので、スタートアップに飛び込むことを決めたが、一部のNikeの人には、オリンピックが終わった後ならレジュメにかけるし、後少しだけ残りなよと引き止められることもあった。けれども、この”自分たちのサービスで、サーキュラーエコノミーを社会実装する”というワクワクを抑えることができなかった。
ゴールが決まると、住む場所も変わる
結婚とNikeを辞めてスタートアップに飛び込むという大きな変化があった2020年にもう一つ大きな出来事があった。それは東京から河口湖への移住。山梨出身の奥さんが、故郷に帰りたいということがきっかけではあったが、コロナによりリモートワークが主流になったことで移住が可能になった。
リビングコストは東京に比べて圧倒的に下がりつつも、ベランダからは富士山が望めて、サウナ付き大浴場がついているリゾートマンションに引っ越したことで、QOLが爆上がりした。
ちなみにこのマンションは、下見に行ったその日に購入を決めた。こういう大事な大きな決断はいつも即決。これは僕の行動パターンの1つだ。実際に最高な部屋だったし、僕の申込の30分後に別の人が申し込んだというタッチの差で勝ち取った。
僕自身は、漠然と老後はゆっくり自然に近いところで農業でもやりながら住みたいと思っていた。しかし、ゴールを設定したことにより、自然に近い場所で、自然と人間がより調和する社会をつくることが当たり前だと感じて、この決断に踏み切ることができた。
仕事の面白さの次元が変わる
RECOTECHにジョインして、ごみをなくす、という果てしないゴールに向かって進む日々が始まった。BtoBビジネスなので、とにかく人と会い、ビジネスを創っていく。すべての出会いが新しいビジネスの種になることが面白い。
またメンバーはたったの3人なので、何か物事を始める上で、今までのように複雑な承認プロセスはない。メンバーで話して、自分で決めて実行する動き方に変わったのも、とても大きな変化の一つ。
今まではグローバルカンパニーで海外の人と仕事をしていたという認識だったけれど、外に出てみると、どれだけ閉じられた世界で過ごしていたのかを知った。特にマーケティングという社内と一部の外部の広告代理店やクリエイティブの方とやり取りをするだけという特殊な世界で生きていたことに気づいた。
政治や法律、日々のニュースが、こんなにも自分のやっているビジネスに直結していることを知り、本当に働くことが面白くなってきた。
立ち上げ1.5年で大ピンチ!!!
社会課題は、経済合理性が働かないから、社会課題として認識される。お金が稼げるのであれば、とっくに誰かが取り組んでいるからだ。その意味では、ごみ問題はまだまだ社会課題であった。
ごみが資源に生まれ変わるプラットフォームを作る。そのコンセプトは素晴らしいし、世の中に必要な仕組みだ。しかし、まだ世の中にマーケットがない。東京都をはじめとする行政を巻き込みながら、感度の高い大企業と手を組んで実証事業を立ち上げてきたが、なかなか結果がついてこない日々であった。
そのような状況の中、1番最初の出資先のある商社に大きな組織変更があった。好意的だった部長や担当課長がいなくなり、新しい組織になったことで、会社の方針が変わった。
それにより出資2年目で、株を買い取って欲しいと申し出がきた。契約書上それが可能な旨が明記がされていたが、契約当時の担当者はこの事案は発生することはないからと言っていた部分だった。口約束というものはなんの効力もないことを思い知る。僕たちに株を買い戻す体力はまったくなく、RECOTECHは潰れる未来しかなかった。大ピンチである。
捨てる神あれば拾う神あり
そんな大ピンチになる少し前に、CIC Tokyoが主催する資源循環に特化したピッチイベントで優勝することができた。このピッチに参加をしていたとある投資家が僕たちの事業に強い興味を持ってくれた。トラクションがまだまだまだの中で、僕たちが描く未来にbetしてくれて、商社の株を買い取るかたちで、倒産の危機を乗り越えることができた。まさに捨てる神あれば、拾う神あり。ヒリヒリした日々を過ごした。
娘が生まれる。次世代のためにという言葉に重みが増す
2022年9月に娘が生まれた。出産方法について考えた時に、まずはじめに思ったのは、「立ち会いたい!」ということ。しかしながら、通常の病院での出産では、コロナにより立ち会いができない。
そんな状況で、どうしたもんかなと思っていたところ、とある先輩から助産師さんのサポートのもと自宅出産を行ったという体験談を伺った。そんなことできるのか!と急に道が拓けて、山梨での助産師さんのネットワークを紹介いただき、色々調べたのちに素晴らしい助産師さんに出会った。
いろんな都合で自宅出産ではなく、「オープンシステム」という病院の一室を間借りして、出産するスタイルを採用した。自宅検診から病院での検診まで、同じ助産師さんが付きっきりでついてくれて、妊婦さんが何か気になることがあればいつでも相談できる、とっても心強い、まさにバディ的な存在。人柄も最高に良かった。
助産師さんによる実体験に基づくアドバイスは何よりも貴重で、納得感しかなかった。情報に血が通っているとはまさにこのことだなと思った。
そしてこのオープンシステムでは、僕も立ち会いができて、奥さんは布団の上で楽な体勢で産むことができるし、万が一何か問題があったら病院なので、ある程度対応可能という、これまたいいとこ取りのシステムだった。このような選択肢があることはあまり知られていないので、ぜひ広がってほしい。
事業の飛躍へ!スタートアップの祭典、IVS Launchpadに挑戦
実はIVS出場のきっかけは、とある投資家と面談している時に、IVS出てましたよね?って謎に勘違いされたこと。IVSが何なのかわからなかったので調べてみると、国内最大級のスタートアップの祭典であり、起業家の登竜門としてLaunchpadがあることを知った。
たまたま応募期間中だったので応募してみてたら、運よくファイナリストに選ばれた。IVSでピッチをすることで登竜門をくぐり、ようやく初めて"スタートアップ"という世界を垣間見た。実際に投資家のRECOTECHに対する認識が変化したり、会場で見てくれていた大手企業へのサービスの導入も形になり、僕たちの会社の次元が変わる経験だった。
一方、確実に優勝だろうと思っていたのにも関わらず、結果として入賞さえできなかった。僕たちがやっている事業ほど、社会的意義のあるものはないので、優勝しかない、という僕自身の甘い考え方によって、本気で勝ちに行くことにコミットできていなかったのが原因だった。
師匠にもその後バッサリ切られて、猛省した。正しく周りを頼ることができていなかった。
コーチングアカデミーに入学。さらに人生が加速し出す
人生に熱狂しきれずもやもやしていたところから、コーチングを受けてゴール設定をしたことにより、人生が動き出した。そんな経験があるからこそ、その価値を享受するだけでなく、提供できるようになりたい。そんな想いが沸々と湧き上がってきたタイミングで、アカデミーからご縁をいただき、Mindset Coaching Academyに入学した。
アカデミーでは、会社の代表、ベンチャーの役員、大企業のマネージャー、獣医師、政治家など幅広いプロフェッショナルが集まり、コーチングの理論を学びながら、自分自身がその理論を実践して適応させ、たったの半年間でモニターセッションとしてお金をもらって初対面にコーチングセッションを提供するところまでやり切る。涙あり笑ありの本当に大人の青春だった。
アカデミー期間中は、今まで仕事に重きを置きすぎていたことを内省し、趣味のゴールを設定して、動かしてみた。
音楽と映像のど素人が、たった4ヶ月でAudio Visual個展をやり切る
趣味のゴールとして、プロコーチの力を借りて、自分が作りたい世界観を言語以外で表現することを設定し、音楽も映像も作ったことがなかったが、4ヶ月後に映像作品の個展を開催することを決めた。
その際に作り上げた作品がこちら:
この個展を開催するという決断をした当時の自分は、人生で一度も音楽を作ったことがないし、ましてや映像などもってのほか。そんな中で、ゴール設定をして、まずやることは決断すること。
個展を開くと決めたので、作品もないし、作り方さえわからない中で、まずは場所と日付を決める。それが決まれば、必ず個展を開催する未来が来る。怖いけれど、ここで逃げられない状況を作ることが、決断(決めて、断つ)をするということ。決断が先、プロセスが後。多くの人は準備ができてから発表するという順番をとるが、全く逆。自分が決めた本当に掴みたい未来に向けてまず飛び込む。飛び込んでからやり方を考えることこそ、人間のクリエイティビティが発揮される条件である。
場所と時間が決まれば、あとはスタートアップに飛び込んだ時と要領は同じで、とにかく人に助けを求めまくる。いろんな人に話を聞きに行き、アクションを取り続けていると、なぜか音楽の師匠と映像の師匠が現れ、彼らの力を最大限借りて、あの映像作品が出来上がった。
当時の詳細な心象風景はこちらにまとめてるので、興味があったらぜひ。
人間誰しもそうかもしれないが、この経験を通して僕自身は、追い込めば追い込むほどパフォーマンスが出るタイプだと気づいた。逆に追い込まれていないと、楽な方向に流れてしまう弱さがある。追い込まれている時はとても辛いが、このやり切るプロセスを通じて、また新たな次元に行ける素晴らしさがある。まさに、天国と地獄を両方味わう感覚だ。
無事卒業。晴れてプロコーチへ
アカデミー卒業間際は、個展と卒業課題が重なり、どうやって乗り越えたのか記憶があまりないほど熱中して没頭した。そんな非日常な突き抜けた日々を過ごした結果、普段のスタートアップの仕事がそのレベルでやれていないことに違和感を覚え始めた。
スタートアップに飛び込んで2年ちょっと経ったタイミングで、さらに生きている次元をupdateしたく、お世話になったプロコーチに、アカデミー卒業と同時にコーチングをお願いした。また僕自身も5人のクライアントさんを持ち、プロコーチとしてもデビューを果たした。
コーチングにより、仕事の楽しさがさらに爆上がりする
コーチングを提供しながら、自分自身がコーチングを受けるという日々が始まった。コーチングを受けたことにより、今まではスタートアップの1社員という立場に留まっていたアイデンティティから、サーキュラーエコノミーを社会実装する第一人者に書き換わった。
そうすると何が起きるかというと、目の前の仕事がどれだけ可能性に満ちているか気づき始める。1つわかりやすい具体例を挙げると、2023年からヴィッセル神戸の環境対策アドバイザリーを務めているが、アイデンティティが変わったことで、どうやったらヴィッセル神戸を世界一環境先進的なチームにできるか、という視点で物事を考え始めた。
そうすると自然と、現在の世界一環境に配慮したチームが気になってくる。調べてみると、Sports Positive Leagueという、スポーツクラブのサステナビリティをスコア化してランキングする会社があり、そのランキングによって、遠藤航選手が所属するリヴァプールFCとトッテナムFCが世界一グリーンなチームとして君臨していることがわかった。
そうとわかれば実際にどんな取り組みをしているのか、この目で確かめるしかない。2023年の年末にこのことを知ったので、2024年中にイギリスに視察することを目標に決めた。
ゴールを設定し、動き出すととんでもないご縁が生まれる
そんなことを考えていると、年末に突然Allbirds Japan社長のミツさんから連絡があった。
この連絡がきっかけで、年明けの1/10に井本さんと打ち合わせをした。本来はバドミントン協会のサステナビリティの相談であったが、僕がヴィッセル神戸の事例などをシェアしていると、mtg中に突然井本さんが
「2月にリヴァプールFCの視察を企画しているのですが、一緒に来ますか?」
というオファーが来た。2週間前にリヴァプールFC視察に行くと決断して、どうしようか考えている矢先に、まさかのリヴァプールFC視察を企画している方に出会ったのだ。もちろん答えはYES!このご縁には、僕自身、本当に驚いた。
急遽決まったイギリス出張。想像を超えたご縁が生まれる
井本さんとの出会いで急遽決まったイギリス出張。蓋を開けてみると、日本財団が主催するツアーだった。招待されていたメンバーは、
Jリーグサステナビリティ執行役員:辻井さん (元patagonia japan社長)
Bリーグ執行役員:櫻井さん
オリンピック協会理事:杉山さん
そして、僕。(資源循環アドバイザリーという立場で参加させてもらった。)
リバプールFCやウィンブルドン、ワールドラグビーなどのさまざまな最先端のサステナビリティの取り組みをこのメンバーで肌で感じ、とても貴重な機会になった。みなさんと道中ずっと一緒だったため、すぐに仲良くなることができた。海外の非日常が持つ力だと思う。
このご縁をきっかけに、帰国後はJリーグの他クラブ、Bリーグ、そしてバドミントン協会の資源循環アドバイザリーを担わせていただくことになった。本当にご縁に感謝だ。
このように自分自身に対する認識 = アイデンティティが変わるだけでさまざまな変化が起こる。それがコーチングの本当に面白いところだ。
国内最高峰のピッチイベント、ICCスタートアップ・カタパルトでの優勝
アイデンティティが変わり、行動が変わることで、現実も変わってくる。サーキュラーエコノミーの第一人者ならば、大きなスタートアップピッチイベントで優勝するのは当たり前なはずだ。
事前応募にて選抜された、成長が期待されるアーリーフェーズのスタートアップ10社が、7分間のプレゼンテーションを行い、日本を代表する起業家・経営者や投資家等で構成された審査員40名の評価によって、順位が決定するイベントであるICCスタートアップ・カタパルト。
昨年のIVSでの学びをフルに活かして挑戦し、優勝することができた。
優勝プレゼンはこちら:
プレゼンに魂を込めた。本気でやる切ることができた。
ぜひ観ていただけると嬉しいが、IVSとは別人のようなプレゼンテーションをしている。前回のIVSは初の大舞台、いつもの自分らしくやろうとカッコつけたことにより、熱量込めて話すことをしなかったのが大きな反省点だった。今回は、死ぬ気で勝つためにやれることを全てやりきり、熱量で挑んだ。これぞ本気というやつ。
プレゼン後の振り返り投稿をシェア:
振り返り投稿にも書いているが、優勝に向けて本気を出すためには、とにかく人に頼りまくった。ピッチを最高の内容にするために、ICC代表のマサさんとのピッチブラッシュアップ、師匠である李さんとの壁打ち、投資家とのピッチブラッシュアップ会の開催。またプレゼンテーションのデリバリーを上げるために、パーソナルジムでの体幹トレーニング、プロ舞台俳優からのボイストレーニングまで、やり切れることを人に頼ってやり切った。本気を出すということは、目的を達成するために誰かの力を借りてやり切るということだと気づいた。僕の挑戦をサポートしてくれた皆様、改めて本当にありがとうございました。
ICCで優勝したいま、RECOTECHはまたさらなる期待と社会的責任を背負った。優勝した数日間は、安堵と喜びに浸っていたが、それがじわじわとプレッシャーに変わり、優勝後の数週間は焦りに焦っていた。「国内最大級のごみが資源に生まれ変わるマーケットプレイスを創る。」この言葉を世の中に曝け出したことは、ポジティブなことであり、多くの人に僕たちが何を目指しているかを伝えることができた。しかし、その目標地点と現状の差分(ギャップ)が大きすぎるがゆえ、すぐに結果を出さないといけないという状況からの焦燥感がずっとあった。
1ヶ月ちょっと経った今も焦りはあるが、そんな焦りとかどうでもいいからやり切るだけのフェーズに入ったという感じだ。高い山を登るには、着実に山頂に向かって1歩を進めるしかない。(と言いながらも、どうやってヘリコプターで一気に山頂に行けるかもずっと考え続けている笑) そもそも、登りたい高い山が存在していること自体がありがたいことであり、そこに仲間やいろんな人を巻き込んでいくことが好きなのだから、これが望んでいた人生だと、改めて気づくことができた。僕は今まで登りたい山=ゴールを探し続けていた人生だったから。
「国内最大級のごみが資源に生まれ変わるマーケットプレイスを創る。」という旗を立てて、サーキュラーエコノミーど真ん中を突き進むことは未来の自分との約束である。また新たなご縁を手繰り寄せて、仲間を頼って突き進むだけだ。
最後に、いつか思い描いた理想の未来が手に入り、モヤモヤしているあなたへ
ここまで長い文章に付き合っていただきありがとうございました。
自分のために自分史を振り返り、生き様そのものを世の中に曝け出してみました。
何か繋がるものを感じたら、ぜひお気軽にXやFacebookでDMください!
ご連絡をお待ちしています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?