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ウクライナ・戦禍の人々③(2023年8月〜取材/広河隆一)

5回目のウクライナ取材は、2023年7月から8月にかけておこないました。取材の中心はいつものとおりハリキウ州と東部ドネツク州です。今回は特にトラブルが多く、戦況も膠着していて、そのため待機時間が長くなりました。

しかしそれだけに、この戦争のことを考える時間があったように思います。

戦争状態が長期化することは、さまざまに人びとを苦しめています。私は死亡した兵士の写真を撮影したのですが、それをウクライナ人が見るとどのような反応があるか気になりました。それでフェイスブックに書いた文章をあるウクライナ人に見てもらったところ、次のような感想が届きました。

「確かに刺激的で、読むのはつらいですが、そういう事実も知らせて伝えることもとても大事だと思います。特に戦争が長引くにつれて、兵士の死は“当たり前”のように統計として扱いがちなので、一人一人の死も大きな悲劇であることの理解を深める話だと思いました」

しかし私自身、自分の写真を見ると、本当にこれが伝えたかったことなのかと、自問することがよくあります。そして先日、「自分はこういう写真を撮らなければならなかったんだ」とショックを受けた写真に出会ったことがありました。でもどうしてそれが自分にはできないのか、と問い詰めても答えは出ません。

この戦争は多くの深く重い問いを投げかけ続けています。これまで私が持っていた戦争についての考えも、何度も覆されました。

自分の年齢を考えると、もう現場には戻れないかもしれませんが、内容はまだまだ旅半ばの取材です。ご意見をお聞かせくだされば幸いです。

2023年9月3日 キーウで   
広河隆一

※各写真はクリックすると拡大して見られます。


※ウクライナの人々の救援のためにこの写真を役立てていただける場合は、ご連絡ください。これらの写真を無料でご利用いただけます。
※Якщо ви можете долучитися до порятунку українських людей, будь ласка, зв’яжіться зі мною. Ці фото можна використовувати безкоштовно.


A ミサイル攻撃

  • 01

2023年8月14日深夜23時半ごろ、ウクライナ東部のドネツク州クラマトルスク市の私の宿舎から車で数分のところが、ミサイルに攻撃されました。当初は一帯が封鎖され、立ち入り禁止に。後に軍関係の場所ではなかったため封鎖は解かれました。私はその前に警察の許可を得て現場に入りました。
  • 02

現場は、民間の大規模食品倉庫と、多くの自動車部品店や修理店が集まった場所でした。
  • 03

大型のミサイル2基が撃ち込まれたといわれましたが、この時はまだわかりませんでした。
  • 04

圧倒的な火の勢いに、開始された消火活動は、なすすべがないように見えました。
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自動車部品販売店のオーナー家族が、当直社員の行方が分からないと探し回っていました。
  • 06

鎮火し始めたのは夜明け近く、消火によるというより、燃えるものが燃え尽きたからだと感じました。
  • 07

明け方、軍の爆発物専門チームが、現場に入りました。右の人が手に持っているのは、見つかったミサイルの破片です。爆発は8月14日午後11時半ごろで、撮影は15日0時ごろからです。 警察による一帯の立ち入り禁止措置は、最近のミサイル攻撃で、爆撃の30分後に第2波の攻撃が行われ、救援活動に駆けつけた人々や警察に大きな犠牲が出たためだと思われます。
  • 08

この攻撃から2か月足らず前の6月27日、クラマトルスク市ではミサイルによって、人気のピザ店と周辺の店が攻撃され、11人が死亡、61人が負傷。死者のうち少なくとも3人が子どもと伝えられています。街は、プーチン大統領が、今回の戦争で解放することを理由としている。「ロシア語を話す人びと」が住む土地です。

B ダムの決壊

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ロシア軍は、ウクライナ東部のドネツク州の占領地から撤退した時、ダムを破壊しました。後のカホクカのダム破壊の時、ロシアがダムを破壊するわけがないという報告もありましたので、その前の例を報告します。
  • 02

ロシア軍は空と陸からダム爆破を試みましたが、なかなか壊れず、攻撃は3回にわたったといいます。ダムの水門2か所が破壊され、ダム湖の水はほとんどすべて流れ去りました。
  • 03

ダム破壊跡に残る爆発物危険マーク。ロシア軍撤退の時に仕掛けた爆弾が残っていると言われています。

C ニューヨークのミサイル攻撃

  • 01

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子ども部屋です。周囲の破壊跡を歩き回りましたが、軍事目標は何も見つかりませんでした。
  • 03

D 塹壕制圧訓練

  • 01

軍事訓練も実践に即したものになってきています。これは敵の塹壕を制圧する訓練です。(ウクライナ第57大隊=大隊の要請で記入)
  • 02

塹壕に入った兵士。
  • 03

教官は実弾を、兵士たちの近くに撃ち込みます。実践の時に、兵士たちが恐怖で身をすくめて動けなくなることを避ける訓練です。
  • 04

手榴弾も爆発させます。訓練でも気を抜くと、死につながります。
  • 05

塹壕制圧の訓練の最後は、負傷者救出訓練です。
  • 06

塹壕制圧作戦には、小型爆弾を装着したドローンを飛ばして、目標を破壊しました。

E 戦車部隊

  • 01

林の中、天敵のドローンの目に留まらないように、あちこちに戦車が隠されています。
  • 02

ほとんどこの基地にある戦車はT62という戦車です(第17戦車大隊)。
  • 03

この戦車の司令官は22歳の若者。みんな若い人が司令官になっているといいます。
  • 04

内部は身動きができないくらいで、右上にある細長い明るい部分の下半分が外を見る隙間です。
  • 05

この日は戦車の修理に明け暮れました。この戦車はラジエーターの故障だといいます。
  • 06

これも戦車の修理です。
  • 07

同じ戦車に乗る3人組。

F 長く続く反転攻勢

G 兵士の死

  • 01

前線の救急基地に最前線から運び込まれた兵士の遺体。ドローンの攻撃を恐れ、移送は深夜におこなわれることが多いといいます。
  • 02

前線の救急基地で救急車に移され、深夜の真っ暗な道を走り、少し安全なところにある市の病院の遺体安置所に運ばれます。
  • 03

軍医が遺体の検査をし、その後、大都市の病院で解剖検査され、被害の状況と死因が突き止められ、そのうえで家族に引き渡されると聞きました。
  • 04

2人目の兵士の遺体が運ばれてきました。地雷処理班の兵士で、仕掛けがあったのか、腹部でその地雷(多分対人地雷)は爆発しました。
  • 05

死者は美しい顔をしていましたが、顔は発表しないことになっています。腹部から大腿にかけて激しく損傷していました。私は靴にシャッターを切りました。まだ家族も彼の死を知らされてないに違いありません。

兵士の死

ウクライナ東部で、夜から翌朝、空が明るみを帯びるまで、死んだ兵士たちが私の心を占めていた。

その日私は救急医療の取材をするつもりで、救急車の配備された前線基地にいたが、そこから数キロ離れたころに展開する最前線の塹壕基地から運ばれてきた人は、すでに遺体となっていた。 本来なら負傷兵は、ここから救急車に乗せ換えられて、軍医とともにスタビリゼーション・センターと呼ばれるいわば野戦病院に運び込まれることになっている。その取材のために、私はここに夜中に待機していたのだ。 日中だと最前線から出る車をロシア軍のドローンが狙い、さらにロシア軍がウクライナ軍基地のありかも察知する可能性が高いからだった。だから負傷者の現場からの運び出しは、ドローンに発見される可能性が少ない夜に行われることが多いという。

私は防弾ベストとヘルメットを着用して、救急車に乗って、真っ暗になった道を移動した。 負傷者の受け渡しをする場所は、攻撃されたときに対処するため、野外となっていた。

しかしそこに運び込まれた人は、すでに遺体となっていた。 当直の医師は、簡単な検査をした後、兵士たちに指示して彼を黒い遺体袋に入れて、救急車に運び入れた。そして救急車は急発進した。

私は黒い遺体袋のすぐ前に座った。舗装されていない道を高速で走るときに、黒い袋が大きく揺れたが、兵士が中でもがいているようには思えなかった。しかし彼はその揺れによって、言葉ではない何かを伝えているように思えた。私は彼が発信する何かを見逃さないよう、ずっと目を凝らして見ていた。

遺体安置所のある病院まであっという間に着いたように思えた。5分くらいに感じた。それが実際は30分ほどかかっていたことを知ったのは、戻りの救急車が走るときに時計を見ていたからだ。

救急車は数十キロ離れた都市の病院の正面を通り過ぎ、その裏にある遺体安置室の前で止り、黒い袋が開けられた。

彼の胸には、小さな穴が何カ所も空いていた。軍医は銃撃を受けたのだろうと言ったが、私はクラスター弾にやられたのではないかと思った。足には止血帯を巻いたままだったから、彼は攻撃を受けて、しばらくは息をしていたに違いない。彼の体はみずみずしく見えた。 片手はだらりと担架からおろしていた。 死後硬直はまだ進んでいないと見え、手だけでなく、体の柔らかさを感じた。

彼は目を閉じていた。医師が彼の背中を検査するために、動かした時、彼の体と顔は私の方を向いた。そしてその時、彼の目が開いた。 私はそれまで彼は私を見ていたように思い、驚いた。しかしそれは美しい目だった。私は彼に見入られたように思った。 しかしその時、医師が気づいて、彼のまぶたをそっと撫でて、目を閉じさせた。

そして彼の遺体袋は閉じられ、番号が書かれた。 このあと彼は、数時間かけて都市の病院に運ばれ、そこで解剖検査を行うことになると聞いた。

戻りの救急車の中で、私は彼の遺体があった場所を見つめていて、彼の家族は彼の死をまだ知らないに違いないことを考えた。彼は20-30代に見えたから、子どもがいたとしても、小さいだろう。その子を寝かしつけようと、妻は何も知らず添い寝をしているかもしれない。それなのに私が彼の死を知っているということに、私は罪悪感を感じ、その時初めて心にこみあげてくるものを感じた。 

基地に戻っても、みんな顔をこわばらせていたが、次の犠牲者が運びこまれるまで寝室に横になり、仮眠をとった。私はひとり眠れず、台所の机の前に座っていた。前線では光は漏れないように、完全に目張りがしてあり、真っ暗闇の地上で、あらゆるものが息をひそめるようにしていた。私は、自分の生の1ミリも離れていないところに死の世界が取り囲んでいるように感じていた。 そして私は私を見つめる目を思い浮かべた。静かな世界だった。

そして2人目が到着した。それは地雷処理をしていた兵士の遺体だった。地雷に何かの細工がしてあったのかもしれない。彼の顔にも上半身にも傷は見えなかった。美しい穏やかな顔だった。この証言が、いつか遺族の目に留まり、少しでも心の衝撃が軽くなるようにと思う。

しかし彼の下半身が地雷の爆発を受け止めた。 それは「損傷が激しい」などという言葉では語ることのできないすさまじさだった。 「死者と向き合う」という言葉をあざ笑うような無残さで、医療スタッフも、兵士たちもみな息をのんで、その場所を見ないようにしていた。そして会話はみな小声だった。

私は、救急車での搬送の間、彼の遺体袋とは向き合うことができなかった。検査の時も、ファインダー越しでさえ、見ることができなかった。 私は今、心の中で彼に謝罪している。彼の表情が穏やかだったということは、彼は苦しむ間もなく即死したということになる。と繰り返し考えた。あるいは地雷が作動して爆発までの短い時間に、彼は自分の体で、周囲の誰かを救おうとしたのかもしれない。 そしてやがて時間をおいて、私はロシア兵の遺体にも、少しでも思いやることができるようになるかどうかということも、自分に問うている。

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