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にもかかわらず、人は誤変換し続ける

デジタル迷宮で迷子になりまして 第5話

最近では、著名人のテキストが編集者の手を経ることなく世の中に発表されることが圧倒的に多くなっている。Facebookの長文投稿やnoteなど、手軽に書ける場所が増えたことによってブログ文化が再興している雰囲気もある。

そんな中、目に留まるとガッカリするのが「にも関わらず」という誤記だ。どんな名文を読んでいても、この言葉が出てくると一瞬テンションが下がる。これは単純な誤用で、無理やり漢字にするならば「にも拘わらず」となり、大多数の人が読めない。編集者なら、読めない漢字は避けて別の言葉に置き換えるか、俗に言う「ひらく」という処理をしてひらがなを使う。

この「にも関わらず」が成立する状況を無理やり絞り出すならば、「AとBの両方に関わらない」という話をする際に「Aには関わらず、Bにも関わらず」という表記は成り立ちそうだが、かなりのレアケースだ。要するに「にも関わらず」と漢字で書くべき場面は、世の中にほとんど存在しない

にもかかわらず、最近になって「にも関わらず」と書く人が目立つのはなぜなのか。実は「関わる」が雑誌や新聞などで漢字で書かれるようになったのは最近の話だ。2010年に常用漢字表に加えられたため、漢字表記するべき言葉としては新参と言える。その結果、「業務に関わる」とか「年齢に関わらず」という言葉は漢字にすべきという話になった。パソコンやスマホの文字入力でも、おそらくその影響で、「関わる/関わらず」という言葉が漢字で変換されやすくなっている。ここからが問題だ。

人は意味を考えて文字を選ぶ一方で、漢字などは字面でも正誤を判断する。「にも関わらず」という文字をたくさん目にすれば、自分が「にも関わらず」と書いても違和感がなくなる。「にも関わらず」に違和感を覚えない人が「にも関わらず」を量産すれば、「にも関わらず」が誤変換であるにもかかわらず、使われる量は増えていく。著名人の文章でそれをやらかせば、それを見た読者も同様にやらかす可能性は高まる。

気にして書き分ければいいのだが、文章を生業にしているにもかかわらず間違えている人がいるほどだ。事情はそう単純なものではない。一度勘違いして変換された語句は、基本的にはその後も同様に変換されるようになり、誤用した人は誤用を繰り返す。私は編集者なので辞書登録なども活用するが、それには弊害もあるし、世の中、文字入力ごときにそこまで面倒なことをする人は限られている。

以前にも書いたが、言葉は変化するものだ。使っているうちに意味やニュアンスなどが変化していくのは文化としてあっていい。ところが、これは単なる誤変換だ。人が意味を考えて選んでいるというよりも、プログラムの実行結果として生成された文字列に過ぎない。変換候補のトップに「にも関わらず」を置いた原因は人かもしれないが、その後の変換は惰性であって、そこに意思や意味はない。持って回った言い方をしたが、要するにデジタル処理における“ちょっとしたミス”だ。それが日本語の文化を変えていいものなのか。そこは意志を持って言葉を選ぶべきではないのか。「にも関わらず」という言葉を目にするたびに、日本語がデキの悪いプログラムに支配されているようで暗澹たる気持ちになる。

こんな文章を書いているものだから、その間にも私のMacの日本語入力プログラムは混乱し続ける。「にも関わらず」と変換してしまう一方で、文脈に関わらずかかわらず」とひらがなにしてしまったりする。何と融通の利かない機能なんだ。

にもかかわらず、人はスマホやパソコンで文字を入力し、誤変換し続けるのだ。

「言葉は時代によって変わるのだから、みんなが使う言葉を使えばいい」といった言説をときどき目にしますが、それは文化的な背景があって成立する事象だと思います。「にもかかわらず」の問題は、デジタル上のプログラムが「日本語のニュアンス」を無視して出力した結果でしかありません。アルファベットが入力できればとりあえず成立してしまう英語などと比べて、日本語という複雑な言語は、いまだにプログラム化できていないと個人的には思っています。少なくとも、現時点で納得のいく仕上がりの日本語入力プログラムは存在していません。不出来なプログラムが日本語を変えてしまっていいのか。これだけ長期にわたる試行錯誤があったにもかかわらず、いまだにデジタルで乗り越えられない日本語とは何か。原因が言語の複雑さにあるのか、関わる人のアイデア不足なのかわかりませんが、もし現状で満足しているようなことがあれば、日本語の将来も危ういと思います。

こちらの記事は月刊Mac Fanにて執筆しているコラムを一部修正して、コメントを加筆したものです。


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