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輝くじ~じぃ
活動的で出来れば美しく周囲の人に好かれるような爺さん『輝くじ~じぃ』になりたくて、体調もましになってきたので、今しばらくはもがいてみようと思っています。
自分の周りを美しく保つには
『面倒だ』と思った時、『だから、しない』のではなく『だから、する』こと。誰かが入って来られたら、立つ。話す時にはマフラー、手袋等を外して、コートは脱ぐ。ポケットから手を出す。
これは若い人にも共通していますが、これらの事を気の向く時に気の向く相手にだけするのではなく、自分の在り方として守っていくと、それはいつしか様になり『美しさ』に変わっていきます。
半年間の入院の初期の頃、腰の痛さにより寝返りさえ自由にできなかった事もあり、自分の周囲がどんどん汚く、乱れていくのが分かりました。とにかく何をするのも面倒くさくて、歯磨きも丁寧にしませんでした。そのせいで入院中に歯の詰め物が6か所も外れてしまい退院後に歯科医で治療してもらうのに1年以上を要しました。
話は変わりますが、入院する2-3年前のある時、妻に注意されて自宅の洗面台を使った後、必ずふき取るようにしました。そうする事で、次の人は気持ちよく使えます。これを繰り返して習慣にすると、面倒くさいと思っていた事が案外簡単にできると分かりました。
また家事は工夫する事でかなり手を抜ける事も分かりました。例えば、ゴミ箱に入れる袋は、レジ袋を何枚も重ねる事で、入れ替える時にかなり手を抜けます。食事の準備や後かたづけ、庭掃除や草引き等もお坊さんはこれらを『作務』といい、修行のひとつと位置づけて毎日自分でしていると聞きました。
自分の周辺を綺麗にしていると、そこには神仏が宿るとの事です。確かに、神社仏閣は建物や庭が古くても手入れが行き届いていて、そこに居るだけで気分がいいものです。
今や面倒な家事は減りました。自動でやってくれる家電があり、特効薬的な家庭用品が幅を利かせていますが、案外『何でもない事』を大事にする事で新鮮な気持ちになれる事が分かりました。風呂やトイレも自分で拭くと心まできれいになるような気がします。
自分の花を咲かせる
他人にどう見られているかはいつも気になります。褒められれば嬉しいし、けなされれば哀しい。嫌われれば悲観し、好かれれば心は安らかです。尊敬されれば生きる勇気が与えられ、反対に軽蔑されたり、無視されれば、生きる自信まで失ってしまう事もあります。
しかし、他人の評価とは別に『自分』が存在する事を忘れてはいけません。他人の評価には、確かに的確なものもあり、それらに謙虚に耳を傾ける事は大事です。しかし、他人の評価が全てではない事も知るべきです。他人も不完全な人間だからです。
『人見るもよし、人見ざるもよし、我は咲く花なり』とは武者小路実篤さんの言葉です。何はともあれ、自分が『咲く』事は大切です。それは他人の評価を受け止める主体性の問題でもあります。褒められれば有難く受け止め、悪く言われればそれも受け止めていく。しかし、いつも心の底には他人の毀誉褒貶に係わりなく存在する『自分』を温かくしかも冷静に見つめる姿勢を持つべきです。
そして、『自分だけが咲かせられる花を一番美しく咲かせてやろう』という決意と努力が大切です。花が咲くためには太陽、空気、水などが必要なように人間が花咲くためには『愛』が必要です。それは自分に対する愛であり、他人からの愛であり、更に神仏だけが持ちうる無条件の愛です。