過度に共感されるよりも、心地よい「摩擦」を与えてくれる場所。

自分自身がオンラインコミュニティを長年運営してきている中で、これは実際にやってみないと絶対にわからなかったことだろうなあと思うことが、ひとつあります。

それは何かといえば、ひとは決して安易な共感や、過度な共感を求めているわけではなく、心地よい思考の疲労感や、モヤモヤを与えてくれる場所のほうを求めているのだとういことです。

少なくとも、僕が心の底からこのひとたちに出会えてよかったなあと思えるようなひとたちはみなさん、わかりきった答えなんて誰ひとりとして求めてはいませんでした。

これは自分自身で対話型のコミュニティを始めてみるまでは、完全に盲点だったなあと思います。

今日はそんなお話を、ブログに書き残しておこうかなと。

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この点、一般的にクローズドの空間をつくろうとするときには、誰もが「アンチ・オープンの空間」をつくりだそうとします。

それは当然ですよね、オープンな場で満たされないニーズを取りに行こうとするのですから、二項対立的に考えてみて、もう一極側をつくり出すことが、市場ニーズに答えることだと想定するのはビジネスのセオリーであり、鉄板でもあるかと思います。

その上で、そういう目で現代社会におけるオープンな空間を改めて眺めてみると、現代のオープンなインターネットはまさに魑魅魍魎の世界で、ひたすらに分断が加速し、みんなが炎上を恐れるような世界となってしまっている。

だったら、インターネット上につくり出すクローズドな空間としては、安心安全が担保されていて、誰もが心休まる空間、そして分断や炎上が存在しない空間があればいいと思ってしまいます。

そうやって、その場に集う人間同士の摩擦係数を下げれば下げるほど、参加者には喜ばれるはずだと思ってしまいがちです。そして、そこで何か有益な情報が得られれば最高だろうと。

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実際、これはなんだか文字面がよく、耳心地もいいですし、砂漠の中のオアシスのようにも思えて大変魅力的に思えるのです。

だから、その仮説から、多くのクローズドコミュニティを運営するひとたちは、何か明確な答え(具体的には価値観や理念、ルールなど)を提示して、その治安を整えることを第一優先としてしまいます。

でも、そうやってコントロールされた空間も、逆にものすごく居心地が悪く、気持ち悪かったりもするんですよね。

これは、本当に実際にやってみないと絶対にわからない盲点でした。

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