「生きる意味」と「いま生きているという経験」の違い。

最近よく考えることは、人間が生きる意味を模索しすぎた結果、本来人間がつくり出した仕組みや構造、それ自体の奴隷になってしまっている状態がずーっと続いてしまっているなあということです。

しかも厄介なことに、大半の人がそのことに対してまったくもって自覚できていない状態でいるような気がしています。

言い換えると、社会の中で競争の優位に立つことが人生なんだと、多くのひとが誤解をしてしまっているなあと思うのです。

でもそれは、資本主義や金融という仕組みのために、人間が生きてしまっているような状態とも言えそうです。

つまり、完全に主従が逆転してしまっているんですよね。

そして、何度も伝えてきた「ハックする」ことの危うさは、ここにある。

それは、すべてが金融システムに有利な「投資」になるために、人間が金融システムのために生かされてしまっているような状態。

そして、ここからAIが広く世の中に普及していったら、さらにそれが加速することはもう間違いなさそうです。

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この点、友人の最所あさみさんが昨日「買い物が投資になっていくことへの違和感の正体」というタイトルのnoteを書かれており、非常に大事な問題提起をされていました。

このお話は、ものすごく大事な問題提起だと感じました。

有料コンテンツなので、あまり詳しくは書けないのですが、この問題提起は本当にいま重要な問題提起だと思いますし、僕も本当に強くそう思います。

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で、今日のタイトルは、以前から何度もご紹介しているように、神話学者であるジョーゼブ・キャンベルの言葉から引用したものでもあります。

改めて『神話の力』という本から、その該当箇所を引用してみたいと思います。

人々はよく、われわれみんなが探し求めているのは生きることの意味だ、と言いますね。でも、ほんとうに求めているのはそれではないでしょう。人間がほんとうに求めているのは〈いま生きているという経験〉だと私は思います。純粋に物理的な次元における生命経験が自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。結局そこがいちばん肝心なところです。私たち自身のうちにそういう喜びを見いだす助けとしてこれらのかぎがあるのです。

この「人間がいま生きているという経験」が最近僕が必死で伝えたいと思っている「純粋経験」の話だったりもするんですよね。

具体的には「思いがけず」や「あわい」のお話です。

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