共感はいらない。共鳴を担保に、異なる意見を晒し合う対話の空間が求められている。

ブログを長年書き続けていると、そのやりがいのようなものを聞かれることはものすごく多いです。

このときに、多くのひとは「共感」を得られることがそのご褒美のように捉えているのですが、僕は常々「共感」なんか、されなくていいと思っています。

逆に、他者からの安易な共感ほど、退屈なものはない。

それは、100%善意で相手から自分に向けられている矢印であるはずにもかかわらず、ときになぜだかものすごく不快に感じることさえあります。

それはブログを書き始めた当初から、ずーっと変わらないこと。

このような、上辺だけの共感には、僕はまったく興味がないのだと思います。

それよりも、身体性を伴うかたちでお互いに「共鳴」したい。そして、お互いの頭を使った意識や知識のレベルやレイヤーにおいては、まったく別々のことを主張し合いたいのだとハッと気づきました。

そんな対話の場を、僕はいま欲しているんだろうなあと。

今日はそんなお話をすこしだけ。

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では、なぜ共鳴を担保にした、異なる意見を晒し合う対話の場を求めるのか。

それは、現代における真の「中庸」を見つけたいと願うから、だと思います。

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