なぜひとは誕生日を祝うのか。敬意とは本来「無駄」である

2日ほど前に、今年も誕生日を迎えました。

30代も半ばになると、歳を重ねることに対して特にこれといった感情も湧かなくなり、また一つ歳を重ねたという実感だけが淡々と積み重なっていきます。

ただ、それぐらいの感覚になってくると、これまでとは異なって、自己の誕生日というものを客観的に見られるようにもなりました。

これは嬉しい誤算です。

そんな中、昨年の誕生日にしみじみと気付かされたのは「誕生日とは、相手の存在価値を祝う日だったんだ」ということです。

一体どういうことか?

この点、よく、誕生日のお祝いのメッセージを本人に伝えると「自分は何も祝われるようなことをしていない!」っていうふうに返してくる偏屈なタイプのひとっていますよね。

自分も、結構そんなタイプの人間だったのですが、それこそが現代の価値観による「呪い」だったのかもしれないなあと、最近は強く思うのです。

過去の僕も含めて、彼らの言い分というのはつまり、「自分の努力が、そこに何も介在していないのに、私がこの日に祝われるのはおかしい。」というわけです。言い換えると、私にはこの日という理由だけで何か讃えられるような生産価値はない、と。

だから、もしそれでも誰かを祝おうとするのなら、今日という日は、この私のことを頑張って産んでくれた私の母親のことを褒めてくれ、という主張だったりします。

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このあたりのロジックを聞かされると、現代に生きている私たちは、なんとなく納得させられて、わかったような気にもなってしまいます。

でも、それが大きな落とし穴だと思うんですよね。

隠れた僕らの無意識の価値観が、そこにあらわになっているなと思うのです。

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