事実の解釈は人それぞれで「共通了解」を無理に見出そうとすることが逆に分断を深める。
僕はこれまで地方に移住した若い人たちを多く取材し、彼ら彼女らと交流してきました。
その経験があるからこそ、地方の見知らぬ移住者が書いた告発系のTwitterやnoteは絶対に拡散しないようにしています。
なぜなら、良くも悪くも僻地に移住する若いひとは、変わったひとが多いなあと自らの実体験を通して感じているから、です。
一つの事実に対して、世の中の大半のひとびとが、Aと見るかBと見るかの二択だったら、そこでAでもBでもなく、Cと見るひとも多い。
だから、僕は自らが実際に対話し交流したことがない、見ず知らずのひとが語る告発系の場合は、自分が信頼できる第三者(メディア)の取材や編集が入っていない限りは、なるべく拡散しないようにしています。
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でも、Twitterなどを見ている限り、逆にそれこそが一次情報だと思い込み、拡散してしまう都会のひとたちが多いように見受けられます。
メディアが報道しない真実がそこにあるのだ、と思い込んで。
きっとその反応の裏には、相手もきっと自分と同じような世界認識をしているはずだという「暗黙の期待」があるのだと思うです。
ただし、それこそが分断を深める原因にもなってしまっている。
今日は、この「相手も自分と同じものを見ているはずだ」という暗黙の了解が、逆に現代の分断を深めている原因になっているという話について、このブログの中でも語ってみたいと思います。
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さて、この点「変わっている人」というのは、一般的ではないということです。つまり「普通」や「マジョリティ」ではないということです。
だから、これはそのままマイノリティ論にもつながる話なのです。
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