手を差し伸べること、おせっかいすることを否定してきた世の中に、いま必要な空間とは。

最近読んだウェブ記事の中で、思想家・内田樹さんが、ホームレス支援をされている抱樸・奥田知志さんの活動を評した記事があり、その中で「『原理』よりも『程度』が大切だ」というお話が語られていました。

このお話は、今とっても大事な視点だなあと感じています。

AERAのウェブ記事から、さっそく以下で少し引用してみたいと思います。

自分なんか生きていても死んでいても、どうでもいい。誰も喜ばないし、誰も悲しまない。だから、奥田さんから差し伸べられる救いの手にも応えようとしない。

そういう人に対して奥田さんは「外から差し込んでくる光のようなものが必要だ」と言う。「神様でも仏様でも何でもいいんだけども、何かそういう意志みたいなものが『俺はお断りしているんだけども、向こうは、いやいや、いやいや、生きないかんで。生きてほしいんやで』みたいな」かたちで外から働きかけてくることが必要なのだ、と。

だから奥田さんは彼らに向かって「助けたろか」という言葉を「安売り」する。

このお話、僕は初めて読んだときに、本当に心から感動してしまいました。

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さて、この点、どうしても現代を生きる僕らは、自ら能動的に行動を起こすことの重要性、そして相手の選択をそのまま尊重することの重要性、この二つを、過度に重視してしまいがちです。

それが、大人な振る舞いであるのだ、と。

たとえば、『嫌われる勇気』の中に出てくる「他者の課題」という言葉なんかにも、その一側面はあらわれていますよね。

もちろん、どちらも決して間違っていない圧倒的な真実だと思います。

でも、その思想が行き過ぎた結果として、いま孤立しているひとが増えてしまっているのだとも言えそうです。

言い換えると、相手に手を差し伸べることや、おせっかいすることの重要性を完全に否定してきてしまったように感じます。

一方で、自ら勇気をもって挑戦しているひとに対しては、それで失敗してしまった場合には完全に「自己責任」だというレッテルを貼ってしまう。

そうやって、自ら挑戦し再起不能になったひとたちが自然と孤立していくのも当たりまえのことだと思います。

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この点、他人から引き上げてもらうこと、他人におせっかいをすることは、どちらも決して悪いわけではないはずです。

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