お祭りを残すこと、その本質とは何か。

最近、地域の「お祭り」についてよく考えています。

きっかけは、コロナ以降に、数年ぶりに復活したお祭りが日本各地でいま増えてきたから。

そして、そんなローカルのお祭りに対してまで「その客席の価格が安すぎる」と文句をつけているひとたちがいて、正直ちょっと怖いなあと思ったからです。

商業エンタメの世界で、VIP席や富裕層に媚びるのは何一つ間違っていないとしても、それをローカルのお祭りにまで持ち込もうとしているひとたちは、一体「祭り」の本質を何だと考えているのだろう?と純粋に疑問に思ったんですよね。

これは決して、答えがあるような問題ではありません。もちろん一義的ではないはずです。

そのうえで、祭りというのは集落共同体としての一体感など、その「公共性」のようなものを実現することのほうが大切なのではないかと、僕は思うのです。

でも、今はむしろそれらが蔑ろにされていて、とにかく外からお金を持っている観光客を呼んできて、どうやって儲けながら続けるか、という議論のほうが優先されてしまっているように思います。

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きっとこのまま行くと、そのうち商業エンタメの世界で生きているひとたちから「学校経営が厳しい?だったら、運動会にもVIP席を作ればいい。富裕層の親が、子どもを特等席で見ながら、それをSNSにアップするために10万でも20万でも払うでしょう」みたいなことも本気で言い始めそうだなあと思います。

言い換えると、これは完全に足元を見られてしまっているわけですよね。主催者側の「とにかく先祖代々、長年続いてきたのだから、形式的に続けばいい。自分たちの代で失わせるな」と、その雇われ経営者や雇われ首長たちの魂胆が完全に見透かされているような状態です。

そうやって続けることだけが目的になってしまうと、完全に思考停止状態となり、いくらでも「お金の話」に回収されてしまい、えせコンサルの入る余地を生むわけです。

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この点、地域住民の人口規模が減っている時代においては、「人口規模に合わせて、祭りの規模感も変更させましょう」という提案があってもおかしくないはずです。にも関わらず、「規模感はバブル期と同様に、それを継続できるためのVIP席を増やしましょう」というの提案は、もう「祭り」ではなく「ショー」や「パレード」の類いになってしまっているわけですよね。

それというのは、地方によくある観光名所としての「美観地区」とかと完全に同様で、その町に生きているように見せかけた、ただのレプリカとなってしまっている。

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