自分の過去を肯定していない人が次世代を育てられるのか?

最近、8月という季節柄、戦争関連の番組や書籍によく触れています。

その中で、どの論調においても変わらない前提というのは、戦前の教育の否定です。

これはもう絶対の共通の前提として、そこかしこで描かれている。

そして、それは実際に間違いないことだと思います。戦前の教育は明らかに間違っていた。

ただ一方で、僕らはその教育をまさに受けてきたひとたちがつくってくれた日本という国にいま生きているわけですよね。

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この教育に関しては、現代においてもまったく似たような論調が存在し、昭和から平成にかけての教育がいかに間違っているのかということが、広くインターネット上中心に語られているような世の中です。

具体的には、「ブラック校則」のようなものがその際たる例だと思います。

また、ゆえにもっと生徒の自主性を尊重しよう、もっと生徒に対話をさせよう、そのような動きを現代を生きる大人の僕らは無条件に良しとしてしまっている。

なぜなら、自分たちが若いころにそうやって散々苦しめられてきて、それを子供時代の自分が求めていた「記憶」が明確にあるからです。

同じような苦しみを現代の子どもたちが味わうことがないようにと、子どもたちに対しての最大限の敬意と配慮、そして優しさを持ち合わせた結果として実際にそうしているんだと思います。

それ自体は、本当に尊い心がけだと感じます。

でも、果たしてそのような考え方自体はどうなんだ…?とモヤッとしたものがいつも僕の中に残るのですよね。僕はわりと、この現象に対してはいつも強く疑問に思ってしまいます。

それは、そのような論調が「自己否定」そのものに思えるからです。

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この点、養老孟司さんの『まともバカ』という本に膝を打つようなお話が書かれてありました。

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