夏の月(20分間小説)
【あらすじ】
明日高校生の娘の彼氏が家にやってくる。娘と妻は楽しみにしている。父親のタケシは複雑な気持ちだった。前の日、寝付けず家の前の浜辺に出て見ると、人影を見つける。その遭遇から自分の昔を思い出し、気持ち落ち着いたところで翌日を前向きに迎える気持ちになった。果たして翌日の出会いは・・・ 文庫本にして約20ページ程度(12000字強)
【本編】
眠れないのは部屋の暑さのせいだけではないことをタケシは知っていた。明日は威厳のあるところを見せるためにも今日はしっかり寝て備えたい。少し本でも読んで眠くなるのを待とうと思った。サトコはひとかけらの緊張もないのだろう、隣のベッドでぐっすり眠っている。サトコを起こさないよう、そっとベッドランプのファサードを手で探った。かろうじて読める明るさにするためスイッチ紐を2度引いた。カチカチと紐から音がした後、パッと薄暗いオレンジ色の光が手元を照らしてくれた。ランプの台座脇にある読みかけの文庫本に手を伸ばした。某国営放送の日曜ドラマで今年舞台となっているのがタケシの住んでいる地域ということもあり、久しぶりに買った歴史小説だ。
何ページか読み進めたものの、今夜は気分じゃないな、と5分ほどで本を閉じ、スイッチ紐を今度は1度引っ張って灯りを落とした。再びの漆黒は、さっきまでの灯りの分、より暗く感じた。一方、海に面した小窓から差し込む青白い光線は心なしか、さっきより黄味を帯びて明るく感じた。月を見てみようと思い立った。小窓の方に向かって三歩ほど進んで中央のフック式の鍵をカチリと上げ、観音開きの小窓を両手で引いた。雲一つない夜空に星たちを従えて、差し込む光の正体が丸々とポッカリ浮かんでいた。
ちょっと外の空気吸ってくるか。クローゼットにあった薄手のカーディガンを取り出した。
1週間前の日曜日。朝、コーヒーの香りで目が覚めた。アラビカ種か。あの2人、今日はストレートで飲んでいるのか、珍しいなと思いながらベッドを離れた。普段コーヒーを飲むとき、2人はミルクを入れるかカフェオレで飲んでいた。アラビカ種は高地で栽培され、少し酸味が強く、ストレートで飲むのに適している。緑のロゴで有名なコーヒーショップのブレンドはアラビカ種を主に使っている。
リビングに降りた。サトコとハヅキが並んで座って話していた。今からどこか行くのか、2人とも既に出掛け着だった。サトコは薄化粧をしていた。2人のコーヒーは半分ほどになっている。トースターとサラダを盛ったと思われる皿はすっかり跡形もない。
「おはよう。2人とも早いね、これからどこかお出かけかい?」
タケシは訊ねた。
「早くなんてないじゃない、もう9時よ」
サトコはおはようの挨拶もなく、タケシに答える。
「うん、今日はママにハヅキの買い物付き合ってもらうんだ」
ハヅキが続く。ハヅキは高2にもなって自分のことをハヅキと呼ぶ。外でちゃんとしてるのだろうかといつも心配になる。
「そうか、あんまり買いすぎないようにな」
お約束のようなセリフを、何を買うかも聞かないで言っていた。
一拍空いてハヅキが言った。
「あ、あとパパにちょっと話があるんだ」
その声は、少しこわばっていたように聞こえた。
ん? タケシはドキッとした。
こういう切り出し、この声の感じ、仕事でも家でも好きになれない。会社で「ちょっとよろしいですか?」とやってくる部下は大体転職を口にする。家では、、予想が全くできない分もっと構えてしまう。しかも日曜日の朝、それもサトコと一緒だ。ハヅキではなくサトコを見る。サトコは視線に気づいてとぼけているのか、タケシを見ずコーヒーカップに手を伸ばし、残り半分のコーヒーを口にしている。
「え、あ、なんだ? ひょっとして買い物はパパがお財布か?」
想像が働かなかったので、とりあえずこれまたお約束なセリフを、今度は少しおどけた口調で言った。
「あ、それは大丈夫。ママが買ってくれるから」
ハヅキはそう言った。ママのクレジットカードはパパの家族カードだぞ、タケシは心の中で突っ込んだ。
ハヅキは続けた。
「そうじゃなくて。ママから聞いたんだけど、今度の土曜日パパ予定ないでしょ?午後付き合ってほしいんだ」
「土曜の午後?」
声が少し裏返ってしまった。
「うん、ハヅキの友達を紹介したいんだ」
友達?と思ったと同時にサトコが続けた。
「ハヅキ、ちゃんと言いなさい」
「え、あ、うん・・ あのね、彼を紹介したいんだ」
来た
ハヅキが生まれた時から一番聞きたくなかった話。ついに来た。いや、ついにではない、もう来た。
「誰だ?」聞いても仕方ないことを聞いてしまった。
「パパはもちろん知らない人だよ」それはそうだ。
「パパは? ということは、ママは知ってるのか?」
サトコを見た。サトコは今度も目を合わせない。タケシの反応を見て、少しニヤニヤしているように見えた。
「ママには言った。って言うか、この間コウくんに会ってもらってる」
「は?」
ポカンと口が開いた。
コウくん?
知らない単語だ。
タケシが言葉を繋げそうもないと見たのか、ハヅキがターンを取った。
「とにかくね、ママはコウくんに会っていて、2学期になる前にパパに会わせたら?って言ってくれたから会ってもらえるかな」
完全包囲網が敷かれていた。こう言う時に世間の男親はどう答えるのだろう?そんなことを考えながらタケシは言葉を探した。
「今度の土曜日、ひょっとしたらお客さんとゴルフが入るかもしれないな・・」
「は? ないない、もうみんな予定空けてるから。だったらゴルフは日曜日にしてよ」
ブンブン手を振りながら、タケシの言葉を却下した。
ハヅキの中のみんなにパパは入ってないのか?言おうと思ってサトコを見たら、ハッキリとニヤニヤしていた。それを見て諦めた。ハヅキから話があると言われてからたったの3分で、何の心の準備もできないまま、タケシはハヅキから一方的に手渡された白旗を上げた。
タケシは味のしない朝食を摂りながらその後しばらくハヅキから話を聞かされた。
コウくんは、コウタだかコウジだと言うこと、
違う高校の3年生、ハヅキより1個上だと言うこと、
去年の文化祭にハヅキが友達と遊びに行って知り合ったこと、
ボート部に入っていてインターハイがこの間終わって引退したこと、
引退してからは大学受験に向けて予備校の夏期集中講義に通い始めたこと、
2学期になると受験まで時間がないから夏休みの間に紹介しようとなったこと、などなど。
他にも来週の段取りめいた話をハヅキとサトコのタッグから聞かされたが、話している言葉の半分以上はタケシの体を通り過ぎていった。そして一通り話をして、伝えることは伝え切ったと思ったのか、軽い調子で「そう言うことだからよろしくお願いしますね、パパ。じゃ、行ってきまーす」と言ってサトコを従えて出かけて行ってしまった。
起きてから短い間で起きたことに、タケシは自分が夢でも見ているのではないかと思った。
その日からあっという間に5日経った。過ぎて欲しくない時間は早く過ぎる。いよいよ明日の土曜日にコウなにがしはやってくる。明日だと思うと、ワクワクとは違う種類の胸の高鳴りがする。高揚感とも緊張とも違う不思議な感覚。今日は果たしてちゃんと寝れるのだろうか。
カーディガンを羽織ったタケシは、足音がしないようにとスリッパを履いた。寝室の扉をそっと開け閉めし、廊下に出た。夫婦の寝室側の廊下は昔からギシギシと音がする。向かいの部屋のハヅキを起こさないよう、ハヅキの部屋に近い側に音を立てないようジャンプして渡った。からだ重くなったな、と思った。
廊下をすり足で進んだ。
階段は、転ばないように手すりにつかまりながらそろそろと降りた。
玄関に着いた。地元に昔からある有名なサンダルブランドのビーチサンダルを履いた。子供の頃から夏はずっとこれだった。一体これまでに何足履いてきたことだろう。
玄関は両親が引っ越した後にリフォームをして開閉音がしないタイプのものに変えたので安心だった。
外に出た。さっきまでの部屋の暑さが嘘のようだ。8月もお盆を過ぎると、頬を撫でる風もすっかり心地よい。秋はすぐそこだ。鈴虫のリーンリーンと鳴く音色が、向こうから聞こえてくる波の音と重なる。ちょっと海まで行ってみようと思い立った。海まで、と言ってもタケシの家から浜辺までは、歩いて5分もかからない距離にある。海岸に面した道路を渡り、コンクリの階段を5段降りればもう砂浜だ。昔の名残は灯台だけ、子供の頃あった街灯はいつの頃からかなくなっていた。月明かりを頼りに海を目指した。ギュウギュウと砂が音を立てる。久しぶりに聞く乾いた砂を踏む音だ。遠くにある水平線は、月が照らし出すことでその境い目がかろうじてわかった。足元では、月の光が波打ち際まで運ばれてきては砂浜に消えていった。
岬の先にある灯台の方に目をやると月光の反射とは違う小さな点が光った。人だ。2人いる。男女だ。チラチラ光る点は2人のスマホか。人工的な光の分、小さい点ではあったが自然の明るさしかないここでは目立っていた。月明かりに照らされてはいるものの、街灯もない浜辺である、その2人は輪郭がわかる程度だ。表情は見えない、声もはっきりとは聞こえない。動く影絵だな、タケシは思った。
男性の方はタケシと同じくらいの背丈だろうか、しっかりした体躯に見える。何かスポーツをやっているのだろう。まだ若いのか、どことなく仕草が幼い。女性の方は髪の毛が長い。風にその髪がなびいているのが見える。背はサトコと同じくらいかな、ハヅキより少し高いくらいか。男性に比べてこちらは長い髪のせいもあってか大人びて見える。
見るとはなしに見ていると、時々女性の方が体躯のいい男性の肩を揺すったり、背中をポンポンと叩いたりしている。ケンカには見えない。女性が男性を励ましているのだろうか。あ、今度は拳で厚い胸板をこづいた、、何を話しているんだろう。
その時、30年近く前、高校3年生の夏がフラッシュバックした。
サトコと付き合って2年目の夏。来年には受験。本格的に勉強に取り組まないといけないそんな夏。2学期が目前に迫った8月の終わりに2人でこの浜で夜会う約束をした。なんでそう言うことになったのか今ではハッキリとは覚えていない。
夜になった。両親に気づかれずに家を出るのに関門は3つ。最初の関門はタケシの部屋を出てから階段までの廊下だ。タケシの部屋の正面に両親の寝室があった。最初にして最大の関門だ。2つ目が1階に降りる階段。そして最後の関門は、古くなって開け閉めの時にギィっと音を立てる玄関扉。
タケシは部屋を出た。自分の部屋側の廊下を抜き足差し足で階段に向かった。両親の寝室側を通るとギシギシ音を立てるのは昼確認済み、間違ってもあっち側は通れない。階段は、足を踏み外しさえしなければ大丈夫、手すりをしっかり持ってゆっくり降りた。最後の玄関だ。ビーチサンダルを引っ掛け、引き戸の鍵を音を立てずに開けた。音を立てないで開け閉めする練習は両親がいない間に何度もやっていた。家を出た。寝室を見上げた。気付かれた様子はない。脱出成功だ。音を気にする必要はもうない。集合場所に向かってダッシュした。海岸通りの信号を渡って、コンクリの階段を5段ポンポンと跳ねるように降りた。集合場所までの砂浜は一歩一歩ギュッギュッと音を立てた。
2人は昼間図書館で勉強をした後、夜の集合時間と場所を決めていた。場所は海岸通りの信号と、岬の先にある灯台を直線で結んだちょうど真ん中くらいにある街灯の下。どちらかが来ないときは集合時間から30分は待とうと話していた。スマホはもちろん、携帯もなかった時代である。どちらかに不測の事態があった時は30分待って諦めることにしておいた。
集合時間にサトコは現れなかった。何かあったのだろうか。待てどなかなか現れない。時間が過ぎるのが早い。あと5分。タケシの不安曲線がピークに達しようとしたその時、サトコは現れた。
「ごめんごめん、待ったよね。なかなか親が寝てくれなくて焦っちゃった」額に汗をかきながらサトコは両手のひらを合わせて謝った。
「全然大丈夫、来れてよかった」タケシは右手をブンブン振ってそう言った。
「遅れたお詫びに、はい」
と赤い缶を差し出した。キンキンに冷えていた。缶はたった今、自販機の中から外に出てきたのだろう、汗をかいている。
「お、ありがと」
と言って受け取った。冷えていて気持ちいい。サトコを待っていたさっきまでの緊張を解くのに一度額に当てた。そして栓を開けた。プシュッと炭酸が元気よく音を立てた。サトコの分は緑の缶、お茶だった。こっちは開ける時、カチンという金属音だけがした。
ちょうどいい大きさの流木があったので、そこに座って2人でひと心地ついた。話をしていない時は、打ち寄せる波の音しか聞こえない。家の周りでは虫の音も聞こえていたが、ここでは聞こえない。
しばらくは他愛もない話をした。ほとんどが昼間の話の延長だった。今度の模試の話、志望校の話、、どうしても受験に関する話になってしまった。タケシは東大志望、今のところ合格線上ボーダーで、あと一踏ん張りもふた踏ん張りも必要だった。にもかかわらずタケシには、あと半年あればきっと大丈夫という謎の自信があった。サトコも東京の国公立を志望していた。ただまだ最終的な志望は決めていなかった。タケシからしたらサトコだったら東大でも入れると思っていたが、慎重なサトコは決めきれていない様子だった。
せっかく2人きりの時間、こんな機会はしばらくない。場合によっては春、別々になってしまうかもしれない。気の利いたことを話したい、大学に入ってからのことも少しは話したい、あれやこれや考えていたのに、全く言葉になって出てこない。もどかしい。
そんなとき、ふと目の前の灯台に目線が行った。
「灯台下暗し、東大もっと暮らしいい、なんちゃって」何を言ってるんだ俺は。
サトコは吹き出した後に言った。
「タケシのそのダジャレ言う癖、東大に行ったら絶対にやめた方がいいよ、そんな人周りにいないと思うから」
そして2人ではははと笑った。
少しの間があってサトコが真顔になって言った。
「タケシ、東大行ってね。応援してる。私もタケシの近くにいれるよう頑張る」
月に照らされたサトコの横顔、その視線は遠くの月を見ていた。微笑んでいるようにも見えたし、何かを決意をしているようにも見えた。キリッとして、それでいて優しい横顔だった。
2人の笑い声が風に乗ってかすかに聞こえてきて、タケシの意識は目の前に戻ってきた。相変わらず何やら話している様子の影絵を見ながらタケシは「お前たちもガンバレよ」と呟いていた。2人がどんな関係かも知らないのに。
結局タケシは1年遠回りしてしまったが、2回目の受験で東大に入ることができた。サトコは現役でお茶の水大に入っていた。あの時の約束通りサトコは近くにいてくれていた。学年はサトコの1個下になっていた。
タケシが3年生になった時、サトコは就職活動真っ最中だった。就職氷河期と言われた時代、さらにコネのない女子には厳しい就職戦線の中、サトコは大手の食品会社に総合職での内定を自力で勝ち取った。
タケシが4年生になった時、自分も新入社員で大変だったにも関わらず、サトコはタケシの就活相談を聞きながら、時に励まし、時に叱咤してくれた。経済学部だったタケシは多くの友人たちがそうだったように就職は金融系、商社系に絞った。第一希望ではなかったものの大手の商社に入社できた。サトコは自分のことのように、おそらくはタケシ自身より喜んでくれた。
翌年入社したタケシは当時花形のエネルギーの部署を希望した。だがそれは叶わずコーヒー豆の部署に配属された。以来コーヒー豆畑一筋で30年近い。商社にはいろいろな専門分野、すなわち畑があるが、タケシはコーヒー豆畑で、その名の通り世界中の畑を巡った。いつからか香りで種がわかるようになった。
タケシが会社に入って3年目、25歳の時に2人は結婚した。サトコはコーヒーよりは紅茶派だったが、タケシがコーヒー豆畑に就くと、コーヒーを飲むようになった。食品会社で商品開発部署にいたサトコは、タケシが扱うコーヒー豆を使った新しいRTDを社内で提案もしてくれた。RTDとはReady To Drinkの略、スーパーやコンビニで売っているすぐに飲める飲み物の総称だ。家でも毎朝コーヒーを淹れるようになった。結婚以来その習慣は続いている。今ではその日の気分でコーヒー豆を変えたり飲み方を変えるようにもなった。
ハヅキが生まれるまで結婚から10年以上かかった。2人とも子供を諦めかけていた頃、そしてタケシが2度目の海外赴任を会社から命じられた時のことだった。サトコは昔からその国に行ってみたかったという理由で、会社をスパッと辞めてついてきてくれた。その地でハヅキは8月に生まれた。ハヅキが生まれてからもしばらくは海外を転々とした。そんな環境もあってかハヅキはなにごとにも物おじしない性格に育ってくれたた。そして幸い父親嫌いになることもなくここまで来てくれた。
タケシの両親は、5年前、自分たちはこれからのことは自分たちでやるからこの家に住みなさいと言って、ハヅキが中学に上がる年にタケシたちに家を譲り、父の生まれ故郷である瀬戸内の方にあるホームに移って行った。ちょうど最後の海外赴任から戻る直前だったタケシは、サトコに相談した。サトコは生まれ故郷へ戻ることに反対しなかった。むしろ、地球をぐるっと回って、振り出しに戻る感じね、と言って賛成してくれた。フルリノベーションをしようとも考えたが、サトコがこのままでいいわよと言うので、最小限のリフォームだけ施した。2階の両親の寝室は自分たち用にベッドだけ買い替えた。タケシがいなくなってからもそのままになっていたタケシの部屋はハヅキの部屋になった。ハヅキの手によってタケシの部屋だった場所は、同じ部屋とは思えないくらい華やかに生まれ変わり、生気を取り戻した。
間も無く80になろうと言う両親は、今もセカンドライフをエンジョイしているようだ。瀬戸内海を一望できるホームから風光明媚な四季の風景を覚えたてのスマホで写真に収めてはハヅキに送ってくる。SNSでのチャットも、どこで覚えたのか流行りのスタンプを使うようになった。
「東大もっと暮らしいい、か」タケシは独りごちて、フフッと息をついた。
あの時に思っていたいい暮らしは実にシンプルだった。大学を出ていい会社に入り、サトコと結婚し、いい生活をする、それだけだった。「いい」の中身など何も考えていなかった。
商社でそれなりに大きい仕事にも携わり、さまざまな海外も経験し、時間はかかったがハヅキも授かることができた。きっと想像していたいい暮らしは実現できたように思う。あの頃思い描いたのは、単に上を目指すいい暮らしだった。ただ最近、タケシには気づいたことがあった。求めるいい暮らしの中身が変わってきたのだ。
今のタケシは、目の前にいる人たちや、遠くにいてもいつもつながっている人たちと、どれだけかけがえのない時間を共有できるかを求めている。そしてその時間が少しでも長く続いてほしいと思うようになった。Die with zeroと言う言葉があるらしい。お金だけでなく、人生の充実度を重視し、最後に残るのは思い出であること、それを大事にする考え方だそうだ。今の自分が求めているいい暮らしっていうのは、そういうものなのかもしれない。
1時間ほどいただろうか。少し寒くなってきた。いつの間にか影絵の2人もいなくなっていた。
来た時より気持ちはスッキリとしていたことに気づいた。明日1日もかけがえのない時間を大切に生きよう、そう思えた。明日が少しだけ楽しみになった。帰ったら寝れそうだ。外に出てきて良かった。
翌日がやってきた。サトコはいつもより溌剌としている。きっとワクワクしているのだ。タケシはどうにも落ち着かずソワソワしている。どんな顔で会えばいいんだ?何を話せばいいんだ?そんなことを考えていたら、昨晩月を見ながら感じた楽しみな気持ちがなくなってしまっていた。
昼が過ぎた。ハヅキはいつもと同じポニーテールだったが、通学仕様ではなかった。普段は長い髪を黒いヘアゴムで結んでいるだけだったが、今日はネイビーのリボンをバレッタで留めている。着ているものも初めて見る組み合わせだった。夏の空そのままにスカイブルーの地に白のストライプが入った襟の高いブラウスに白いフレアスカートを合わせている。「じゃ、そこまで迎えに行ってくるね」と言って、ネイビーの小さなリボンがついた白いサマーサンダルをつっかけて、コウなにがしを迎えに出て行った。先週の買い物はこれだったのか。一体いつこんな大人びたファッションを覚えたのだろう。そんなに早く大人にならなくて良いのに。ハヅキの後ろ姿を見送りながらタケシは心で呟いていた。
ハヅキはきっかり3時に戻ってきた。ただいま、の声がいつもより艶やかだった。その声の後に、太い、そして少し緊張混じりのこんにちは、と言う声が聞こえた。
来たな
「コウくん、入って入って」ハヅキが言う。
「あら、コウくんいらっしゃい、お待ちしていました」サトコが言う。
「あ、ありがとう、う、うん あ、お母さんこんにちは、お邪魔します」
お母さん?と思った矢先ハヅキがタケシを指して言った。
「コウくん、パパです」
そして続け様にタケシを向いて言った。
「パパ、コウキくん」
コウくんは、コウタでもコウジでもなかった。
「お父さん、初めまして。モリコウキと言います。今日はお招きいただいてありがとうございます」
と深々とお辞儀をした。ボート部で礼儀は鍛えられたのだろう、お辞儀も含めて挨拶は自然なものだった。お父さん、という単語を除いて。
「ハヅキの父です。初めまして」
口角を上げたつもりだったが、上がっていたのか自信はなかった。
コウキは光輝と書くそうだ。マッチョで白いTシャツが似合ってるなと思った。悔しいが思ったより印象がよかった。家に上がって、ハヅキはコウキに一通り中を案内した。それがひと段落したところで、4人はリビングのテーブルについた。キッチン側にサトコとタケシ、その正面にハヅキとコウキがそれぞれ並んで座った。タケシとコウキが向かい合わせだ。サトコとハヅキがコーヒーを淹れるために立ったわずかな時間が所在なかった。
しばらくはコウキに色々と質問をして、それにコウキが答える時間だった。
下に妹と弟もいるので、通いでいける国立大、できれば東大に行きたいと言う話や、
タケシと同じ文科二類を志望していると言う話や、
夏の模試はDに近いC判定だったから、今から頑張れば何とかなると思っていると言う話しや、、
コウキは謎にポジティブだった。聞いていてタケシは、コウキのことをかわいい青年だなと思った。
いきなりお父さんと呼んだことも謝ってきた。事前にどう呼んだらいいかハヅキに相談したそうだ。ハヅキがお父さんでいいんじゃない?と言ったそうだ。いきなりそんなことを言ったらどんな風に思われるかわからないからと、最初コウキは「ハヅキさんのお父さん」と呼ぼうとしたらしい。そうしたらハヅキが、そんなややこしい言い方しなくていいと却下したそうだ。何かあったらハヅキがフォローするからお父さんでいこうとなったエピソードを恐縮そうに話してくれた。会社とかで下についたらきっとかわいがってしまうなと思っていた。
コウキが答えに詰まった時は、ハヅキがコウくんはね、、と代わりに答えた。ハヅキが代わりに答えるときは決まって、ほらしっかりしてよ、ワタシが恥ずかしいでしょ、と言いながらコウキの背中を叩いていた。外ではちゃんとワタシと言えるんだな、タケシはそんなことを思いながら、うんうんと聞いていた。
将来の話になった時、タケシのように経済学部を出て、就職もできればタケシのように世界をまたにかける仕事をしたいと、ここはコウキがタケシの目を見てしっかりと話した。その目を見たとき、こんな息子欲しいなと不覚にも思ってしまった。
そこにハヅキが割ってきた。「ちゃんと言えたじゃない!」
その声でハヅキの方を向いたコウキに、ハヅキはグーにした手でコウキの胸に軽くパンチをした。タケシは思わず苦笑いがこぼれた。このまま将来一緒になったら、力関係は決まったなとタケシは思った。と同時に、あれ?なんだろう、この既視感は。タケシは記憶を辿った。
リビングでのコウキへの質問は1時間くらい続いただろうか。コーヒーは、コウキの分を除いて空になっていた。コウキのコーヒーカップだけは口もつけられていない。
「コウキくんは、コーヒー嫌いなのかい?」タケシが聞いた。
「いえ、好きです。あ、すみません、いただきます!」と言って、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
緊張してコーヒーに手をつけていなかったのだ。コウキのこの1時間の緊張を推し図って、タケシのコウキに対する好感度はまた上がってしまった。
「じゃそろそろ、食事にしましょうか。ね、パパ」
コウキのコーヒーカップが空になるのを見計らってサトコがカップとソーサーを一つずつトレイの上に片付けていった。
ゲストを招いたときのタケシのおはこはテラスバーベキューだ。今日もそれだけは主張したのだった。こうすればアウェイにならずにいられる気がした。どこかのレストランに行こうと2人は言っていたが、ここだけは押し切った。
テラスに出て、炭に火を点ける。用意しておいた食材を冷蔵庫から出して並べる。タケシの指示のもとサトコとハヅキが手伝う。所在なく立っていたコウキだったが、タケシから「コウキくん、台所に置いてある鉄板持ってきてもらえるかな」と言われると「はい!」と言って嬉々としてキッチンに消えていった。
食材がテラスに揃ったところでまずは乾杯することにした。大人はビール、高校生の2人はボトルのミネラルウォーター、サトコとタケシのビールはコウキがグラスに注いでくれた。準備できたところで「では、コウくんようこそ我が家へ!かんぱーい」とハヅキがいきなり乾杯の音頭をとってしまった。てっきり自分に振られると思っていたタケシは拍子抜けしたが、ちょっとホッとした。そして一口ビールを飲んだ後、タケシはトングを手にし鉄板に肉を乗せていった。
それにしてもコウキはよく食べる。見ていて気持ちいい。タケシが焼いた材料を次から次へと口に運んでいく。自分にもこんな時があったと思うと不思議な気がした。アルコールが入って、タケシもようやく気持ちがほぐれてきた。だいぶ舌も滑らかになっていた。
「このテラスは、夜になると月明かりが照らすんだよ、コウキくん」
コウキの顔が??になる。ハヅキがコウキの耳元で囁く。
「うちのパパ、昔から機嫌が良くなるとつまらないダジャレ言うの。笑ってあげて」
コウキは合点が行った顔になり、小さく頷いて
「ははは 月がテラスをテラスんですね」
と快活に笑いながら言った。
「そうなんだよ月明かりがテラスをテラス、なんちゃって」
タケシは放たれた自分の声に、これはちょっとご機嫌だなと自省し、少し冷静さを取り戻した。
8月も終わりに近づくと、日が暮れるのも早くなる。空がオレンジ色に染まり始めたと思ったら、太陽が水平線に消えるとともにあっという間に濃紺に変化していった。同時に、晴れ渡った空に星たちがくっきりと姿を見せ、月が太陽に変わって空の主役の座についた。今年は8月31日がスーパームーンということで、今日の月も相当に大きかった。
「忘れないうちに記念写真撮りましょ」サトコが言った。
「せっかくだから、パパのカメラで撮ってよ」ハヅキが続けた。
海外にいた時、休みの度に3人でその地の名所によく出かけた。その時に買った単眼カメラと三脚を取りに家に戻った。三脚まであるのは、それがないと、2人の写真しかないことにいつの頃か気付いたのがきっかけだった。久しぶりに三脚の出番だった。
テラスに戻ってきてタケシは三脚をリビング側に置いてカメラを取り付けた。
「コウくん、ママ、ハヅキ、ちょっとそっちに立ってくれる?」と海を望む側を指して、3人を立たせファインダーを覗き込んだ。コウくんと呼んでいる自分がいた。
「コウくんとハヅキ並んで、ママはハヅキの隣に立って」テキパキと指示をする。3人がタケシの指示に従い並ぶ。
「みんな、もう少しだけ右に行ってくれるかな、、、そうそうそこでストップ」そうして自分のポジションを確認してタイマーの準備をする。
「それでは、10秒後に撮るよ~ みんないい笑顔で~」そう言ってタイマーをセットした。ジィーという音が鳴り出した。タケシも急いでコウキの隣に向かう。そろそろシャッターが切れると言うところで、タケシが言った。
「いちたすいちは~」
「にーっ!」4人の声がピタリと合った。
カシャ
カメラがまたたいた。
「ちょっと確認するから、そのままでいて」タケシはカメラの方に戻り、今撮った写真を確認した。大丈夫だ。
「はいOK」とタケシに言われて、3人は解放された。「じゃあ印刷してこよう」と言ってタケシはカメラと三脚をしまう準備をした。
「パパありがとう、そしたら少し涼しくなってきたから中に入りましょうか」サトコがそう言って片付け始めると、ハヅキとコウキもそれに倣った。
タケシは1人リビングの隅にあるパソコンにSDカードを差し込み、印刷の準備をした。A4で出力をセットするとインクジェットのプリンターが端から順にカタカタと紙を吐き出した。まずタケシとコウキが姿を現した。2人は同じくらいの背丈、そして同じくらい笑顔がぎこちない。続いてハヅキ、最後にサトコが出てきた。
あ、と小さな声が出た。ハヅキはいつの間にかサトコと同じくらいの身長になっていた。
タケシの中で、さっき湧いた既視感と、辿っていた記憶がにわかにつながった。
タケシの知っているハヅキはいつもポニーテールだったから気づかなかったが、ほどけば髪は長い。そしてさっきのハヅキとコウキの一連の絡みは、、、
昨日夜に見た影絵は2人だ。きっと今日のことを話していたのだ。コウキはきっとハヅキに背中を押されて今日を迎えたに違いない。
体の温度が少し上がった。
2人はまだ若い。将来はわからない。コウキが素敵な青年だと言うことがわかって、このまま良い付き合いが続けば良いような気もしたし、その先を考えると寂しさが込み上げもした。とにかく今日は、いつかのリハーサルだと思うようにしよう。ハヅキから突然結婚しますと言われたのでは心の準備ができていないに違いない。
もう一度写真を見る。4人の後ろに丸い月が浮かんでいた。夏の月が4人を見ていた。
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