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一石二鳥(15分間小説)

【あらすじ】

陽亜は、大学時代に東京に出て来て以来、地元に戻る気もなかったがある日、7年ぶりの父からの電話で仕事も生活も一変。付き合っていた彼氏とも別れないといけないことに。物語は、そんな陽亜の久しぶりの上京から始まる。文庫本にして約15ページ程度のショートストーリー(9000文字弱)

【本編】
タクシーの車窓越しに広がる風景を眺めながら、東京は何年ぶりだろうと陽亜はぼんやり考えていた。
このところ仕事が忙しかったせいかウトウトしてきた。やがて目が閉じた。


「もしもし高畑です」
「陽亜か?」
「え? あれ、パパ?」

7年ぶりに聞いた父の声だった。電話を通していても名前を呼ばれただけですぐに思い出せた。仕事人間特有の張った声は昔と一緒だったからだ。相変わらず仕事三昧なのだろう。

両親が離婚したのは陽亜が高校を卒業して東京の大学に進学をする年、今から7年前の春のことだった。
それ以来父とは会っていない。地元では割と名の知れた居酒屋チェーンの2代目経営者、それが父の仕事、母は専業主婦だった。

父は地元の大学を出てすぐに祖父の会社、即ち居酒屋チェーンに入社した。父が35歳の年に祖父が亡くなり、そのまま跡を継いだ。陽亜は8歳だった。母は父より4つ年下、地元の短大を卒業後しばらくは銀行で事務職をしていた。就職して2年が経とうとした頃にバブルが弾けた。母の銀行も煽りを受けた。母はやんわりとプレッシャーを受けて辞めることになった。母の親戚が父の会社に知り合いがいた縁で、バイトとして父の店に勤めることができた。そこで2人は出会い、1年後に結婚と同時に陽亜が生まれた。正確には陽亜を宿したので2人は結婚した。父が27歳、母が23歳の時だった。以来母は専業主婦である。

いつの頃からだろう、両親の仲が冷えていると感じたのは。多感な頃だったから中学になった頃だろうか。普段も店が終わる時間が遅いこともあり、帰りの遅い父だったが、それでも週に1、2回は平日陽亜が起きている間に帰って来ていた。ある時から、それがなくなった。仕事人間の父が知り合う相手は仕事場でしかありえなかった。新しく開店したお店の女性店長が相手だった。その当時で30後半だっただろうか。母と同じくらいの年齢に見えた。仕事はテキパキとしている人だった。陽亜は父との関係を知らなかったこともあり、こういう人がお店を仕切ってくれるなら父も少しは楽になるかもしれないなどと暢気に思っていたのを覚えている。その人との関係で家がバラバラになることも知らずに。

高校に入ってからは関係の冷えた両親と家にいることが嫌だった。東京に出たかったと言う思いも強く、大学は東京と決めていた。東京に出てきたかったのは人が多いとか、都会だからとかそんな理由ではなかった。空が抜けるほど青いからだった。高1の夏休み、仲の良い女友達3人組で初めて東京に遊びに行った。ディズニーランドで遊んで、スカイツリーに登って、、、いわゆるおのぼりさんツアーだった。その時の東京の空の青さが忘れられなかった。新幹線に乗って途中の長いトンネルを挟んで、まるで世界が違ったのが衝撃だった。昔の有名な小説家がそのことを題材にしたとかというのを思い出した。陽亜の住んでいる場所は年中曇っているか雨か雪だった。もちろん晴れの日はあるけれど、いつも空は黒みかかった灰色という絵が陽亜の中にあった。その時から高校を卒業したらあの青い空の下で大学生活を送ると決めていた。

両親は両親で、陽亜の高校卒業のタイミングで離婚することを決めていた。そのことを陽亜は高2の時に聞かされていた。両親が一緒にいて欲しいとすがる歳でもないと自覚していたので、2人から話をされてすぐに受け止めた。同時に陽亜も自分が決めた進路を伝えた。相談ではなく。青い空の下で暮らしたいなどという理由はもちろん両親には言わなかった。両親は、後ろめたさもあったのだろう、陽亜が東京の私立大学に行くことに反対はなかった。

そして4月4日生まれの陽亜が19歳になる春、陽亜は東京にある女子大の教育学部に入学し、両親は離婚した。離婚と一人娘の東京進学で一人になってしまう母だったが、離婚の1年ほど前から簿記の勉強を始めていて、親戚の工務店で雇ってもらえることになっていたので、陽亜の心配は多少減っていた。

大学生活は、想像していた通りとても楽しくあっという間に4年生になった。女子大だったが、近い大学の男子たちとサークルやイベントで交わることも多く、彼氏も4年間で何人かできた。そして4年生の夏、多くの友人たちと一緒に教員免許を取った。ただ、これから先ずっと先生をやっている自分の姿が想像できなかったので就活をした。そして一番先に内定をもらえた中堅の広告会社に入社することにした。広告への興味もあったが、人と交わることが生来好きだったこともあり、営業を希望していたら、この会社は営業配属が前提だったので即決したのだった。


入社して2年間は先輩について、いくつかのクライアントの仕事をした。3年目の春になろうと言う頃、一つ二つとプロジェクトを任せてもらえるようになった。自分の作った広告が世に出た。ようやく仕事が面白くなってきた。東京の桜は最近では3月に開花する。今年もそうだ。ちょうど昨日の朝、4月を来週に控え開花宣言したと気象予報士が情報番組で言っていた。
7年ぶりにあった父からの電話は、そんな時だった。

「今、話せるか?」
「ちょっと待って、少し場所を変えるから」
デスクを離れ、誰もいないエレベーターホールに出た。
「どうしたの急に」
「忙しいところ悪い。あ、そうだ、久しぶりだな。元気にしているか?」
昔と変わらない声の張り、少しぶっきらぼうで言葉が短い。
「ホント久しぶりね。うん、元気にしてる。パパは?」
久しぶりに父をパパと呼んだら、くすぐったい気分になった。会社にいるせいもあるのだろう。
「そうだな…」
声はしっかりしているが、急に歯切れが悪くなった。
「この間検査で病気が見つかった」
少し間が空いた。

「・・・ガンが見つかった」

「は?」
昔と同じ張りのある声と、その声が発している内容のギャップに、陽亜はこの一言、いやこんな気の抜けた音しか出なかった。

その週末に父が東京にやって来た。髪の毛白くなったな、会った時にまず思った。よく見るといくらか痩せたような気もした。電話で病気のことを聞いたせいかもしれない。陽亜と会って父はマンションに来たがっていたが、近くの珈琲店で話すことにした。どんな話になるかわからなかったし、話を聞いた後どう振舞っていいかわからなくなるかもしれないと想像したからだ。昭和の風情を残すレトロなお店で、今日の私たちにはちょうどいいかな、と思いながら店に入った。メニューを見たかったが、そんな場合じゃないかと思い直し、父に合わせてホットを2つ注文した。父はコーヒーを頼むときアメリカンと言う。なぜかは知らない、昔からそうだった。今日もそうだった。店員がキョトンとしたので、陽亜がホットを2つと言い直した。注文を取った店員が下がった後、自分の言ったアメリカンが通じなかったことに不思議顔をしていた父が陽亜に向いて話し出した。電話越しの張りのある声ではない、ボソボソとした声だった。当時の女性とは別れたこと、母には全てを話をして今日来たこと、母とはよりは戻していないものの、最近は病気のこともあり、よく2人で話していること、などなど。

そして言った。
「陽亜、パパは長くないらしい。陽亜にパパの会社を継いで欲しい。それを言いに来た」

続けて父は、母の賛同は得ていること、戻ってきたら母と一緒に住んでそこから仕事に行くといいということ、、そんなことを言っていたらしいのだが、それは後になって再び聞かされた時に知った。

今日も短い父の言葉だったが、電話の時と同様うまく体に入ってこない。
パパは長くない?
パパの会社を継ぐ?
現実感のない言葉が宙で旋回していた。同時になぜか、陽斗の顔が浮かんだ。


会社の同期で一番気が合うヒカルから食事会に誘われた。ヒカルは名前の通り、いつも明るく輝いていた。そのくせ木目が細かく、陽亜の話もよく聞いてくれた。陽亜はヒカルにはなんでも話せた。こんな相性がいい女性に会社で出会えたことに陽亜は感謝していた。

その食事会は2年前の秋、陽亜たちが入社して半年経った頃のことだ。そこに陽斗がいた。陽斗はITコンサル会社に勤めていた。陽亜とは学年違いの同い年だ。ヒカルの大学時代のサークル仲間で、その日は男性陣の幹事だった。第一印象はクールでちょっと話しにくそう、というものだったが、話してすぐに印象が変わった。笑顔とのギャップが大きいのだ。それがとても心地よかった。話していると、陽斗はとても人懐っこく、誰とでも仲良くなれるタイプだとわかった。一人っ子だと言うことだった。良い意味で可愛がられて育ってきたんだろうな、と陽亜は思った。バーでバイトをしているということだった。付き合うようになって一度陽斗のバイト中にバーに行ったこともあるが、その人当たりと話術ですっかりお店の空気を作り上げていた。

出会った時の会話はよく覚えている。お互いの名前に共通点があったこともあり、名刺交換をした時に名前の話から距離が縮まったのだ。
「このお名前は何とお読みするんですか?」
「はるあ、と読みます。4月の日差しの柔らかい日に生まれたそうで、この漢字にしたそうです。亜は響きだと言っていました。亜は適当みたいです」
「ははは そうなんですか、面白いご両親ですね。僕ははるとと読みます。残念ながら3月生まれです。勉強が好きだったので、1年多く大学に通いました」
とニコリ。そして陽斗は続けた。
「やはり春と日差しをかけて、穏やかで明るい子になるようにこの漢字にしたそうです。斗はカッコいい男の子っぽいからって言うことでした。なんか僕たちの両親、似てますね」
とここでもニコリ。陽斗の2回のニコリで陽亜は落ちた。付き合ってからも陽亜は時々この時のことを思い出しては「陽斗のニコニコリは凶器」と言って2人で笑っていた。

付き合って1年半経つ頃、2人は間も無く入社3年目を迎えようとしていた。陽斗も陽亜に負けないくらい仕事に没頭して、このタイミングで大きなプロジェクトのリーダーに抜擢された。陽亜も喜んだ。2人で世の中動かそう!などと大きなことを言いながらお互い刺激しあっていた。恋人であり、ライバルみたいな関係だなと陽亜は思っていた。そしてそう思うたびに陽亜の心にはエネルギーがチャージされた。

そんなある日、陽斗が言った。
「来月の陽亜の誕生日、忙しいと思うけど空けといてほしい。お祝いしたいのと、あと、話したいことがあるんだ」

父からの電話はこの翌週だった。


父が東京に来た日から10日ほど過ぎた。父の言ったことを咀嚼できるくらいの時間は経った。最初の1週間くらいは何をしてもフワフワしていた。自分の将来を今ここで決めないといけない場面で人間はこんなあやふやで手応えのない感覚に陥るんだということを経験した。そしてようやくある場所に辿り着いていた。

陽斗に相談しよう、それで決めよう。もし賛成してくれるなら嬉しい、もしそうでなかったら・・・

陽斗次第ではあるものの、足がようやく地に着いた感じが戻ってきた。そうして我に返るとふと気になることが湧いてきた。この10日、仕事に影響はなかっただろうか。父が帰った後、ヒカルにだけは父と会ったこと、父に言われたことを話していた。事情を知っているヒカルが特に何も言ってこなかったので、仕事はなんとか普段通りやれていたのだろう。

もう一つ…。4日の誕生日に話があると言っていた陽斗の話は何だったのだろう。仕事以外の予定はこの1週間リスケしてもらっていた。陽斗との約束もそうだった。25歳にもなったので誕生日ではしゃぐ歳でもないと言って、約束を延ばしてもらったのだ。

急に現実的な想像力が働いてくる。陽斗は以前、自分の両親の話をしていた。自分たちが早い結婚だったこともあり、陽斗にも早く身を固めて欲しがっていると言っていた。あれ?もしかしたら、この間言っていた誕生日にしたい話はそれ? もしそうだったら私はどうしたらいい?


それから陽斗からLINEがあったのは陽亜の誕生日から少し経った時だった。おそらくヒカルが陽斗に話したのだろう。陽斗は気を遣って連絡をしてこなかったのだ。陽亜もなんとなく連絡しづらく、陽斗からの連絡を待っていた。

「今度の土曜日、会える?」
すぐに返事をしなきゃと焦った。
「もちろん!」
びっくりマークをつける自分に、かえってよそよそしいな、と突っ込みを入れたものの、他に気の利いた言葉もスタンプも思いつかなかったので、そのまま返信した。

土曜日、いつもの待ち合わせ場所に11時。いつもはギリギリの陽亜だったがこの日は5分前に駅に着いた。少し早いかなと思って待ち合わせの場所まで気持ちゆっくり歩いた。陽斗はすでにいた。いつも待ち合わせは陽斗が先にいた。毎回一体どのくらい前に来るんだろう、と今日に限ってそんなことを思いながら「お待たせ!」と陽斗の後ろから声をかけた。ビクッとして振り返った陽斗は驚いたせいもあるのか表情がいつもより硬く見えた。「びっくりしたぁ どうしたの今日は早いね」と言った頃には表情はいつもの陽斗にちょっとだけ戻っていた。

「これからどこ行く?」
陽亜が聞いた。
「応援してるよ」
陽斗がニコリと笑う。

「ん?え?」
「応援している」
またニコリと笑う。これはやっぱり凶器だ。少し久しぶりに会って改めてそう思った。

「ヒカルから聞いた。誕生日のリスケもそれだったんだろ?」
優しくニコリと言う。ニコニコリじゃない、今日はサンコニコリだ、陽斗、語呂も悪いぞ。
あれ、陽斗の顔がかすんできた。目の前の陽斗がずぶ濡れだ。天気はこんなにいいのに。

言葉が出てこない。

「俺はさ、ずっと陽亜といたい。ずっとずっと一緒にいたい」
陽斗も泣いてる?こんな街のど真ん中で? みんな見てるじゃない。
「でも、陽亜が迷ったり悩んだりしているときは一番の応援団長でいたい」
陽斗もうやめて、その言葉が出ない。
「陽亜の誕生日、2人これからも最高のパートナーでいような、ってプロポーズしようと思ってた」
思ってた?今は?
「でもリスケになって、その理由もわかったら、応援するしかないって思ったんだ」
結論1人で決めてるし
「会社の仕事は陽亜の代わりがいても、陽亜のご両親には陽亜しかいない」
陽斗がついに見えなくなった。きっと今私はひどい顔で泣いているに違いない。パンダどころではない、きっとクロクマだ。え、クロクマなんて言うんだっけ?泣きながら冷静なもう1人の自分がいる。自分の感情がもうわからない。人はこんな一瞬で大泣きできることも今日初めて知った。

どうやって帰ったんだろう。その前に、陽斗とどう別れたんだろう。何も覚えていない。
気づいたら部屋のベッドの上にいた。もう日曜日になっていたんだ。涙も枯れるなんて聞いたことあるけど、この涙止まらない。私の涙は泉なのだろうか。

失った。一番大事な陽斗を失った。
自分が持っているこの石はもう投げられてしまった。陽斗に相談してから決めようと思っていたら陽斗は勝手に私の、たった一つの石を私から奪って思い切り投げてしまった。もう戻れない。


「起きなさい!今日は市場に行く日でしょ」
「・・・頭痛い、大きい声出さないで」
「今日早いのに昨日遅くまで飲んでるからでしょ」
「だってママ、一郎専務に誘われたら断るなってパパから言われてたし、仕方ないでしょ」

地元に戻ることを決めた後、父の病気はあっという間に進んでしまった。父の意識があるうちに陽亜は会社のことを父から引き継いだ。教育係は祖父の時代からの番頭で今は専務の大村一郎が務めた。社員のこと、各店舗のこと、仕入れ先、上顧客、毎日覚えることだらけで、半年があっという間に過ぎた。そして父は亡くなった。最期の父は陽亜が継いでくれたことで万事うまく行くと信じていたのか、それは穏やかな表情だった。勝手に全部決めてそんな顔でいなくならないでよ。陽亜には不安しかなかった。病床にいたとは言え、父がいることで取れていたバランスがどうなってしまうのだろうという不安だ。

不安は的中した。父の死後難題奇題が勃発した。ある店舗の店長、それも父が信用していた従業員が店の金を持ち逃げした。店に出ているときに陽亜が女性社長というだけで言いがかりをつけてくる心無い酔客も1人や2人ではなかった。一郎専務に相談をしても、ベテランで男性の経験談が返ってくるだけだった。全ては彼の暗黙知。何の参考にもならない。店の改修もしないと。常連客頼りのお店だから新しいお客さまも取り込まないと。

陽亜のコップの水はもうあふれてしまっている。
味方はいない。
あーもうどうしよう、だからやだったんだ、空だって青くないし! 
陽斗助けて!
と頭を掻きむしっていた。そのとき不意に肩をトントンと叩かれた。


「ママ、もうすぐ降りるって。」
陽太の声だ。体をこちらに向け小さな右手で右肩をトントンと叩いて起こしてくれた。目が覚めた。
「ママ、あーもうどうしようとか言ってたよ。大丈夫?」
陽太が心配そうに陽亜を見上げている。3歳にもなると一人前に心配してくれるのだ。
「ハルくん、ありがと、大丈夫。ちょっと夢見てたみたい」
陽太はこの春3歳になった。今日みたいなポカポカ陽気の日に生まれたので、一文字取ってハルタとつけた。太は、ヤンチャでいいから元気に育ってほしいという願いでつけた。元気な子には太が似合う。

「ママ、ハルくん、ほら見てごらん。ここが東京進出の第一号店だよ」
助手席にいるパパが言った。外に目を向けた。ヒカルだ!両手でバタバタと手を振っている。
「ヒカル~!」
陽亜は窓を開けて手を振り返した。間も無くしてタクシーはヒカルの脇、すなわち陽亜の東京第一号店候補地の前で停車した。
パパが精算している数十秒が待てず、陽太を連れて外に出た。
「ヒカル!久しぶり!きてくれたんだ!」
「へへへ 夜まで待てなかったから来ちゃった。ハルくんに初めて会えるのすごく楽しみだったし。陽亜が東京に出すお店も見たかったし!」


バタン。精算を終えたパパがお釣りを小銭入れに入れながら出てきた。ヒカルの話し声を聞いてパパが言った。
「おいおいヒカル、俺もいるだろ」

「あ、そうそう ついでに陽斗にも会いに来たんだった はは」

「ちぇ、ついでかよ・・・」


陽斗は陽亜と別れた後もヒカルを通じて陽亜の状況を逐一聞いていた。陽亜の父が亡くなった後の会社のこと、そして陽亜自身の様子。陽斗は初めて任されたプロジェクトが2年でひと段落したところで会社に辞表を出した。なんのためらいもなく。なんの確約もない将来を信じて。


ある日、店に出ていた陽亜の前に陽斗は客として現れた。
「いらっしゃいま・・」
「よ!」
陽斗が振り向いた。昨日も会っていたようにニコリと笑ってる。
「へ?」
情けない音が漏れた。
「俺、応援団やめて、陽亜監督んとこの選手になるわ」
ニコニコリだ。この凶器は必殺だ。

なんの前触れもなく陽斗が一瞬でかすんだ。店内に雨なんか降るわけないのに、陽斗が視界の中で濡れている。
いつかと一緒だ。でも今日の雨はいつかのより温かい・・・。


陽斗は培ってきたスキルでお店の経営を一新してくれた。テーブルオーダー、テーブルチェックのデジタル化。子供が楽しめる来店ガチャガチャや当たり付きメニューなんかの店内エンタメで若いファミリー層も取り込んでくれた。昼の空いている時間には、学生や社会人が勉強や仕事できる空間にした。店の雰囲気は大きく様変わりした。ホールの従業員に対しては陽斗が自慢の人たらし力をマニュアル化して教育してくれた。店は生まれ変わった。翌年陽太がお腹にいることがわかった時に2人は結婚した。


「それにしてもこの家族はハルしかいないのかね、、ハルタン星人か。チョキチョキ」
ヒカルがおどけながら、チョキにした両手をハサミのように動かして両腕を広げた。
「僕たち仲良し家族だからみんな同じハルなんだよ、ヒカルおばちゃん」
陽太が無邪気に言う。
「おば・・・あのね、ヒカルお・ね・え・さ・ん ホント親の顔が見てみたいわ。」
そう言いながらヒカルは両手のチョキで陽太の小さな頭を挟んだ。
陽太が「やめて、ヒカルおねーさん・・」と体をねじると、ヒカルは「まったく・・」と言って大袈裟にため息をつきながらチョキを陽太の頭から離した。
「ヒカルおば、いやヒカルお姉さんこわいねぇ、気をつけようね、ハルくん」
陽斗が陽太をかばうように抱きしめながら言う。ここはニコリではなくニヤリ。口角は半分だけしか上がっていない。
「ま、失礼なハルトおじさん」
ヒカルはそう言って頬を大きく膨らませて腕を組む。

3人の他愛もないやり取りを微笑ましく見ながら、陽亜の意識は少し離れたところをさまよっていた。


6年前の春、陽斗に石を投げられて選ぶことになった道。投げた石のせいで一度は、陽斗を失った。だけど、陽斗はもう一度私の前に現れてくれた。そしてお店と私を救ってくれた。東京にお店を出すところまであと少しだ。何より、陽太とも出会わせてくれた。

陽斗を一度失ったマイナスが1、陽斗が再び現れたプラスが1、陽太が生まれてくれたプラスが1、私たちの会社が大きくなってくれてプラス1、合わせてプラス3。3引く1で2。これも一石二鳥っていうのかな。1人でこんな他愛もないことを考えていた陽亜の目の前を2羽の燕がスーッと横切って大空に消えていった。

見上げた春の空は穏やかで、東京に来ようと決めたあの日よりも青かった。

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