デカイ女で生きてきた
落ち込んだ時に読む幸せオーラの恋愛マンガ。ヒロインはたいていかぼそくて背が低いよね。
体格にコンプレックスのある女性の話も少なくないけれど、毎回、このタイプのヒロインは幸せになってくれ! と祈っちゃうよ。
--***-- --***-- 愚痴じみているので目次はなし
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幼少のみぎりより、私は縦にも横にもデカかった。
背の順に並ぶと、だいぶ誤魔化しても後ろから3番目にしかならない。
小学校時代なんざ、男の子は全員見下ろしていた(女性の方が成長が早いからね)。
縦だけなら「かっこいい」「モデルみたい」という選択肢もあっただろうが、横にもすごかったので、ただ単に「デカイ」。以上終わり。
そうして私は、体格に見合う虚勢を張ったり、その反動でひどく卑屈になったりする性格になった。
いや、ちょっとウソだな。
態度がデカイのは、生まれつきだったかもしれない。家庭が荒れていて褒められるのがレーゾンデートルだったので、なんでも引き受けたし、年齢以上の結果を出そうとした。
他の子を見下したつもりはまったくないが、「なぜできないんだろう」といらいらして、周囲の役割まで奪うようにしてやり遂げたりした。それが全体進行(もちろん小さいときにはそんな言葉は知らないけど)にとってはスムーズな方法だと信じていたのだ。
やなヤツである。
小学六年生頃に一気に痩せて、中学になると私の背を追い越してくれる同級生もいないではなかったが、それでもまだデカイほうだった。
なんにせよオトシゴロである。
けど、このデカイコンプレックスのせいで、自分より背が低い男性のことは、どうしても除外してしまっていた。今から考えるともったいない。
くわえて、私は4月生まれなので、同級生はほとんどが年下。月齢ぐらいどうでもいいじゃんと思うだろうけど、当時の私にはわりと重要な障害だった。ことあるごとに「あねさん・ねえさん」扱いされていたので、数ヶ月の差であってもそれが事実であることが嫌だった。
とにかく、体格がいいと悪目立ちする。
何もしないのに「デカイ」と視線を浴びるなら、堂々とかっこよく優秀でありたい。
うどの大木とは言われたくないし、妙に背をかがめた人間にもなりたくなかった。
それで軽率に頑張り続けてしまった。
自分よりも優れた人にはちゃんと「助けて~」と精一杯かわいくお願いすることもあった。悪い人はそういないので、多くはそのまま助けてくれた。
だが、家に帰って布団に入ると、もうひとりの自分がそのシーンを幽体離脱よろしく高所から見ている感じがして、「ほら、こんなに似合わない! ぶりっこ(いまや死語)! 手伝ってくれたけどほんとはヤレヤレって思われてるよ」と罵ってくる。
自分一人じゃなくてみんなでやろう、と気を引き締めてかかっても、「みんなでやるために仲間を統率する」役割が自然と回ってくる。それを避けようものなら、いつの間にか先生が後ろに立っていて「スガさんがやればいいじゃない。押し出しも強いし、発表のときに立派よ」と、悪気のない言葉を発する。
つらい。それもこれも、デカイせいだ。
要は、「たまには甘えさせてくれよー」なのだ。
お姫様抱っこまでは望まないけれど、困っていたら事務作業なんかスラッと代わりにやってくれちゃったり、喉が渇いたら「ほらよ」と缶飲料を投げてくれたり、そういうシチュがあってもいいじゃん、と夢見ていた。
事務作業や喉の渇きと体格がどう関係あるかって?
あるんです。
デカイというだけで、大丈夫だと思われるんです。肉体的にも精神的にも。
デカイというだけで、かわいい、という形容詞がぶっ飛ぶんです。
想像してみて。デカくて「なんか大丈夫そう」な人間に対して、好意もないのにあえて優しくしたりする?
私だってなあ、ピンクのフリフリを着たい頃もあったし、頭をぽんぽん叩かれて癒しの言葉をかけてもらったりしたかったよ。頭を撫でるにも背の高さは障壁なんだよ。
肩に手を回してもらうにも、肉は実際にいっぱいついてるし、(やっぱり幅が広いな)なんて1ナノセカンドでも思われたくないじゃないですか。
松任谷由実の「五センチの向こう岸」みたいに、ちゃんと付き合う相手がいたわけじゃないから、友人にあれこれ言われてよけいに気にすることはなかったけど、自分の中の乙女願望がどうしても拭い去れない(いまだに)。
世の中には、背が低くて、または痩せすぎていて、悩んでいる人もいっぱいいる。
それが、小さい=幼い、と見られ、自分の努力が正当に報われない場合があることも知っている。
それでも、だ。
幼い子供のような愛らしさ、幼い子供に対するのと似た庇護、というのですら、デカイ女は滅多に得ることができない。
大丈夫そうに見えるなら、ほんとに大丈夫でいてやろう、と、身の丈に合わない「かっこよさ」を求める方向にしか向かえないのだ。
それが、たまにつらくなる。
小学生の頃、私はもう日舞をやっていた。
亡父は飲んだくれで、かろうじて京都の物産展の役員として拾ってもらっていた。
ある物産展で、別の人が私と父に「日舞やってるんなら舞妓さんになれるなあ」と、冗談を言った。父は間髪を容れず「こんな大きかったら、エズタラシイわ」と答えた。「おこぼ履いたらお客さん見下ろすでぇ」とも。
エズタラシイというのは、えずく、つまり吐くほどにみっともない、という京都弁だ。おこぼはご存知の通り、底が厚く、十五センチほど背が高くなる。
ああ、だめなんだ、と私は思った。がっかりではなく、しーんとした気持ちだった。京女なのに、日舞もやってるのに、私は舞妓にはなれないんだ。別になりたいわけではなかったが、体格のせいでできないことがある、と初めて知った瞬間だった。
背は縮めようがないから、せめて痩せようと、年がら年中努力している(ある程度は……)。
夫は、私より背が高く(もっとあってもいい。私的には2メートルでもいい)、体重も重い。脂肪だけではなく筋肉があるところがポイントだった。だが、もちろん不満もあって(500万字削除)。
病気のせいで横にデカイ娘には、私がかつてほしかった「甘やかし」……抱きしめたり撫でたり……をしている。かわいい髪飾りも小さいときは喜んでつけてくれていた。彼女の背が低いのも病気のせいだが、正直、縦にもデカくなくてよかった、と思っている。ただ、彼女に私の代役を押し付けるつもりはなく、今はみっともなくない範囲でいろいろなものを自由に選択させている。
たった二回。もっとあったかもしれないが、忘れがたいものはたった二回。
「ああ、私はいま、かわいいと思われている」と感じたことがあった。
その思い出を大事にして、これからもいやいやながら頑張っていくのだと思う。
漫画の中の主人公にはなれない。厨二病になる前からそんなこたぁ判りきっている。
けど、ブラウスの袖丈が足りない、かなりいい線いってる異性なのに自分より背が低い、そんなことがあるたびに、ちっちゃくかわいくなりたかったなあ、と心の中で吐息をつく。
最近流行りのマッスルバーとやらにでも行ってみるかな。いやいや、ホスト的にはまっちゃったら怖いけどな。