青春ドロップキック【3.薫風】
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キーボードから手を離して、すっかり温くなってしまったミネラルウォーターを喉へ流し込む。ペットボトルについた露が右手を濡らした。
恋はするものではなく、落ちるものだ、と云ったのは江國香織だったか。巧いこと言ったもんだ。あんな経験をして、恋愛よりも部活優先だと決めていたはずだったのにな。
首にかけていたタオルで右手の露を拭き取り、私はまたパソコンへ向かう。開け放っていた窓から、陽光が差し込む。
心地よい薫風が、あの頃を思い出させる。
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準備運動が終わるころにはすでに汗だくになっていた。道着というのは非常に通気性が悪く、ものの10分で道着を濃い紺色に染め上げた。
「竹刀持って…構え!!」
竹刀を構えた部員を見渡す。草野さんはしばらくして東島先輩と別れて、案の定というか、部活を辞めてしまった。当の東島先輩も引退しているのでしばらくは顔を出すことはない。
一人ずつに目を配らせ、構えを確認する。一瞬、百田さんと目が合った気がした。僕はすぐに隣の高坂さんに視線をずらす。
「素振り30本…始め!!」
目が合ったのは気のせいかもしれないし、気のせいじゃないかもしれない。ただ一つの事実として、僕は百田さんの視線を気にしていた。
目線を正面に戻し、僕はただ竹刀を振ることだけに集中する。
高校生の夏休みは忙しい。「休み」と銘打ってはいるが、実際は朝から昼まで夏季補習が毎日行われ、補習が終わればすぐさま部活動が始まるのだ。なんともありがたい夏休みである。
3年生は引退し、どの部活も新チームとして本格的に活動が開始される。わが剣道部も同じく、毎日炎天下の中猛練習が行われていた。
しばらくすると、顧問の先生が道場に現れた。体育の講師の先生で若くて熱心な先生だ。今年の総体の雪辱を晴らすべく、丸坊主にしてこの夏の練習に燃えていた。
剣道部は年に何回か「修羅場」がある。昔のいわゆる「シゴキ」に近いものだ。大体が試合で無残な結果を残した後の練習か、夏の時期にあるのだが、今日はまさしくその日だった。
「お前ら1年から並んで1人ずつ俺に掛かってこい!」
地獄の鐘が鳴る。
武道場は地獄絵図だった。顧問への掛かり稽古が始まっていったい何週目だろうか。練習の激しさと暑さで一人、また一人と立ち上がれなくなった者が道場端に倒れこんでいく。
結局最後の最後まで立ち続けられたのは、1年の男子2人と副キャプテンの吉見、そしてキャプテンの僕だけだった。
30分の休憩を言い渡され、顧問は面を取り師範室に入っていく。
僕は1人ずつに声をかけていく。すぐにでも防具を外し休みたいところだったがキャプテンとしての責務を感じたのだろう。
息が荒く、半泣きの1年生をひとしきり励ましたところで、未だ床にぺたんと座り込んだ状態の百田さんが目に入った。
「百田さん、大丈夫?」
百田さんの正面に膝をつき、尋ねる。玉のような汗を浮かせた百田さんの瞳が面の金具越しに僕とぶつかる。肩が上下に揺れている。大きな瞳から一筋、涙が零れた。
「ハァ、ハァ…大丈夫。ありがとう。ごめんね」
今にも消え入りそうな笑顔を一瞬見せてから、また百田さんは俯いてしまう。早く息を整えようと、嗚咽をこらえて深呼吸をしている。
とにかく、何か励ましたいと思ったが、思いつく言葉が空虚なものに思えて、何も言えずただ俯く彼女を見ていた。
――その時は、多分無意識だったと思う。何か、元気づけてあげたい。そう考えての結果だった。
「よう頑張ったよ。頑張った」
そう言って僕はぽんぽん、と百田さんの頭にそっと2回手を置いて立ち上がる。
その瞬間、何かいけないものに触れてしまったような気がした。ざわ、と何かが僕の中で騒いだ。
武道場の隅に正座をして、面を外す。汗に濡れた髪はそのままに外へ出た。
風が僅かな涼を感じさせる。武道場の外にある水道の蛇口をひねると、水がきらきらと光を受けながら弧を描いて地面に落ちていった。
水のアーチを遮るように、後頭部から水を被る。熱を持った僕の身体と心が徐々に冷えていく。僕はしばらくの間目をつぶって、ただ水の冷たさと飛沫の音を感じていた。
先程のやり取りが、ビデオテープのように巻き戻されては、再生される。
あの時、僕はなぜあんな事をしたのだろう?
僕は――。
心のざわめきは、いつしか鳴りを潜めていた。
蛇口を締め、タオルで濡れた髪を拭き、武道場へ歩みを進める。
薫風が、髪を撫でる。
グラウンドの向こう側から、金属バットの乾いた音が聞こえてきた。
【登場人物】
・僕(私):主人公(hinote)
・高坂さん:部活の同級生。凛として少し気の強そうな女子。ちなみに女子キャプテン。
・百田さん:部活の同級生。目鼻立ちがくっきりしているが、大人しそうな印象の女子。どうやら何か起こりそうな気配。
・草野さん:部活の同級生だった。東島先輩と付き合うも破局し、退部する。
・東島先輩:部活の先輩。草野さんと付き合うが破局。部活は引退。
・吉見くん:部活の同級生。1年時のクラスメイトで、現副キャプテン。
この話に登場する人物はすべてモチーフがいます(リアル友達・先輩)が、名前は変えております。小説風に体裁を整えておりますので、多少の脚色はありますが、基本的なところはノンフィクションです。
ちなみに「薫風」とは、(若葉の香りを漂わせて吹く)初夏の風、という意味です。趣のある言葉ですよね。
あ、挿絵は諦めました。誰か描いてくれたら嬉しいです(笑)