【建築】ピーター・ズントーは投入堂を見たのか?
いつの時代も人間は少し無茶をしたがる生き物だ。挑戦とでも言おうか?
建築においても、孤島、険しい山の上、海の中など「何故そんな場所に無理してつくった?」と問いたくなるものが古今東西・世界各地にある。
日本では古来より山を修行の場とする山岳信仰がある。また霊山として、山そのものを御神体や崇拝の対象としている寺院や神社も少なくない。
霊山は全国にあるが、鳥取県では大山が有名だろう。
その大山から東へ40kmの山中に三佛寺がある。奈良時代に開山されたという1300年の歴史を持つ三佛寺は三徳山を境内とし、鳥取県では大山と同様に山岳信仰の対象となっている。
この三佛寺の奥院である投入堂は、他に類を見ないオリジナリティと美しい姿から日本建築としても評価が高い。そして私が最も訪れたかった建築でもある。
2022年5月の週末、私は迅る気持ちを抑えながら三佛寺の門前に立っていた。建築を見に行くのが楽しみでワクワクするのは久しぶりのことだ。
まずは出発前に近くの遙拝所から目的地を眺めてみる。遙拝所の名前の通り、遥か遠く山の上に投入堂が見えた。
あそこまで歩いて行くのか…
始めに本堂に向かう。投入堂があまりに有名だが、伽藍も整備されている。
階段は多くの参拝者が行き交ったことによってすり減っていた。これだけでもその歴史を感じさせる。
こちらが本堂。江戸時代後期に再建されたお堂で、比較的新しい。
本堂の裏に事務所があり、入山手続きと服装・靴のチェックを受ける。そう、投入堂への参拝は観光ではなく"修行"とされている。標高差約200m、全長約900mの道中、つまり行者道はとても険しく、ほぼ全てが急坂や崖である。「日本一危険な国宝」とも呼ばれ、実際に死亡事故も発生している。舐めたらあかん!
それでは出発!
しめ縄のある御神木の先からが神聖な行者道となる。
歩き始めて間もなく出会う小さな祠は十一面観音堂(野際稲荷)。江戸時代中期と意外に古い。
最初の難所はかずら坂。急斜面を、張り巡らされた木の根に捉まりながら登っていく。これまでに数多くの人たちがこの根に荷重をかけながら登っているが、それに耐えている根はすごいなあと感心してしまう。
続いてくさり坂。そのままの名前だが、あまりに急坂で狭いので、登りと下りでルートが別れている。
崖の途中から見えてくるのは室町時代後期の建造とされる文殊堂。京都・清水寺本堂でも有名な懸造といい、急斜面に柱・貫を組んでその上に建物を建てる工法。崖造とも呼ばれる。
材料をここまで運んでくるだけでも大変だが、どうやって建てたのだろう?
周りは縁側となっている。雨を落とすためなのか、床は外側に傾斜している。高所恐怖症の人は絶対歩けないだろう。素晴らしい眺めだが、もちろん落ちたら大怪我、場合によっては命も落とすことになる。
それにしてもココまで自分の足できたからこそ得られる解放感!
行者道に戻る。
くさりに捉まりながら岩場を歩くと、今度は地蔵堂が見えてくる。
こちらも建造は室町時代後期。
先ほどの文殊堂とほぼ同じ建築様式だが、軒天の仕上げがちょっと違う。
ここからの眺めも素晴らしい。
少し休息したら再び行者道に戻る。相変わらず続く岩場。
そんな岩場につくられた鐘楼。鎌倉時代の建造とされている。
誰でも撞くことができる鐘を鳴らすと、美しい音色が山中に響き渡る。
それにしても重量が3トンもあるこの鐘、どうやってここまで運んだのだろう?
既に息が上がっているが、ここまで来ればあと一息!
馬の背を渡り抜けると、木々の向こうに観音堂が見えてきた。
と、その手前に納経堂。こちらは平安時代後期の建物と伝わっている。小さな祠だし、投入堂というメインディッシュの付け合わせのように思って素通りしてしまいそうになるが、細部まで丁寧につくられた歴史ある建築なのだ。
岩場の窪みにすっぽり収まっているお堂が観音堂。こちらは江戸時代初期に再建されたもの。三佛寺の伽藍の中では江戸時代と聞くと「新しい」と思ってしまう。
屋根の形状も測ったように収まっている。凄いね!
そして観音堂から続く大きな岩を回り込んだ時、"それ"は突然姿を現した。
ついに来たーーーーーー! 投入堂!
冒頭にも書いたが、投入堂は絶対訪れたい思い入れのある建築だった。しかし、いざ苦労して辿り着いてみると、"感動"とか"最高"とかいう安直な言葉は吹き飛んでしまった。只々圧倒され、しばらく何も考えずに眺めていた。
この投入堂、何度か修理されているものの、科学的調査によって最も古い部材は平安時代後期であることが分かっている。
柱は、平らに削った岩場に乗せられているだけ。多分固定はされていない。これは礎石の上に柱を乗せるの古来の寺院建築と同じだが、地震の時には滑り落ちてしまうのでは?と思ってしまう。
しかし2016年の鳥取県中部地震では大きな揺れがあったにもかかわらず、投入堂に大きな被害はなかったようだ。ただし行者道にある大きな岩がひび割れ、半年間入山禁止となっていた。
ちなみに投入堂が建てられている崖の凹みは元からある窪みである。三徳山は地質学的には花崗岩や凝灰角礫岩、安山岩など様々な地質が入り組んでおり、その境界部に長い年月の風化・侵食により窪みが形成された。投入堂も侵食を受けやすい下部の凝灰角礫岩層と天然の屋根のように覆いかぶさる硬い安山岩層との間に建てられている。
それにしても、立つことさえ難しい崖に何故お堂をつくったのだろう?
"修験道"という厳しい修行を行い悟りを得る山岳信仰があるが、過酷な環境下でお堂をつくるということも修行の一つだと考えたのかもしれない。
さて、そろそろ下山しよう。
その前に、隣にひっそりと立つ不動堂(江戸時代後期)にも参拝。
門前まで戻ると、美しい三徳川が疲れを癒してくれた。
ところでこの投入堂を見て、以前訪れたピーター・ズントーによるアルマナユヴァ亜鉛鉱山博物館を思い出した。
こちらのオープンは2016年。建物は険しい渓谷の中にあるが、もちろん現代の技術をもってすれば、少しばかり土地を平らに整地することは出来る。しかしあえて急斜面に建てられている。
柱は岩盤に金属プレートでしっかりと固定されているが、建築様式は柱・貫・筋交を使った懸造だ。
不必要に崖に建てられたこの建築。なぜズントーはこの工法を採用したのか?
厳しい環境にあったかつての鉱山労働者たちに敬意を払って、この建築もあえて難しい工法に挑戦したのだろうか?
そして果たしてズントーは投入堂を見てインスピレーションを得たのだろうか?(まあ、それは100%ないだろうな)