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パソコンのディスプレイと

auショップで不機嫌で甘えたがりな押しの強いちょっと顔が整っただけのおっさんに押し売りされたパッドのディスプレイと

不機嫌な生活を誰かのせいにするために、必死で何かを糾弾するだけのニュースが並ぶTwitterを開いている2年前のiPhoneのディスプレイが

成長期に視力が追い付かなかった私のメガネに映り込んでいる3面。

ほかには26歳の私がブランド時計の紹介記事を書いたお金で買った1,000円の腕時計が私の方を見て、少しずれた秒針が15時を指している。

こんな風に私の周りにあるモノをひとつひとつ言葉にすれば、それは私の世界を描いているというワケで。

ただ描写するだけでそこには私の世界が広がって、私の世界を少しだけ読んでいる人にも見せられる

かもしれない。

そんな単純なことに、簡単なことに、シンプルなことに、

やっと気が付いた26歳。

そんなことに今気が付いたの?とバカにしてくる中学生の頃の勉強ができた友人。

いつもこうして何かに気が付く度、私は脳内のだれかにバカにされている。

私の言葉で書くことが大切だって、今気が付いて、その世界が好きだって今気が付いたのに、それは私によってバカにされてさげすまれて、

せっかく綺麗だったバケツも色とりどりの記憶に汚されて真っ黒。

捨てなきゃいけない雑念が多くていつも迷走しているうちに寝てしまう。

それはいつもなの?上手くいっている時もあるかもしれない。

私は私だと、そう考えることは、案外難しいのかもしれない。

私の中には豊かな感受性の土壌の上に敷いた大きなラグカーペットのように劣等感が敷かれていて、雨が降るといつもその劣等感が土壌にしみだしてくる。

だから心はいつも、気持ちのいい雨に打たれているはずなのにそれを喜ぶだけでなく、どこかで自分をバカにする自分を抱える。

なんてね。

ここで、私が

私だと

だれかに肯定されたなら、

それを糧に生きていくのは依存。

でもそれを糧にして生きていけないのは孤独で、

じゃあ一体どう生きればいいの?なんて

他人に答えを求めることも依存。

人はひとりでは生きていけないのでは?

本当にまったく矛盾だらけだ。

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