ある企画が始まる前に、語っておきたいこと②-横に並んで、同じ星を眺める。”意味”を共有すること。
HIROBA
横に並んで、同じ星を眺める。
それはむしろ互いに向き合うことよりも、つながりを感じることなんじゃないか。
そして、それはおそらく、ほとんど人間にしかできないことなんじゃないか。
まっすぐに向き合い、互いの目を見つめ、言葉なり、表情なりを送る。
それはコミュニケーションをしている、情報を送り合っているという意味においては確かにつながっているけれど、人間のつながりかたには、もうひとつのかたちがあって【ともに同じものを”眺める”】という、営みがある。
それが星であろうと、花火であろうと、スポーツの試合であろうと、映画であろうと、そして桜であろうと。モノでもコトでも良いのだけれど、なにかを一緒に眺めることによって、時間を共有し、理解を共有し、感情を共有する。
見つめあうことは、動物と人間とでもできるけれど、ともに眺めることは、動物と人間とではなかなか簡単にはできないのではないか。ともに眺めていると思い込むことはできても。
無(あるいは無秩序)から意味を見出すとき、見出された”意味”を、共有できることがわかりあうということであり、つながるということではないか。
あなたが見ている世界と、わたしが見ている世界とが、おそらく同じであるということを確かめあうとき、ひとは安心するんじゃないか。
だから、言葉があり、創作物があるのではないかと、思い始めている。
なぜ「甘い」という感覚を、同じ言葉で共有できるか不思議だ。
息子がお菓子を食べて「甘い」と言う。
うちには犬がいるから、あの毛むくじゃらで、4本足で、わんわん吠える生き物は「いぬ」と言うんだよ、ということは教えることができる。実物を見せて、あれは「いぬ」だよと指し示せばいいのだから。
しかし、「甘い」という感覚は、彼自身のものだから、彼自身の感覚に指をさすことはできない。教えることはできない。にもかかわらず、おそらく彼がいま感じている「甘い」と、僕が感じている「甘い」は、わずかな誤差はあれども、ほとんど同じ感覚を示せている。
名前という虚構(僕は物語と言ってしまうけれど)をつけることによって、その感覚の輪郭をはっきりとさせ、他と区別させ、たがいに理解しあえるようにする。
そして、感覚という、自分の肉体の檻のなかに本来閉じこもっているはずのものを、あたかも分かち合っているような幻想に、人間はひたることができる。
自分しか知らないと思っていた感覚を、相手も知っているのだということを信じられて、人間は孤独ではないことを確かめられるんじゃないか。
それは、歌を楽しむときの構図と、ほとんど同一だ。
音楽には形がない。流れて、消えていくものだ。
自分は今までいくつもの歌をつくったけれど、それそのものが物質としてあるわけではない。あくまで”かたち”が、概念としてあるだけだ。
たとえば自分が描いた”かたち”通りに、ピアノで音を順番に弾いてもらうと、僕がつくったときに聴いたメロディと同じものが聴き手の前に現れる。すごいのは、どの楽器でも、それが起こる。どの声でも、それが起こる。
いくら吉岡の声を皆さんが想起しようとも、誰か違うひとの声でも、その”かたち”通り歌えば、「あの歌だ」と理解してもらえる。
それはつまり、多くのひとが、同じ虚構を頭のなかで立ち上げているということだ。同じ物語を、浮かび上がらせているということだ。
何もない空間に、音を手がかりに、ある”かたち”を浮かび上がらせている。
その”かたち”をともに共有することで、つまりは”眺める”ことで、僕らは歌を歌いあい、楽しみ合う。
誰かに、何かを渡す場所ではなく。
誰か”と”、何か”を”、眺める場所が欲しかったのでは無いかと思う。
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