読む『対談Q』 水野良樹×上田慎一郎 第3回:ここまでは引ける、これ以上引いたら解けない。
「映画になってきた」。
上田:僕は発見してほしいんだと思います。お客さんも自分で発見したほうが絶対におもしろいじゃないですか。さっきも言ったように、「家族の形っていろいろあるよね」とセリフで言ったら間違いはないんですけど、押しつけがましいじゃないですか。
水野:はい。
上田:たとえば、血の繋がらない父と子どもが二つの積み木セットでひとつの家を作る。セリフがまったくないそういうシーンを書いたとしたら、さっきと同じような意味を伝えられるというか。そして、それを自分で発見して感想を書けたほうがやっぱりおもしろいですもんね。
水野:「発見」とおっしゃったのがポイントな気がします。結局、観客に見つけてもらわないとダメっていうか。こっちがいくらメッセージを伝えても、向こうに自主性が一瞬ないと、成立しないものってあるじゃないですか。自主性を引き出す努力はいっぱいするけど、最後のスイッチは押せない。ご本人に押してもらわないと。
上田:そうですね。そこはよく議論になります。音楽でもあるかもしれないですけど、「これじゃわかんないよ」とか「いや、これでわかりますよ」っていう押し問答が。
水野:ありますね。
上田:塩梅が難しいですよね。どこに覚悟を決めてやるか。その塩梅が作家性みたいなところもありますし。ただ、一層目は誰でもわかるものを作ると、「これどういう話?」とはならないじゃないですか。より深く前のめりに観てくれるひとが、二層目から何かを掴み取る。それが自分にとって理想の映画だと思いますね。
上田:あと、よくわからない言葉なんですけど、映画人が時々、「映画になったな」って言うときがあるんですよ。
水野:はい。
上田:「やっと映画になってきたな」って。それはないですか? 「音楽になってきたな」みたいな。
水野:いやぁ、音楽は…。
上田:それはないか。やっぱり「映画」と「映画じゃない」境界線があるんでしょうね。できあがったときも、映画になった感覚があるんですよ。それは二層目がないとたどり着かないときが多いんですね。
水野:スキマスイッチの常田さんに、詞のダメ出しをされたときに、「詞のようなものを書いているな」って言われたことがあります。それとちょっと近いかもしれないですね。
上田:俺も脚本の先生に同じようなこと言われた気がする。「簡単に筆を滑らすな」みたいな。
水野:「映画になってきた」かぁ。
委ねすぎてもダメ。
上田:僕、最初の緊急事態宣言が出たときに、『カメラを止めるな!リモート大作戦!』というスタッフ・キャストが一度も会わずに短編映画を作る、というものを作って。短編映画と銘打ってYouTubeに上げたんですよ。でも、みんなが感想で、「映画だった」「映画館行きてー」って言ってくれて。それがすごく嬉しかったんですよね。
水野:ああー。
上田:だから映画のようなテレビドラマもあるし、テレビドラマのような映画もある。基本的にはテレビドラマって、ご飯を食べながら、料理しながら、“ながら”で観ることを想定されているので、かなりセリフとかもわかりやすくなっているんですね。それでいうと、観客を試す引き算をしたものが映画なのかもなと思います。
水野:これは難しいなぁ。観客との距離の取り方なんですかね。コミュニケーションの仕方というか。情報の与え方というか、差し出し方というか。
上田:たとえば、失恋したシーンがあるとするじゃないですか。そのときに悲しい顔をして、雨のなか、傘もささずに歩いたら、わかりやすいですよね。
水野:ベタ、ベタ、ベタですね(笑)。
上田:悲しい音楽も鳴ると。でも脚本段階で、「悲しい顔をしている」って書いてあるとしても、もし現場で雨が降っていたら、「もう悲しい顔はしないでください」と。「むしろ笑うぐらいでいいんじゃないですか」みたいな。さじ加減ですよね。綱渡りというか。
水野:説明されるとすごくよくわかります。ただ、簡単に言語化できるかというとそうでもない。いろんな要素が噛み合って、「今はこういう演出だ」と判断する瞬間があるってことですよね。
上田:そうですね。雨とかはやっぱりコントロールできないので。「あー、雨降ってきた、どうしよう」って、ワクワクしてくるというか。
水野:それこそ破壊ですよね。
上田:天からの破壊がよくあります。委ねすぎてもダメだと思っているんですよ。
水野:迷うのはそこですよね。
上田:そう、委ねすぎても自己満になっちゃう。何も持って帰るものがない。「なんなんだ、よくわからなかったわ」で終わっちゃうじゃないですか。だからさじ加減だと思いますね。ここまでは引ける、これ以上引いたら解けないっていう。
水野:難しい。CMソングとかやらせていただいていたときって、すごく暴力的なことを考えるんですよ。
上田:どういうことですか?
水野:ご飯を食べているひとが聞いたときに、「なんだ?」って向かないといけないじゃないですか。実際には13秒半ぐらいしか音楽が流れないなかで、サビ何回流せるかなとか。ワンフレーズで覚えてもらわなきゃとか。要は何かを引き出すというよりは、殴っている方向を考えるんです。でもそこをやりきると、やっぱりそれだけじゃダメだなって。で、ちょっと引くんですけど…。
上田:僕も結構、完璧主義で。会社をやっているので、ウェブCMとかも作るんですね。たとえばそういうとき、会社のお金を持ち出してまで、「これをやったほうがクオリティーが上がる」「僕らの取り分がなくなったとしても、これは作品なんやから」ってやりすぎてしまう。で、「いやいやいや、上田監督、ウェブCMぐらいもうちょい肩の力抜いてやってよ!」みたいなことがあるんですよね。
水野:真面目(笑)。
上田:それはいいところでもあるけど、そうすると映画のときに戦う力が残ってなかったりもするし。肩の力を抜いたときに、いいアイデアが浮かぶこともあるじゃないですか。だから、場所によって、わけてもいいのかなって。でもその葛藤を持つことは正しい気はします。
水野:そうなんですよね。葛藤はないといけないと思っているんですよ。このQも、「観客のなかに答えがあるだろう」って思っちゃうのは、間違いな気がします。先ほどの、「委ねすぎてもダメ」と同じで。
上田:あー。
水野:僕は一時期、無色透明になりたいと思った時期があったんです。とにかく自分が入ってほしくないと。でもそれはやっぱり無理だった。どうしてもそこに自分の視点とかが入るから。
水野:極端ではなくてどこか間に緊張があって。そこに多分、距離感の取り方だったり、情報の差し出し方だったり、破壊の度合いですかね。非常に曖昧な言葉で、答えにするには怖いけど、「塩梅」というか。
上田:でもそうだと思います。「観客のなかに答えがあるから委ねるんだ」って言うのも、サボっているともいえる。そこのギリギリのところを探すのが誠実さというか。これは毎作、探していることではありますよね。
マフィアのボスの絆創膏。
水野:ちょっと角度を変えて、ご自身がいちばん好きな映画作品は何ですか? 影響を受けたとか。
上田:『マグノリア』という、ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画で、トム・クルーズとかが出ているんですけど。3時間ぐらいある映画で。それかタランティーノ監督の『パルプ・フィクション』ですかね。
水野:それは何がいいんですか?
上田:『マグノリア』は、あまりエンターテインメントではないんですよ。高校生で初めて観たとき、何が言いたいのかも、自分が何をいいと思っているのかもわからなかった。でも、「なんだこの映画!最高だ!」ってなって。あと『パルプ・フィクション』で思い出したんですけど、あの作品のなかでスキンヘッドのマフィアのボスが後頭部に絆創膏を貼っているんですね。で、ファンの間で、「あの絆創膏はどんな意味があるの?」と。
水野:うんうん。
上田:「もしかしてギリシャ神話のこういう意味があるんじゃないか」とか。
水野:深読み大会が。
上田:そう。でも実際は撮影前に切ったらしいんですよ。ケガしたから隠すために貼ったらしい(笑)。『レザボア・ドッグス』っていうデビュー作のときもそういうことがあったんです。ただの現場のトラブルだったんだけど、「これはこういう意味じゃないか」って。タランティーノは、「観たひとがいろいろ考えて話してくれるから、言わないほうがいいよ」って、あえて種明かしをしなかった。
水野:そのイズムは上田さんも受け取っているじゃないですか。
上田:そうですね。だから、映画を観終わったお客さんから、「ここはこういう意味だと思ったんですけど、どうですか?」とか訊かれたとき、単純にこっちのミスだったり、トラブルだったとしても、「それはみなさんのお考えに委ねます」って言っています(笑)。
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