ある企画が始まる前に、語っておきたいこと③-わたしの”りんご”と、あなたの”りんご”
HIROBA
りんごが、そこにある。
この一文を読んだとき、きっとあなたの頭の中には、おそらく球体で、おそらく赤々しいなにかが、浮かんでいるのだと思う。あるひとは匂いまで思い出しているかもしれない。ところで、ヘタはあるだろうか?葉までついている?そんなひとがいたって、何もおかしくない。あなたも、誰かも、そして僕も。
僕らは、今、りんごを想像している。
だが、あなたが想像しているりんごを、僕は知らない。
そして、同じように、僕が想像しているりんごを、あなたは知らない。
”わたし”という主格以外、誰なんびともそれを見ることも、知ることもできない。本人にしか見えていない。
互いに”りんご”(と思われるもの)を想像しているということまではわかるけれど、その”りんご”は同じものではなく、むしろ全く異なるもので、僕らは個別には、それぞれ孤独な想像をしているだけだ。
ある虚構を立ち上げて、それを共有することで僕らがわかりあうとするのなら、言葉は虚構の補助線だ。
”りんご”と言われて、バナナを想像するひとは、おそらくあまりいないだろうから、”りんご”という言葉は、僕らの頭のなかに在るものを限りなく近づけてはくれている。”りんご”という言葉が引いてくれる”意味の境界”の内側にあるものを、僕らは頭のなかに浮かべるはずだ。
だが、そこまでだ。
ぼくらは”意味の境界”としての”りんご”については、わかりあうことができるけれど、僕らの頭のなかにあるそれぞれの”りんご”については、永遠にわかりあえない。
ここに、他者とわかりあえているという喜びと、他者とわかりあえていないという落胆が、同時に表裏一体となって、存在している。
あなたは”りんご”を思い浮かべてくれているけれど、あなたの”りんご”をわたしは一生、見ることができない。絶対に。
その事実は、絶望にも、希望にもなりうる。
自分は、希望にしたいから、その道へと話を続ける。
たがいに”りんご”を思い浮かべているという事実に安心しながら、そこでなおかつ、たがいの”りんご”が異なるものであるという事実に気がついたとき、人間は、初めて自分と同じように”自己”をもった他者がいることを感じられるのではないか。
わたしにも”りんご”が見えている。わたしの物語がそこにある。
あなたにも”りんご”が見えている。あなたの物語がそこにある。
たがいに自分の物語を持ちながら、それが違うとわかったとき、初めて人間は、他者に対して、その存在を認め、さらにひらたく言うのなら”思いやれる”のではないか。
そして、そのときはじめて、互いの物語のあいだにある距離に対して受け入れ、それぞれの物語がどうすれば近づけるのか、共存できるのか、つながりあえるのか、考えるのではないか。それは、やがて、あるいは”愛”とおぼしきものへと近づくのではないか。
物語と物語とが交錯するとき、その”コト”そのものが、もっと大きな物語となる。
つまるところ”人”でもなく、”思い”でもなく、”広場”を欲しがったのは、物語と物語とがらせんのように交錯して、大きな物語となる場所をつくりたかったのではないか。
僕は、大きな物語(=コト)のなかに、自分の身を置きたかったのだと思う。
そこではつまり、孤独ではなくなるから。
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