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松井五郎さんにきく、歌のこと 4通目の手紙 「新しい物語を書くこと」 松井五郎→水野良樹

2020.06.29

作詞家の松井五郎さんに、水野良樹がきく「歌のこと」。
音楽をはじめた中学生の頃から松井五郎さんの作品に触れ、強い影響を受けてきた。
もちろん、今でも憧れの存在。
そんな松井五郎さんに、歌について毎回さまざまな問いを投げかけます。
往復書簡のかたちで、歌について考えていく、言葉のやりとり。
歌、そして言葉を愛するみなさんにお届けする連載です。

4通目の手紙「新しい物語を書くこと」
松井五郎→水野良樹

水野良樹様

 お元気ですか?ツアー中止のニュースを聞き、心痛めています。自粛期間中も精力的に発信している様子は拝見していましたが、ライブが出来ない辛さは察するに余り有ります。一日も早く誰もが笑顔で集える日が来ることを祈っています。

 さて、前回のお手紙「いきものがかり」について語る件、内容に感銘を受けながら、更に、その筆圧に水野君の「いきものがかり愛」を感じて、羨ましい気持ちになりました。水野君が作家として活動されている時も「いきものがかり」というHomeがある事は、大きな力になっているのですね。僕も、例えば六人目の安全地帯と言われた時がありましたが、やはり作家のスタンスとして、どこにも属さないという立場を保たねばなりません。依頼を受ければ、そのチームの一員として全力を尽くすわけで、時には、別のチームの自分と競うことにもなります。それは刺激的ではありますが、戻る場所がなく旅をしているようなもので、時々少し寂しくもあり。その意味で水野君の「いきものがかり愛」に羨ましさを感じました。

 「愛」と安直に括ってしまいましたが、コロナ禍のせいもあるのでしょう、この言葉に今まで以上に敏感になっている気がします。

 考えてみれば、歌のテーマなんて、表層は多種多様でも核のところでは「愛」や「夢」に集約される気もします。孤独、怒り、憎しみ、そういった負の感情の歌でさえ、動機は愛の渇望であったり。ただ、言葉として「愛」は諸刃の剣でもあり、使い方によっては陳腐に聞こえてしまう事も多々あります。正しい使い方ができていたか?反省は尽きません。

 暫く前、こんな事がありました。空にはブルーインパルスが飛び、そのニュースが暗い日常に少しだけ光が差したように思えた日です。某番組である医療従事者から「今すぐにでも辞めたい。感謝なんかしてくれなくていい、個人としての生活を取り戻したい…」といった趣旨のお便りがありました。この言葉には動揺しました。勿論、感謝そのものは間違ってはいませんが、ただ一方で別の角度で光を当てると、感謝の言葉さえ負担にさせてしまう事があると、改めて思いました。

 愛や善意の光が強いほど、影もまた生まれる場合がある。「光がすべてを照らす」その過信を負った言葉を自分は書いてはいなかったか?万人の心を満たす事の難しさを感じます。

 以前、別のテーマの時に平原綾香さんの「明日」の話をしましたが、この歌は、書いた時は二人称のラブソングのつもりで書きました。冒頭の「ずっとそばにいるとあんなに言ったのに…」というフレーズは普遍的な恋物語の別れの設定として書いたつもりでした。ところが、震災後、ドキュメンタリー番組の最後にこの歌が流れた時、このフレーズの意味がまったく違うものになりました。大切な人を亡くして号泣する人々を背景に流れるこの言葉は、まさに傷ついた人々の声に思えました。そして、サビの「もう泣かない…明日は新しい私がはじまる」も恋の終わりから再生する意味で書いた言葉が、復興へ向かう人たちへのエールのように聞こえたのです。

 言葉に意図があるのは当然ですが、前述のように、その意図とは違った意味を持つ事がある。作者がどれだけ意気込んだところで、実は歌を完成させるのは時代なのかもしれません。歌は必要とされるものに生まれ変わっていく。

 若い頃、自分は「器」を作ろうとしていた気がします。つまり、形、記録、スタイル…しかし、いつからか「水」を作りたいと思うようになってきたかな。その時々で時代に相応しい形状に変化する言葉。同じ言葉、同じ表現が、あるときは励みに、あるときは救いに、あるときは挑発に、あるときは拳に…

 作者が意図しても、どうすることも出来ない力があるということ。それはネガティブな意味でなく、作品を時代がどう扱うかという楽しみでもあり。世の中の在り様に気を配りながらも、何事にも常に当事者の自覚と傍観者の視点を持ちつつ、主張やメッセージを掲げるというより、共感や共鳴を生むもの。そんな言葉をつかめたらいいなと思っています。

 By the way…
 ここのところ、キャリアのせいもあるのか、権利や数字といった現実的な事に目を向けねばならない場面が多くなってきました。若い頃はただがむしゃらに好きな事だけをしていればよかったのですが、次世代のためにすべき事を考える年齢になってしまったようです。先輩方から受け取るバトンの重さもあり、関係のないふりもできなくなってきました。

 ご承知のようにコロナ禍の影響で音楽関係の多くの職種で減収は避けられません。なんのために歌うのか、なんのために作るのか、自問自答しているアーティストも少なくないでしょう。そんな状況にあって、近いところではJASRACと音楽教室の話題や、サブスクリプションの在り方、または明らかに変化したライブ配信のこれからと色々考えさせられる事もあります。

 そういった音楽の未来について、水野君はどんな事を考えていますか?
 ハードの進化によって作り方が変化していく中、一方でアナログである価値も見直されたり。積み重ねられてきた歴史の延長にあるものと、そことはまったく別の価値観もある。生業としての音楽が成り立たなくなってきている現状もコロナ禍によって加速している気もします。

 政治や経済の世界同様、音楽の世界も、悪しき慣習もきっとあるでしょう。守らねばならないものと変わらなければならないもの。水野君の活動は、単に「水野良樹」という所謂ブランドプロモーションのようには見えません。阿久悠さんの企画やこの往復書簡も、未来に向けられている視線があるように思えます。批判や意見というのではなく、差し支えない範囲で、水野君はなにをしていこうとしているのか聞いてみたいです。

 僕は、やっぱり「愛」だと思うんですよ。公僕ではないけれど、僕らは民に育ててもらってる。そこに応えるためにできる事。そこには目先の利害とは違う「愛」がないと、音楽を続けてきた意味がないのではないかと。で、それってなに?

 そんな話をまた。

松井五郎


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