読む『対談Q』 水野良樹×松尾潔 第1回:ミュージシャンだけが音楽を形成しているわけじゃない。
水野さんとNHKのエレベーターでばったりご一緒して。
水野:さぁ、対談Qです。今日のゲストは音楽プロデューサーの松尾潔さんです。よろしくお願いします。
松尾:よろしくお願いします。楽しみにしていました。
水野:実際にこうやって面と向かってお話させていただく機会は、実は数年ぶりで。番組で一緒にパネラーとして出ているとか、現場でちょっと雑談するとかはあったんですけど。久しぶりにお会いできるのが嬉しくて。
松尾:僕も楽しみです。声をかけてほしいなって気持ちと、僕にはお声はかからないのかな、みたいな。
水野:なんでですか! 僕は逆に、親しげにお呼びしたら失礼なんじゃないかな、なんてずっと思っていました。
松尾:いやいや。
水野:一年前に松尾さんが出された、この『永遠の仮眠』というご自身初の長編小説。こちらも、僕は最初の時期から読んでいたんですけど。
松尾:ありがたい。
水野:この感想をつぶやいたり、オープンなところで言うのも、ちょっと生意気だなって。
松尾:本を出してしばらくしたとき、水野さんとNHKのエレベーターでばったりご一緒して。「本読みましたよ」と言ってくださったんですけど、僕はちょっと照れがあって。当時、いきものがかりは3人で、その日は他のおふたりもいらっしゃって、僕そういうときに悪態をついちゃう育ちの悪いところがありまして。「読んでくれたなら、もっと大きな声で言っていいんですよ」って言ったの(笑)
水野:いやいやいや(笑)。そのお話もしたい気持ちもあり、今回お呼びしました。対談Qでは毎回テーマを設定しまして。松尾さんと話すんだったらと考えたのは、「プロデューサー×クリエイター 両者の曖昧な“あいだ”について」。
松尾:うんうん。
水野:音楽プロデューサーとして、広く知られている松尾さんですけれども。もともとのキャリアは音楽評論家・音楽ジャーナリスト。分析する立場、インタビューする立場としてキャリアをスタートされて。そこから音楽プロデューサーになって。さらには、ご自身でもクリエイターとして、小説も書かれている。プロデュースされるひと、プロデュースするひと、どちらも味わっている。すべてのグラデーションを経験しているような方で、すごく稀有な存在なんじゃないかなって思ったんです。
水野:この『永遠の仮眠』もまさに、表に出るパフォーマーやクリエイターと、それを手がける側のプロデューサーとの関係性がひとつの軸として書かれている作品でもあって。そこらへんについてお話できたらと。
昔から関係者のような顔をするのは得意だった。
水野:ご自身の経歴の特殊性について、どのように考えていらっしゃいます?
松尾:今、うっとりするようなご紹介をしていただいたんですけど(笑)。僕はそもそもそんなに深く考えてないというか、わりとなりゆきで来ちゃった感じなんですよね。僕の学生時代というと、日本はバブル経済期で。
水野:はい、はい。
松尾:当時、とくに僕が好きなブラックミュージックと呼ばれているジャンルの海外アーティストが、常に東京のナイトクラブでライブをやっている状態だったんですよ。僕はそういうところによく出入りしている学生のひとりで。ずっと行っていると顔パスみたいになっていくわけですよね。ライブが終わったあとも関係者ヅラしてそこに残っているわけです。昔から関係者のような顔をするのは得意だったと思います。
水野:どこか人たらしな部分があるんじゃないですか(笑)?
松尾:単純に年齢よりも上に見られる容姿だったんだと思いますね。18~19歳ぐらいのときから、28~29歳ぐらいに見られていたような。僕もとくに学生って言わずにいたりしたものですから。そういう場所には、放送メディアの方、音楽業界の方、広告業界の方、いろんなひとたちがいて、知り合いができていく。
水野:はい。
松尾:で、ライブが終わったあと、僕がミュージシャンと話したりしているようなところを見聞きしたひとが、「FMのラジオ番組の選曲やってくれない?」とか、「今日のやりとりを記事にまとめてくれない?」とか声をかけてくれて。それを拒まずに「やります!バッチリです!」みたいな感じで。
水野:へぇー。
松尾:僕としては、楽しくてわりのいいアルバイトみたいな気分ですよ。一生の仕事にするつもりはもちろんなく。でも当時は若者の僕にも責任のある仕事を任せてくれたり。結構、ギャランティーも悪くなかった。「このまま学校を卒業して就職するより、こっちのほうが楽しいんじゃないか」って。
水野:はい。
松尾:それで学校の卒業もずいぶん遅れたんですけど、最後あたりは本当にイヤな感じですよ。携帯電話を持って、外国車でヒュッと一限だけ出ていくみたいな。
水野:いちばんカッコいいパターンじゃないですか。
松尾:イヤなパターンですよ(笑)。「次、現場あるんで」みたいな。そしてそれがそのまま仕事になるわけです。でも社会人になった友だちに対して、「大変だなお前、朝早く起きれるのか?」なんてことを言っていたのに、ちょっと眩しく見えてきたりもして。「あれ、自分が30代になったときのイメージとかまったく考えないまま、こっちに来ちゃったけど大丈夫かな?」みたいな。
水野:はいはい。
松尾:でも仕事はたくさんあると。当時はCDも作れば売れるみたいな時代ですし。ただ、ずっと洋楽の仕事をやってきていたんですね。それが90年代のはじめぐらいに、久保田利伸さんのお仕事を手伝うことになって。そのあたりから、この国の言葉で音楽を作るダイナミズムとかを、改めて知った感じですかね。
自分は言葉が武器。
水野:僕はまだ子どもだったから、その時代を知らないので、推察ですが…。松尾さんのように、音楽業界の現場に出入りするようになった、ちょっとヤンチャな最先端の若者たちってたくさんいた気がするんです。
松尾:そうですね。
水野:だけどそのなかで、松尾さんが残った。さらにそこから、ジェームス・ブラウンまでたどり着けるひとはなかなかいない。
水野:松尾さんの運命を変えるような、久保田さんとか様々なアーティストとの出会いがあったと思うんですけど、それをものにするというか、ちゃんとそのひとに認められる。松尾潔という存在に可能性を感じさせて、「なんかやってくれよ」って言われる。他のひとと松尾さんの違いは何なんですかね。
松尾:自分がラッキーなところがあったとすれば、同世代の仲間たちに比べると、みなさんの想いを言葉にまとめるのが多少、得意だったんだと思います。
松尾:久保田利伸さん、山下達郎さん、鈴木雅之さん、僕の人生を音楽制作に導いてくださったみなさん。音楽好きな年少の同志っていう、親近感はお持ちだったかもしれないけれど、それを言葉にまとめることを面白がってくださったのかなって、今になって思いますね。自分は言葉が武器だというのは、音楽の仕事をやればやるほど感じました。達郎さんがよくおっしゃるんだけど、「音楽は、歌う音楽、作る音楽、奏でる音楽だけじゃなくて、語る音楽、書く音楽、いろいろあるんだよ」と。
水野:はい。
松尾:「それぞれにプロフェッショナルがいる。これが我々が音楽の世界と言っているものだ」って。実際、僕もこういう音楽の好みに導いてくれたのは、アメリカの音楽ジャーナリストだったり、横浜のラジオ局のDJだったり。たしかにミュージシャンだけが音楽の世界を形成しているわけじゃないと、早い時期に気づいていたんだと思います。それは自分が制作に軸足を置くようになった今でも、忘れないようにしなきゃなって思っています。
水野:これは本当に幸運な話なんですけど、僕は自分のキャリアのなかで様々な音楽プロデューサーの方に出会うことができていて。
松尾:みんな水野さんに会いたいんですよ。
水野:いやいや。でもそのなかで松尾さんって、音楽プロデューサーとしてどういう魅力を持っていらっしゃる方なんだろうって考えたときに、再構築することの強さがある方だって僕は思っていて。今おっしゃられた「言葉にする力」も。海外のものに影響を受けている。その知識を膨大に持っている。そういうひとは、松尾さんほどの深さではなくとも、たくさんいるじゃないですか。だけど、それをそのまま日本に持ってくるのではない。日本に対してどう適応させるか。原液の大事な部分を保ちながら、質のいいものを日本のなかで再構築することを、松尾さんはいくつもやられてきたような気がします。
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