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『打って、合わせて、どこまでも』〜阿部さんと水野くんの永遠会議〜 第2回

2019.11.22

第2回 一緒に星を眺めましょう

場所:それはきっと六本木の喫茶店

水野 ちょっと全然違う文脈なんですけど音楽をずっとやってきて、それでご飯を食べさせてもらっているのですが。どういうふうに音楽を届けるかの配管というか、システムがだいぶできあがっている時代に、僕なんかは世に出せさてもらった最後の世代なんです。今はどんどん崩壊してきていますが。

それこそラジオ出ます、テレビ出ます。そういうスタイルを取らない人もフェスには出ますとか。それぞれフォーマットがあって、そのフォーマットに合わせた曲をつくったり、PRをしたりする。そのフォーマットに乗れるかどうかでも競争があり、そのフォーマットの内部でもヒエラルキーがある。

ですが時代が変わり、届けるフォーマット、システムでさえ、自分たちでつくるかたちに今後はなっていくからそういう場所をつくらなきゃみたいな気持ちも、これ、全然違う文脈なんですけど思っていたんですよ。 HIROBAをやるうえで。

僕ね、場がほしいって言いながら、場が怖いなって思っているんですよ。広場が歴史的には権力誇示に使われていたって話とリンクするかもしれないけれどメディアやプラットフォーム、場っていうものは本当にすごく強くて、怖い存在なんですよ。これはいつの時代もね。

阿部 場が力を持ち出してしまうと。

水野 音楽ってそういうものに支配されていた歴史があって、特に大衆音楽というのは例えば、最初、軍事的なもので。

阿部 確かにそうですよね。たとえば…マーチとか。

水野 マーチとか。独裁者がマイクの前でしゃべる。それがラジオに乗って流れる。黎明期の放送メディアという広場を最大限つかって、たった一人の言葉が流れていく。そこで下手したら人類滅亡寸前ぐらいのギリギリのところまでいきましたよね。そのときにつくられた音響機材というのが今の大衆音楽、商業音楽のルーツになる機材ですよね。録音機材であったり拡声技術みたいなものは。

その機材というのはある種、場みたいなものと捉えることもできて。
機材やメディアのフォーマットに合わせて音楽をつくっているわけです。例えばレコードだったら録音できる時間のサイズに合わせて、そのサイズに入れられる曲をつくりますよね。例えばクラシックだったら1時間以上の曲とか普通にあるけど、そういう曲は入れられないんです、1枚のレコードには。ラジオというメディアが強い時代はラジオで曲が流れるということがヒットへの要因になるから、ラジオに流れやすいサイズ感、音域感、スタイルのものをどんどんつくっていくという。どんどん短くなって3分とか、4分とか。

阿部 合わせていくと。

水野 そういうことをずっと繰り返しているんですよ。何を言いたいかというと「場」がコンテンツの大枠を規定するというベクトルを常にもっている。

この「場」という考え方はいろいろなことに当てはめて思考することができて。
今、レーベルの力なんて弱いけどレコード会社もある種の「場」だとしたら、そこの人たちがお金を出してくれて、その場に認められて制作や広告における投資を受けられるかどうかでだいぶ人生が変わっていくみたいな時代が長く続いたわけです。

「メジャーデビュー」なんて言葉もよくよく考えたら変じゃないですか。メジャーという「場」が規定されていて、そこに入ると入らないとで勝手にヒエラルキーみたいなものが設定される。作品の本質とは全く関係ないけれど昔はそれが今よりも歴然としてあったと。

それが制作費が手頃になって個人でもやれるようになりました、発信もメディアに頼らずにできます。自由になりましたねと思ったら今度はプラットフォームがきてAmazonです、Spotifyです、YouTubeですって。自由な時代、自分で配信できるって言いながら結局Spotifyのレギュレーションには従わなきゃいけないしYouTubeのレギュレーションには従わなきゃいけない。Spotifyのレギュレーションに従って、そこでいちばん目につきやすいようなものが何なんだろうということを考えてヒットする人も出てきて。いちばん聴かれやすいプレイリストに乗っかることを狙うとかね。

阿部 なるほど、合わせつつ、目立ちにいく。

水野 ただ、それってプラットフォーム側の人たちはコンテンツがないとプラットフォームの力を誇示できない。広場で権力を誇示する権力者も何十万人という民衆が集まってくれて、はじめて自分の権力になるから。だから民衆を集めるためにコンテンツの奪い合いになったり、あるいは莫大な資金で自らがコンテンツメーカーになったり。でも明らかなのは、民衆の側、いちつくり手は権力者には勝てない、個人の力では。

阿部 確かに、確かに。

水野 でも民衆がいないと、権力者というのはあり得ないという、何か共依存みたいになっているじゃないですか。

阿部 相互に補う関係ですね、まさに。

水野 僕はつくる人間なので、歌のほうに力がある、簡単に言えばコンテンツのほうに力があると思っているんですよ。これからはいろんな技術の発展があって個人が個人にものを売ったりとか、メディアを介さないで発信したり、金融機関を介さないで信用のやり取りをしたり、金銭のやり取りをしたり。自分で広げ方をコントロールして自分で顧客に届ける場もつくる必要性が出てくるってなったときに、それ、やっとかなきゃ駄目だというふうに思ったんですね。トライアルアンドエラーを。小さな公共圏をつくることの。

まぁ、だから、言っちゃうと、整理できてないんですよ。
自分でももっと整理できるまで考えてみたい。やってみたい。やっていくと何か見えてくるんじゃないかという。すごい、ちょっと子どもみたいな言い訳なんですけど。

阿部 いやいや。今、話に出た部分に関して、建前と本音ってある気がしていて。

水野 はい。

阿部 建前として、これからの時代はつくり手と受け手がダイレクトにつながる場が大切だと、コミュニティ論が流行するし、ビジネスの上でも、サロンや、ファンクラブが基盤になると語られますよね。でも本音として、送り手も受け手も、誰しも焦りがあるんじゃないかと思うんです。すでにはじめている人の発信を見て、場をつくらなくちゃ、とか、場に参加してないといけないと思ったり。

HIROBAを立ち上げた水野さんはビジネスの側面での危機感もあるでしょうし、クリエイティブの側面としても一人のつくり手としてやっとかなきゃという思いもある。あっ…水野さんが話してくれたのは両方本音ですね。クリエイティブも、ビジネスも。

水野 そうそう両方本音なんですよ。全部投げ込んじゃってる感じが(笑)。僕なりにこんがらがっているのでもっと整理したほうがいいとはすごく思ってるんです。

阿部 でも、水野さんがつくられているHIROBAがどういうことを広げていくのかなというのはシンプルにすごく興味があるんです。小さな公共圏として、見てくれる読者の人とか読んでくれる人とかに、どうやってもらえたらうれしいとかってありますか?

水野 「え、そんな簡単な言い方する?」って感じなんですけど、嫌な気持ちにならないことが大事ですね。

阿部 あー、大事ですね。

水野 いや、真剣に語り合うべきことってあると思うんです。例えば政治の話とか、真剣に語り合うべきだし、そこでときに尖った言葉が出てきたって、それ当たり前だし。政治経済の話はつまり生き死にの話ですから。のっぴきならない話なわけで。

でも…、すごく難しいんですけど、それが、いや、でもあるべきことだもんな…。ただ、その話を見て嫌な気分というか、あるじゃないですか。別に何も間違ってない、そこで話されていること、みんな正論を言っている。それぞれの立場での正論、正義。Twitterなんかまさにそうですよね。みんな正論を言っている。悪意のある人は別として正論を言っている人たちがたくさんいるなかで、正論に疲れていくじゃないですか。それって場としてあんまりよくないというか。だから、そこは大事にしていきたいかな。何かが生まれていく場所にはしたいんでしょうね。 文化の側だから、たぶん自分は。

阿部 そうですね。きっとHIROBAって、いろんな人が交ざり合ったり、出会ったりとか、交差することによって何かが生まれていく。HIROBAで新しい遊びが生まれたり、新しい話題が生まれたりとか、そういう場所なんだろうなという。
でも、つくり手の人自身が真ん中にいて場が成立しているというより、水野さんの場合は俺がヒーローみたいなというタイプというよりかは、みんなでこう…(笑)。

水野 一緒にね(笑) 。

阿部 そうそう。そういうところが、すごく僕もいいと思っていて。

僕の話になっちゃうんですけど、2015年から企画する人が世の中に増えたらいいなと思って「企画でメシを食っていく」という、企画を学ぶ場をつくったんですね。今年5期目になるんですけど。

僕も、そのときって無意識だったんですけど「阿部広太郎の企画講座」みたいな、そういう名前にはしなくて。こんな心持ちでいられる人が増えたらいいなという思いで「企画でメシを食っていく」という名前にしたんですね。そうしたことによって自分の「講座」というよりは、「場」という感じになったんですよ。もちろん前者と後者、それぞれの名前に少し重なりはあるけど離れたものでもあって。

そこから毎年何十名もの人が半年間一緒に過ごして、巣立っていくんですね。それを繰り返しているとそれが自分だけじゃなくて、みんなのものになっていくという感覚があって、5年も経つと勝手にやめられなくなっていくというか(笑)。

水野 ああ、いいですね。やめられない(笑)。

阿部 毎年続けるのはしんどいんですけどね。大変だなと思いながら、でも誰かの期待感とか、いいなあと言ってくれるうれしい感覚というのが自分の預かり知らぬところで、どんどん生まれていく感覚がある。つまり、これが「場が育っていく」っていうことなのかなって思ったりするんです。場が呼吸しているというか。自分の知らないところで誰かと誰かが組んで企画が生まれたり、自分が最初つくったはずのものが独り立ちしていく感じというのを、今味わっているんです。そのなかでこれからも続けるにしろ、ちょっとどこかの段階で休むにしろ、そういう何か企てる人、企画する人が増えていけばいいなという、ただそれだけの気持ちで続けているところではあるんですね。

水野さんは、やっぱり根本では何か一緒に表現することの面白さというか、伝えることの面白さなのかな、わかり合える喜びみたいなものを伝えたいのかなと。

他者と自己、YouとIと、あなたと私、君と僕、つながり合える喜びみたいなものを広げたいのかなというのは僕の印象として受けているんですけど、どうですか、つながる?重なる?みたいな。

水野 何ですかね。 でも、ほんと、そういうことですね。ここでしか、つながるところでしか…。正直すごく辛いですけど、生きていけないじゃないですか。

阿部 うん、確かに。

水野 つながるところを寄せ合って社会って成り立っていて、それは社会みたいな大きいものを持ち出さなくても、家族でも恋人でも友達でもそうで。たぶん僕も根源的にはつながることは苦手だと思うんですよ、

阿部 はいはい…。

水野 人とわかり合うことはすごく難しいって僕は思っている。言っていることと逆になるんですけど、いや「わかり合えないんじゃないの?」ってかなり深いところまで思っている人間なんですね。だけど、そこでの希望を捨て切れないでいる(笑) 。

阿部 望みですね。

水野 だから、結局振り返ると自分への課題意識なんでしょうね。どう“つながりという不可能”を実現できるのか。あと自分の存在があっていいって言ってもらいたいとか、というのは根源欲求としてはあって。

阿部 ありますよね。でも、そうか、一緒に、もちろん語り合うことも、語り合えること、プラスアルファとして糸井さんとの対談でもありましたけど、言葉でキャッチボールするとか何か一緒につくり合うことを楽しんでいるんですね。

水野 何か、すごく昔の話を思い出したんですけど中学の国語の授業(笑)、いつの話だよって感じですけど。

阿部 おお、すごい、何かありそう。

水野 中学の国語の授業でどの作家か覚えていないんだけど、教科書に出ていた文章があってね。作家同士が往復書簡で手紙をやり取りするという文章だったんですね。何を話していたかというと、人と人とがつながるというか…まぁ、だからまさしく今みたいなテーマですね。「わかり合えるときってどんなときかね?」みたいなことを作家の二人が手紙でやりとりをしていると。

それについて面白いなと思ったのは最初の作家が「わかり合うというのは向き合うことだ」と。こうやって正面に座って向き合って、私はこう思うんだ、あなたはこう思うんだということを伝えあうことなんじゃないか。まぁ、これ、普通ですね。で、応える側の作家さんがもう一つ違う視点を提案するんですね。「はいはい、〇〇さん、私も確かにそうだと思うんだけれども…こういうことじゃないかなとも思うんです」って語り始める。それがどういうことかっていうとね…

二人で並んで座るじゃないですか。で、一緒に星を見るじゃないですか。
これ、じゃないですかって。

阿部 あー。

水野 同じものを、一緒に並んで、見ること。向き合うんじゃなくて。

阿部 はー。すごいな。

水野 一緒に感動するってことですよね。同じ光景を見て同じ景色を見て。そのすばらしさを一緒に眺めて、喜びをわかち合う。
「これ、つながってませんかね?」「なるほど、それはそうですね」という作家さん同士の会話だったんですよ。これは“ある視点”を出してくれているなって。中学生のとき、すごく印象深く思ったんですけど。一緒に眺めるって確かにすごい大事で。

阿部 ええ、ええ。すごい、めちゃ面白いです。

水野 HIROBAって何で「場」なのかということを、しつこく考えると、これは何度も言うけどプロジェクトの最初に来るのが“僕”でもいいわけじゃないですか。水野良樹のソロプロジェクトです!でも、まぁ、別に変じゃない。ウケるかどうかは別にして。水野くんが誰かとつながりたいんです、誰かとものをつくりたいんです。この文脈自体はとてもわかりやすい。

阿部 はいはい。

水野 水野良樹が、じゃあ、阿部さんとものをつくりたいんですって言って。やりたいことできました。でも、そうなると向き合うことになっちゃうんですね。ヒトを軸にすると、僕という人間と阿部広太郎という人間とが出会って、向き合うことになっちゃう。表現が閉じるんですね。

でもHIROBAは「場」なんですと。
「場」を設定すると、じゃあ、阿部さん、この「場」で一緒に遊びましょう。
花火をつくりましょうよって言って、こんなかたちで爆発するやつをつくって、こんな色で発光するやつをつくって。めでたく打ち上がりました。最後に一緒に並んで花火を見ましょう。いやぁ綺麗ですね、面白かったですねぇ。これ、みなさんにも見てもらいましょうよ。

一緒に並んでモノをつくって、打ち上がるのを一緒に眺めて、さらにそれを広げよう。…というのは「場」が軸じゃないとできない。共有の余地の広がり方が、全然ちがう。

阿部 できないですね。

水野 そこに人間の素晴らしさが、もしかしたらあるかもしれなくて、全部何かいろんなことがつながって…。

阿部 ええ、そうだと思います。
僕もコピーの書き方を伝える講座のワークショップとして、都市伝説で夏目漱石さんが「I love you」を「月がきれいですね」って訳したと言われています、今のあなたなら何と訳しますかというお題を出すんですね。漱石のお弟子さんが「I love you」を直訳で「我君を愛す」と訳した。それで漱石は、本当にこれで伝わるのかなと自分で考え直した。それで出たのが「月がきれいですね」だと。

これは僕の想像でしかないんですけど夏目漱石さんは「愛とは何か」みたいな問いがあったときに、何かを共有することとして愛を捉えていた。

だから、それを家の縁側なのか、軒先なのか、もしかしたら橋の上で見ていたのかわからないですけど、隣にいる人と「すごくよいものを見ている」ことをわかち合いたい気持ちこそが「愛」なんじゃないかと。その気持ちを伝えるのがつまりは「I love you」なんじゃないかと。そんな話として僕は受け取っているんですけど、それを思い出しました。

水野 ああ、まさに、まさに。すばらしいですね。

阿部 一緒に何か目指すべきものがあったり、何かつくったり、やったりしているものがあるとすると向き合っている場合ではないと思うんです。同じ方角を見ていることでしか、新しいものを見つける方法がないと思うから。向き合うんじゃなくて、一緒にいられるという関係がまさしくHIROBAだし、そういうのを広げたいのかもしれないですね。

水野 ですかねえ。どんどんこじつけていくけど、僕がよく言う「桜のような歌を書きたい」というのも結局、桜は眺めるものなんですよね。

僕はそれこそ狭い部屋のなかで僕一人でつくったものが、何万人という人に共有される瞬間というのをありがたいことに経験できているんですね。そしてさらに僕は幸いなことに真ん中にいなかった。自分で歌って、自分を見てもらうという瞬間にいないんですよ。ステージ上にいて演奏はしていますけど、起きている現象の隣にいるんですよ、いつも。

みんなの視線はボーカルの吉岡に集まっている。歌を共有している光景を見ることが僕はたまたまできたんですよ。何万人という人がひとつの歌を眺めている瞬間をね。

たぶんステージ上に立っちゃうと、ほとんどのアーティストは自分が見られているということに意識がいっちゃうと思うんですよ。自分が主役になるし、自分が眺められる対象そのものになっちゃう。そりゃ、ショーですから。もちろんそれは当たり前のことなんですけどね。でも僕は主役にならずに済んだ。歌が共有されているシーンだけを見ることができたんです。

阿部 ほんとですね。

水野 その光景はね、本当に素晴らしいものなんですよ。

阿部 うんうん…。

水野 しかも、それぞれに思い入れがあったりするのが見えてきたりしてね。
以前、ライブで『帰りたくなったよ』という曲を演奏したときに、最前列にお母さんと小学生ぐらいの女の子がいて。もう映画みたいですよ。お母さんが娘さんの肩を抱いてね、二人で泣きながら、こうやって肩を寄せ合って聴いているんですよ。まさに一緒に歌を眺めている。親子で泣きながら。ライブ終わると、みんなで「あれ見た? あんなの見ちゃうと、泣いちゃうよね」って(笑)。僕らは喜んだんですけど。

あの二人のつながりを埋めたってだけで、この曲はあってよかったんだって思えるんですよね。つくってよかったって。誰がなんと言おうと。

阿部 ほんとそうですね。

水野 そういうものって創作物にしかできないものなんですよね。僕が誰かに向き合って「いいですか、これが愛なんですよ」って説得することでは気付けないものなんですよ。
たぶん、そのお母さんも娘さんが「行きたい」って言ったから、チケットをとってライブに連れてきてくれて。「ほら、聖恵ちゃん歌ってるよ」と。娘にそれを見せてやりたいという気持ち。さっきの夏目漱石の話と同じですよね。わかち合いたいと思うような。

阿部 そうですね。この気持ちをわかち合いたいと。

水野 創作物がもたらす素晴らしさって、そういうところですよね。

阿部 僕もいろんな仕事に携わるなかで映画のプロデューサーの仕事をさせてもらったときがあって。映画が完成するのって試写を迎えたときじゃなくて、お客さんが見てくれないと、ほんと完成しないんだと思ったことがあるんです。見てくれる人がいないと何も始まっていかない。もちろん本でもそうですけど、本も読んでくれる人がいないと、それは意味をなさないっていうか。音楽もそうですね。聴いてくれる人がいて完成する。

HIROBAもそこに、行きたいな、入りたいなと思ってくれる人がいてやっとHIROBAになるという。人が行きたいと思わなければ「場」でしかないという。

水野 そうですね。

(つづきます)

Text/Yoshiki Mizuno

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