『打って、合わせて、どこまでも』〜阿部さんと水野くんの永遠会議〜 第1回
2019.11.21
第1回 水野さんに会う前に、HIROBAって何なのかを考えてきまして。
場所:それはきっと六本木の喫茶店
阿部 水野さんに会う前に、HIROBAって何なのかなって考えてきまして。
水野 え、まじっすか。
阿部 水野さんのことが僕のなかで明確に記憶に刻まれたのが『SWITCHインタビュー 達人達』(※)での話だったんですね。
他者とつながるために歌を書いていて、まわりに人畜無害だ、無個性だと揶揄されながらも大きな言葉を使って、わかりやすさに過度に寄った作品を一生懸命に書いているんだと。わかり合えない他者とつながるためにこそ、大衆歌を書いているんだという話が、すごく胸にくるものがあって。
僕自身は広告の世界にいるんですね。広告って誰しもが受け取るもので、尖りすぎても駄目だし、基本としては、みんなが受け取れることを考えなければいけなくて。世に出たときにエゴサーチをして、ガッツポーズしたいときもあれば、どよんと気分が落ち込むことが書かれてるときもあって、それをゴクッと飲み込んだりすることもあるんです。
で、同じようなことを水野さんは、言葉を書いて、音楽を通して経験されている。
「そうだったのか!」という新鮮な驚きを、今でもよく覚えていて、それが2016年のことでした。
水野 はい、もう3年くらい前ですね。けっこう経って。
阿部 それから3年が経って、水野さんがHIROBAを立ち上げたのをナタリーのニュースで見たんです。しかも、糸井重里さんとの対談があると、テンション高めに、ワクワクしながら読みました。そこで印象的だったのが、水野さんが「一人で完結するのは嫌だ」とおっしゃっていたこと。誰かと考え、誰かとつながり、誰かとつくる。そんな場が欲しいから、もう自分でつくるんだと言ってHIROBAを立ち上げたと。
さきほど話した『SWITCHインタビュー』での印象が僕のなかにあったので、ああ、3年後の今も、やはり水野さんの心のなかには、自分と他者との関係に重きがあるんだなと。なるほどなと、ひそかに思っていました。
そのうえで、今、時代感でいうと、「わかる人にだけわかればいい」という考え方と「わからない人にもわかってほしい」という考え方、対立構造ではないですけど、この2つがせめぎあってる印象があります。それで悔しいことに、今、少しだけ、「わかる人にだけわかればいい」という風潮のほうが強い。
水野 はい、はい。
阿部 もう、どう考えてもわかり合えないだろうみたいな、そういうムードはある。うーん無理だよね、という諦めのムードから入っているような気がしているんです。だから、発信力のある人は、オンラインサロンや、いわゆるコミュニティのような閉じたところに向かっている。SNSは開いているようで閉じているような感じですよね。
そのなかで水野さんにあるのは、やはり言葉で、あなた、誰か、と生きるんだと。
閉じられていない、見晴らしのいいHIROBAに自分で立ち、文章を書かれている。水野さんが実現しようとしているのは、こういう状況、時代感のなかだからこそ、という思いもあるのかなと思ったんです。
HIROBAを捉える前に、いわゆる言葉としての「広場」の意味を考えました。海外でも使われている概念でいうと「アゴラ」と呼ばれる都市内部に設けられる広場があるんですね。公共の空き地みたいな。ヨーロッパでは古代ギリシャのアゴラに始まり、都市の市場とか、神殿、法廷、議会などの中心機能が集められて、権力の誇示を示す、ないし広げる象徴的意味を持つものとして「広場」が存在していた時代も歴史的にはあるみたいなんです。
ただ、もちろんHIROBAで水野さんがされることは、そのような権力の誇示とかいうことでは全くない。じゃあ、水野さんのHIROBAは【何を広げていくのか】というのが重要な気がしていて、ここの正体みたいなものを言葉にできると、面白い気がしているんです。関係者とか、参加者、読者に、何を示して、どうなっていきたいのかというところから、そこがもっと見えてくると、やるべきことが浮き彫りになっていくのかなと。 これは僕の憶測であり、受け取った印象なんですけど、HIROBAって【よろこびを広げる】ということかなと思っていて。
何もないところに、あなたと私がいる。でも「つくれば、何でもある」ということだなと。何もないけど、よろこびは、いくらでも広げていけるよねと。そういうメッセージを水野さんが届けようとしているのかなと、勝手に解釈していました。
水野 ありがとうございます。 感動ですよ(笑)。
阿部 HIROBAって何を広げようとされているのか、っていうのが。
水野 課題ですね。だから…。 そこなんですよね(笑)。その芯が。
阿部 芯がね。
水野 芯が見えると、たぶん、もっとそれこそ広がるんでしょうけど、何なんでしょうね。
阿部 でも、少しずつおぼろげでも、何か見えてきているんじゃないかな、なんて。
水野 たぶん、順を追って整理していくと、なぜHIROBAという名前を考えたかというと、いちばん最初は、いきものがかりをやりはじめた頃、路上ライブからスタートしたんですね。普通、音楽をやっていると、ライブハウスみたいな箱というか。区切られて閉ざされたスペースに、音楽を聴きに来ようとしている人たちが集まってきて、そのスペースのなかでお客さんを奪い合う…というのが基本的にスタートラインですよね。
阿部 確かに。
水野 だけど、路上ライブというのは、境界がないんです。お客さんとお客さんじゃない人の区切りがない。普通に用事があって歩いている人たちがそこにいて、何も境界がない。それが当たり前のところからスタートして、その状態がすごくいいなと意識するようになるんですね。というのは、そのお客さんたちというのは、聴きたいと思ったら、自分たちのテリトリーのなかに入ってきてくれる。でも、出ていくことも自由。境界はないから、彼、彼女らを縛るものは何もない。
阿部 そうですね、それは確かに。
水野 閉じているようで、閉じていない。それはすごく存り方として素晴らしいなって。途中から気付きはじめたんですよ。
阿部 面白いですね。
水野 自分たちの音楽、ポップスってどういうのもかと考えたときに、そういうものだろうと。
僕ら世代が見てきた音楽シーンには、シンガーソングライターと呼ばれる人たちがたくさんいて、カリスマ的人気を得ていった人たちがたくさんいた時代だったんですね。すごく乱暴な言い方をすると、カリスマに対して、宗教的な、この人が言っていることは全て正しいとか、憧れが強まって、その人みたいになりたいとか。そういう属人的な魅力が求心力になって、人が集まってくるようなスタイルがすごく多くて。本人はそう思っていなくても、かたちとしてそうなってしまっていた。
それって広がっていかないな、その人が死んでしまうと、結局届いていかないな、とかいろんな課題意識が自分のなかで生まれていったんですね。自分たちの音楽が目指すべきなのは、入りたかったら入って来れて、出ていきたかったら出ていける。自由に。そういうものなんだろうな、と。
それは、若い人は困りますとか、年配の人は困りますとか、女性は困りますとか、そういう誰かを選ぶということは全くなくて、誰でも入って来れて、出ていくのも自由。その人を止めようともしない。縛ることもしない。もっと言うと、依存もさせない、執着もさせない。つまり、広場のような音楽になりたいというふうに途中から思うようになったんですね。 インタビューを受けているときに、ある音楽ライターの方が、「それって、広場みたいですね」って言って、そうか、それだって思って。そこがアイデアのスタート地点だったんですけど。
阿部 なるほど、そうか。
水野 『SWITCHインタビュー』で西川美和監督とお話ししたときに、わかり合えない人とわかり合うために、とにかく広げていきたいと言ったのは、そういう流れのなかでの言葉だったんですね。そのうえで僕が、失敗というか、まず最初にたどった道としては、自分という存在を消したほうがいいんじゃないか、ということだったんです。
主格を消して、本当に広場だけを用意する。場所だけを、器だけをつくればいいんだという方向で進んでいったんですけど、ある程度まで走っていくと、どうやら、生きている人間である以上、やっぱりそれは不可能であると思い知らされるわけです。
阿部 はい、わかります。
水野 しかも、場だけ用意しても、人は集まらないなとか。器だけあっても、人は何かに感動しないということに、途中で、それこそ、糸井重里さんとのやりとりのなかで気付きはじめていって。矛盾するんだけど、自分という存在がないと、他者とは向き合えないんだってなったんですね。
やっぱり主格がないと他者との会話が生まれないんですよ。ジレンマですが。
そこで、HIROBAというプロジェクトにつながる思考が始まっていくんですね。
場が用意されていて、たまたまそこで旗を振っているんだな、ぐらいの距離感で、何かできないかなって。あくまで場が主人公であって、僕はその登場人物の一人でしかない。僕という存在に限定されるような創作の場所ってつまらなくなっちゃうんで、僕という存在が場より上位にはこない。
阿部 場のほうが大事。
水野 例えば、僕が一人でソロでやりましたってなると、僕という人間の範囲で表現が全て終わってしまいそうな気がして広がりがない。僕で言えば、いきものがかりというのが後ろにあるので「いきものがかりの水野がソロでやりました」っていう文脈になって、すごく狭くなってしまって、自分がやろうとしていることと真反対になってしまうから、いや、場をつくるんだと。場が在って、そこに僕がいるんだという考え方になったんですよね。
でも、くどいようだけど、僕という主格はいて、主格がいるから、こうやって阿部さんに出会うことができて、糸井さんにもお話を聞くことができているわけですよね。
阿部 それは、そうですね。水野さんに会いに来ているわけですもんね。
水野 あいつがいるから行ってみようって思って来てくれたり。もしくは、あいつがいるから嫌だな、行きたくないなって思って来なかったりする。これって、どっちも一つのアクションなんですよ。「じゃあ、どう思います?」って会話することと同じなんです。
わかり合えない他者と他者、複数の人たちが出会う。これ、まだ単純な言葉にできていないですけれど、つまるところ、今は群像劇を見せることがいちばんいいと思っているんですよ。
阿部 群像劇?
水野 みんながこういう時代だったねとか、あの頃はああだったねと言うときって、自分ひとりの人生の物語ではなくて、いろんな人がいろんなことを言って、いろんなことが起きたりして、その登場人物がとてつもない数いて、その全体を受けて、「ああ、こういう時代だったね」って話すと思うんですね。そんな群像劇的な表現をできないかなと。このHIROBAという場で起きることを、全体として面白がる。そうしていくと僕というひとりの人間ができる限界を超えていけるんじゃないかみたいな。
阿部 ああ、そういうことか!
水野 それのヒントになったのって、『キングダム』という漫画なんですけれど。
僕、大好きで、いろいろTwitterとかで「好きだ!好きだ!」って言っていたら、原作者の原泰久先生が面白がってくれて『キングダム』が大ブレークする前の、ブレークしかけている、みたいな頃にお会いすることができて、いろいろお話を聞くことができたんですよ。
原先生がおっしゃったことで印象的なのは『キングダム』は群像劇だと。
僕は戦争について描こうと思っている。戦争は群像劇で、いろんな人が動いている。登場人物たちはいろんな思いで、それぞれにバラバラの正義を持って戦っている。今、自分が何を書こうとしているのかは一言で言えないけれど、ずっと物語を描き続けて、描き終わって、そこでふと全体を見たときに、ああ、そういうことだったのかとなるはずだって。
最後までいって、全体を見たときに、戦争はやめるべきなのかとか、武力統一は正しいのかとか、なぜ人は人を守るのかとか、なぜ人は人を殺すのかとか。そういうことをぜんぶ考える。そこに何らかの答えらしきものが浮かび上がってくる。全体を見て多くのことに気付くような漫画にしたいと思っているんだと。
なるほど、みたいな。
一人の人間が成長する物語だけでは描ききれない。みんな登場人物にはそれぞれの国があって、仲間がいて、正義がある。ただ殺すことが好きな武将もいて。バラバラ。それがうごめいてぶつかっていくことで、いくつもの物語が生まれていって、多くのことを教えてくれる。
それって、ようは現実社会もそうですよね。現実社会はフィクションみたいに、一人の主人公のルールで都合よく物事は進まない。そういう複合的な全体像を俯瞰してみたときに、テーマが浮かび上がる表現があってもいいんじゃないかなというのが、たぶん、今僕が考えていることに近い。
まぁ、でも何を伝えたいんですかというと、すごく難しい。HIROBAを語るときに、HIROBAってこういうことなんですよって、一言で、それこそコピーのように言えらら、すごく、たぶん、何かがはじけるんですけど、今その言葉を。
阿部 そうですよね、まさに今、探している感じですよね。
(つづきます)
Text/Yoshiki Mizuno
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