「TOKYO NIGHT PARK」 Tehuさん対談 HIROBA編集版 後編
デザイナー、技術者として幅広く活躍するTehuさんを迎えた
J-WAVE「TOKYO NIGHT PARK」の対談。
自身の半生を振り返った著書「『バズりたい』をやめてみた。」、
そしてプログラムをつくる上で最も大事なことについて。
前後編のHIROBA編集版としてお届けします。
【後編】そこに願いがないと、危ない
水野 ちょっと角度を変えて、リスナーからのメールに答えて一緒に考えていただきたいと思います。
Tehu はい。
ラジオネーム ひーちゃん
水野さん、こんばんは。私はもともと、人に流されやすいタイプなのですが、気になるニュースなどに対して自分の意見があっても「みんなはどう思っているのかな?」と Twitterを眺めては「そっか、そういう意見もあるのかー」と確認したり、何かあるとネットで調べてしまって、直感的な自分の意見や信念がどんどん薄れてしまっているような気がします。30歳にもなって自分の意見や信念をしっかり持てない私はいったん、ネットから離れた方が良いのでしょうか?
水野 結局つながっている話ですよね。
Tehu つながってますね。僕もそうです。
水野 おお!今までの議論をひっくり返すわけではないですが、さまざまな意見に触れるという意味でいいツールでもあると思うんですよ。
Tehu うんうん。
水野 調べようと思えば違う意見も聞くことができる。その姿勢自体はネガティブではない気がします。
Tehu そうですね。「自分の信念が薄れている気がする」ということに気づいている時点でかなりすごいことだと思います。こういうことに気づくチャンスってなかなかないし。
水野 ないですね。
Tehu 僕自身も、自分がそうなっている瞬間になかなか気づくことができないです。ネットから離れたほうがいいかどうかはわからないですけど、今気づいて課題に感じていることに誇りを持ってもいいのかなと思いました。
水野 何か社会問題があったときにネットが沸きますよね。そこで、Tehuさんはご自身の考えがあるときに、違う考えをどのように調べるようにしていますか?Twitterってよく言われるように、自分と近い人の意見しか集まらないじゃないですか。立場の違う人の意見を努めて読むようにしないと相対的に考えることができないというか。
Tehu 僕が興味を持つのはより明確な対立構造があるもの。例えばアメリカの政治とか。そうなると、僕は圧倒的にリベラルな人間ですが、トランプ派の意見を知りたいと思う。いちばん簡単なのはトランプのアカウントを見つけて、そこのリプライをしっかり読む。そこにはどうしてもパワーの強い言葉が並ぶんですよね。その人のアカウントをさらにクリックすると、その人の生活が見えてくるわけですよ。
水野 ああ。
Tehu その人の発言よりも、発言の奥にある生活や、なぜトランプさんの政策や発言に共感しているのか。そういった部分に向き合うことが重要。どうしても自分と違う意見の人たちが狂っているというような感覚になってしまう…。
水野 なんで、そんなことを思うんだと。
Tehu 違う意見の人たちの頭がおかしいのではなく、その人たちなりの経験にもとづいた言動なのだから、表面に出てくる言葉よりも、その人たちの人生をしっかり見ないと、結局僕らも激しい言葉に踊らされてしまう。表面的な批判は何の意味もないことなので。
水野 確かにそうですね。自分と異なる意見を目にすると「理解できない」「普通に考えたらこうでしょ」というふうに思ってしまいがちですよね。誰でもそういう部分は持っている。だけど、反対の立場になってみるとその立場の人たちの生活の基盤があって、その立場で論理的に考えた結果、違う意見になる。これは当たり前のことだけど、そのことを忘れてしまいがちですよね。
Tehu 当然、彼らの人生を僕らは経験していないので。僕らの人生から導き出した結論と同時に、そうじゃない結論とその前提をしっかり知る必要があるし、その入口としてもインターネットは使えるはずなんですよね。特にアメリカは実名のユーザーが多いので、使いやすいですよね。
水野 ああ、そうなんですね。
Tehu やっぱり人生が見えるので。これは批判的な意味ではないですが、アニメアイコンを使う人たちが、いろんな物事に噛みつく人として表象されるじゃないですか。僕は彼らの奥にある生活を知りたいんですが、なかなか見えてこない。
水野 なるほど。
Tehu 趣味や好きなことについて語っているけど、どういう人生を送っているのかわからない。本当はそういう部分にも寄り添いたいなと思うんですよね。
水野 そうですよね。もしかしたら、生活や論理を知ったら、いがみ合っている問題とは別の解決策があるじゃないかと思うときがあるんですよね。その人が発言に至った経緯を見ると違う解決策があるだろうし、誹謗中傷の解決の仕方も、誹謗中傷した人を叩くのも、逆の正義を振りかざしているだけになってしまう。
Tehu まさにその通りですね。
水野 根本的なことが解決しないというか。すごく難しいんですけど、紐解いていくことは本当に大事な姿勢なのかもしれないなと思いますね。
Tehu 論点の恣意性なのかなと思っていて。常に論点になるものって常に重要なポイントではなくて、政治的な理由であったり、インターネット上の流行りなど、そういったもので決まる。結果的にそこにズレが起こるわけで、論点って誰かが勝手に決めたものなんだけど、そこがいちばん重要だみたいな感じに陥ってしまう。
誹謗中傷する人たちを批判することはすごく簡単です。だけども、僕らは誹謗中傷しない人間で、彼らが誹謗中傷する人間だから、この問題が起っているのではなく、この論点に関して僕らは誹謗中傷しないけれど、彼らは誹謗中傷してしまった。その裏には何があるのか、ということに気づかないといけない。誹謗中傷を許さない、法的な措置を取る。それは極めて対処療法だなと思っていて。違う論点の場合に、僕らも誹謗中傷してしまう可能性がある。人間はそういう存在だからこそ、「もっと根本的な部分に目を向けようよ」という流れにもっていかないといけないと思いますね。
水野 そうですね。法律の整備であるとか、対処療法が必要じゃないわけではなく、それをした上でおしまいかというと、全くそうではなくて。本質となる「なぜ誹謗中傷してしまうのか」という精神性みたいものの原因を紐解いて、それを解決していかないと、個々の問題における正義と悪というという短絡的なものだけを見ていると、いたちごっこになってしまうんじゃないかなと。
Tehu そうですね。さらに、そこに問いかけができない世の中になっているわけですよ。今だけではなく、昔からそうだと思うんですよ。
僕が好きな哲学者でハンナ・アーレントという女性がいて。彼女はユダヤ人で、戦後、ユダヤの大虐殺を検証したんです。ユダヤ人コミュニティでは比較的、実行したドイツ人のアイヒマンが極めておかしな人物であったという結論を主張しているけど、アーレントはいろんな検証をした結果、アイヒマン自身は強烈な悪ではなく、非常に陳腐な人間だと。その陳腐な人間が特定の構造の中に取り込まれた瞬間に悪になった。つまり、誰でもアイヒマンになりうるんだと言って。それで彼女はユダヤ人コミュニティから総スカンをくらったんですよね。
こういうことは、常にあらゆる場所で起こりうる構造で、同じことがインターネット上でも起っている。それでも問い続けていかないといけない。アーレントの著書は今では名著とされていて、多くの人が読んでいる本になっている。今はインターネットの時代で、誰かに「これ違うんじゃないですか」と問いかけることが、より難しい時代になっているけれども、何か新しい方法がないか。そのひとつとしてパフォーミングアーツとか劇場といったものに注目しています。
水野 うーん、いやぁ。なんか勝負になっちゃいますよね。正しさと正しさがぶつかり合うとか議論するときってすぐ勝負になっちゃうので…だから言いづらいんでしょうね。
Tehu 「僕のお父さんは桃太郎というやつに殺されました」というコピーがあるじゃないですか。
注釈:2013年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」で最優秀賞を受賞した「めでたし、めでたし?」のコピー。
水野 鬼の視点からですね。
Tehu そうです。シンプルだけどいちばん重要なことで。そのコピーには共感するんだけど、実際の生活の中でその視点に立てているかというと、おそらく誰も立てていないんじゃないかと。
水野 なるほど。何かスカッとする半沢直樹的なものが求められるのも、エンタメとみんなが持っている深層心理のリンクの仕方の具合というか…難しいところがあるなと思って。「土下座させられるほうにも論理があるよ」って言い出したらキリがなくて…。あの物語の中では、土下座するほうの人たちが非常にわかりやすく悪いことをしているんですよね。今の世の中で最もポップなもの、最も売れやすいものは悪だと思うんですよ。みんな悪を欲しがっていて。
Tehu なるほど。
水野 ワイドショーでいつもやっているけれど、社会的な倫理を破ってしまった人って無条件に叩ける、自分たちが無条件に正義になれるからすごく楽しくなってしまう。それはすごく危険で、踏みとどまる考えというか、踏みとどまるムーブメントを起こしていかないと、それが何なのかはわからないけど。歌をつくるときもすごく意識するし。
Tehu ああ、そうですか。
水野 思いますね。歌はプログラムと同じで何度も聴かれて、構造をつくるものだと思うんですよね。ちょっと脱線してしまいますけど、「ふるさと」という有名な唱歌は100年前につくられたものですけど、今やうさぎを追ったことがある人はほとんどいないと思うんですが、「昔はそうだったんだね」って言いそうになるんだけど、あの歌ができたときには、すでに鉄道ができているんですよ。
Tehu なるほど。
水野 江戸時代までは、その村で生まれたらその村で死んでいくのが当たり前だった。外の世界を知らないのが当たり前。でも、鉄道や交通網が整備されて人々が江戸に集まったり、移動が出てくる。もうあの時点で、「ふるさと」に書かれている故郷像が崩れ始めていたと思うんです。欧米の文化が入ってきて、その上で、当時の日本が抱いていた故郷像を保存する意味合いがあの歌にはあると。
Tehu ある種の政策的な目的を含めて。
水野 ポップソングってやっぱりある種そういう怖さを持っている。役目と言ってもいいかもしれない。逆にそれがロマンにもなるんですよね。あるひとつの像を多くの人に植え付けたり、もしくは僕らの曲でいうと、「ありがとう」は、みなさんそれぞれの大切な気持ちを乗せるので、僕がつくった構造に、その人たちは大切なパーソナルなものを入れているわけですよ。それってかなり影響を与えていることなんですよね。僕が思ったように感動してもらうという、かなり危ないことでもある。プログラムと同じ部分がある。だからこそ、ここで踏みとどまるというか、どういう社会がいいのだろう、僕の恣意的なものが入るんだけど、そこに願いがないと、危ないなと。
Tehu そうですね。願いというワードはすごく重要ですね。単なる意見とか、単なる自分の見方を表現するのではなく、その先にどうなってほしいのかという意志がないと。勝手に暴走していきますよね。
水野 僕ね、たぶん、変な言い方だけど、願いがあったときって否定するのも楽だと思うんですよ。もし間違っていたとするじゃないですか。それが社会に合わなくなったりする。それは人間だから仕方ない。僕の視点でしか見えていないから。でもそうなったときに否定できなかったら怖いなと思うんですよ。
Tehu なるほど。
水野 例えば、Tehuさんがつくったプログラムが20年後、30年後、もしかしたら社会にとってよくないと判断されるかもしれない。判断され、否定されたら、そこで消えてくれるじゃないですか。
Tehu はい。
水野 だけど、否定できなかったら…こんなに怖いことはなくて。デビューしたときは無邪気に「教科書に載るような曲がつくりたいですね」って、これはみんなに愛されたいという気持ちの表現だけど…今怖くて。
Tehu なるほど。
水野 実際に教科書に載って、小学生とかが何もわからずにその歌を唄っているのって、楽しんでくれているぶんにはうれしいんだけど、ちょっと怖い構図だなと思ったり。
Tehu 音楽に向き合う中にも、僕が考えているのと同じような構造があることは、すごく面白いなと思いました。自分がつくるものの暴力性みたいなものに向き合う機会があるということはすごく貴重ですよね。
水野 Tehuさんが初めていきものがかりのライブを見たのはいくつでしたっけ?
Tehu 初めてのライブは14歳です。
水野 うわぁ。「なんでもアリーナ!!!」ですよね。
Tehu 「なんでもアリーナ!!!」です。
水野 僕らが初めてやったアリーナ公演に、まだ中学生だったTehuさんが来てくれていたらしくて。その演出に感動してくれたと。
Tehu そうです。
水野 初めて会ったときに、その話をしてくれて。その青年がこんなに立派になって。自慢できちゃう(笑)。
Tehu いやいや。そのときは、まさかこんな感じでお話できるとも当然思っていなかったですし。年に5回くらいライブに行ってましたからね。
水野 マジですか!何か反応してくれたというのは、本質的なところでリンクする部分があったんだろうなと、すごく思いますね。
Tehu うわぁ、うれしい。
水野 だって、絶対そうですよ。中学生のアンテナがね。何か似通っている部分があったんでしょうね。そのあと、Tehuさんがいろんなことに迷うのもいいですよね。
Tehu 紆余曲折がありました。初めてお会いしてからもう7年も経ちますからね。
水野 そうか。そんな気がしないんだけどなぁ。
Tehu (笑)
水野 また何か一緒にやれたらいいですよね。
Tehu やりたいですよね。こういう抽象的な雑談がいちばん面白い可能性もありますけどね。それをさらに何か形にするプロセスは苦しみでしかないんだけど。それも何かでご一緒できたら、より深いご縁になるかもしれないですね。
水野 時間も迫ってきましたが、最近具体的に「こんなことをやっていきたい」というように取り組んでいることはありますか?
Tehu 僕はオペラで卒論を書いたんですよ。古くさいと言われているオペラが今でも役に立つ方法はあるのかというところで。結局は構造の話で、何百年前に捉えた構造が現代社会で同じ構造が存在する。オペラファンはみんな物語を知った状態で観に来るわけですよ。
水野 なるほど。
Tehu 200年前の話だって思って来るんだけど、200年前の話だとナメてるかもしれないけど、「現代にもあるよね、この話」という見せ方をすることで、成立しない問いというものがひとつの局面で成立するということを研究していたんです。
本当は劇場芸術もちゃんとやりたくて。今年からやるはずだったんですけど、こういう状況で厳しくて。オンライン演劇もやろうかなと思ったんですけど、僕はやっぱり問いを成立させたいから、観る人が自由に画面を消せてしまう状況ではやりたくなくて、そちらの世界に行くことは5年延期しようと思いまして。代わりにもう少し資本主義の世界で頑張ろうということで、友人の会社を手伝ったりしています。人材育成、教育、モビリティ、政治プラットフォームなど…いろいろですね。
水野 すごいですね。
Tehu 最終的には、人が学ぶ力、人が変化する、人がしなやかになっていく、その部分をどう支えられるのかというところに全て帰結していくのかなと思います。
水野 個人をエンパワーメントすることに、みんな意識が行っているんですかね。
Tehu 行ってますね。もちろん個人をエンパワーメントすることはもちろん大事なんですが、それがちゃんと社会としてつながっていかないといけない。一人ひとりの動きがバラバラになってはいけない。かつ、一人ひとりの動きが特定の動きをする人たちだけで集まる社会になってもいけない。
水野 なるほど。
Tehu それは現状とまったく一緒で、クラスター化してもいけない。真逆の方向に行きたい人でも、要は作用反作用のように、お互いに押し合ったら上手くいくような感じで協力し合うことはできると思うんですよね。社会全体を組織として捉えて、全体をよりよくしていくためにはどうすればいいのか、個人のエンパワーメントのさらにその先にあると思うんです。そうしないと人々は幸せになるかもしれないけど、戦争はなくならないんだろうなと思ったりもするので、もっともっと大きな課題として捉えたいと思っています。
水野 けっこういろんな分野の話をしましたよ、今日は。問いがたくさん提出されて。でも、今日の話は答えにはなっていないですからね。
Tehu はい、まったく。
水野 問いを探していくことは、今は難しいですね。それを見つけて、一緒にその問いを眺めながら考えることが求められている。「こっちの答えが正しい」とぶつけ合うのではなく、横に並んで問いを一緒に眺めて、「この問いをどうしたら解決できるだろうか」とお互いに違う立場からものを言い合う姿勢がすごく大事なんじゃないかなと思いました。
(おわり)
Tehu(張惺)
デザイナー・技術者。1995年、兵庫県生まれ。
2020年、慶應義塾大学環境情報学部を卒業。「学習能力とコミュニケーション能力の最適化による文明のリデザイン」を目標に掲げてさまざまなプロダクトやサービスの開発を主導し、大学在学中から講談社ウェブメディアの技術責任者・クリエイティブディレクターや、アーティストプロデュース・イベント演出などを手がけている。現在はスタートアップ7社に参画。
Web
Text/Go Tatsuwa
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