読む『対談Q』柴那典さん(音楽ジャーナリスト)前編①
水野:さぁ、今日のゲストは音楽ジャーナリストの柴那典さんです。よろしくお願いします。
柴:よろしくお願いします。
水野:柴さんが『平成のヒット曲』という本を出されました。平成から令和に至るまでの約30年間。それぞれの年のヒット曲、話題の曲をテーマに、楽曲と社会とを照らし合わせて考えるような論考です。たくさん僕の発言も引用していただいて。
柴:そうなんです。2010年の曲として、いきものがかりの「ありがとう」を選ばせてもらいました。2010年頃というのは、ちょうどヒットとは何かがよくわからなくなっていく時期で。水野さんが著書のなかで「弁当屋で隣にいたひとが何気なく口ずさんでいる。この感じがヒットの実感だ」って書かれていて。なるほどなと。すごく実感のあるエピソードだなと思って、引用させて頂きました。
水野:当時、AKB48の皆さんとかが、CDに特典を付けたりとか、それまでの音楽の売り方とは違うやり方をされる方が多くて。それ以前までは、CD商品の売上ランキングなどが、ヒットの指標として生きていたんだけれども、それが見えにくくなった時期。そのなかの曲として、僕らの曲を取り上げてくださって。
柴:ええ。
水野:僕がちょっと嬉しかったのは、「ヒットが見えにくくなる時代のなかで、孤軍奮闘していた」って趣旨のことを書いてくださったのが(笑)。なかなか外では言えない本音なんですけれど、今から振り返るとたしかに(CD商品の売り上げ枚数とは)違った意味でのヒットをつくりたいと、がむしゃらにやっていた時期でした。
水野:もちろん当時のアイドルの皆さんがやられていたことを否定するわけでは全くないんです。それはそれとしてあるとして、自分たちなりに頑張っていたので。孤軍奮闘とおっしゃってくださって、「あ、わかってくれるひともいるんだ」っていう気持ちがあったんですよね。
柴:そうですか。
水野:改めて、最初の話に入りますが、この「平成」という時代を取り上げてみようと思われたきっかけは?
柴:もともとは「平成」というよりも、ヒット曲の本を書こうというのがあって。一個前の新書で『ヒットの崩壊』という本を書いた。それはまぁ、今話したように、CDランキングからヒットが見えなくなって、何が流行っているのかわからなくなったっていうのを、水野さんや、小室哲哉さん、いろんな音楽の現場のひとに取材して「どうですか?実際は」みたいな本を書いたんですね。
柴:でもあれって、状況論の話で、楽曲の話はあまりしていなかったんですね。やっぱり音楽ジャーナリストって名乗っている、音楽のことを書いている人間なので、楽曲の話をしようと。そうなったときに、最初に思いついたのは、実は文字数だったんです(笑)
水野:文字数? どういうことですか?
柴:新書一冊を書き終わって、大体9万文字くらいになるんですね。ってことは30分割すると、1曲3000字。
水野:おお!なかなか良い量ですね。
柴:1曲3000字で書けば、30年30曲で1冊になるぞって思いついて。それで1年1曲、30年9万文字、よし行ける!って思ったのが、3年ぐらい前のことで。
水野:なるほど(笑)
柴:だから最初はもっとサラッと書いて、「あの曲はこんなところが良い」とかライトに書くつもりだったんですけど。
水野:3年前ということは令和に変わる手前ですか? 令和になるってことはわかっていました?
柴:そうですね。2016年に改元されることが発表されて。出版で仕事をしている人間のなかでは、いろいろなところで「平成を総括する本を出します」みたいな企画が動き始めたところで。
水野:そうですよね。それはたくさんあったでしょう。
柴:政治とか経済とか、いろんな側面から平成を総括する本。そういうものがたくさん出されるっていうのを聞いて。じゃあ僕だったら、ヒット曲でやろうって、わりとライトに思って。
水野:はいはい。
柴:サラッと書くつもりだったんですけど。書き始めたら、とても大変だったので3年かかってしまって。もう令和も3年経った、こんな時期になってしまったっていう(笑)
水野:ちょっと意地悪な質問ですけど、どの年がいちばん難しかったですか? もちろん、それぞれ難しさの種類も違うだろうし。
柴:書いていてツラかったといいますか、最初の山だったのは、やっぱり99年、00年、01年、02年あたり。宇多田ヒカルさん、サザンオールスターズ、MONGOL800、そしてSMAP。やっぱり、なかでもいちばん大変だったのがSMAPです。「世界に一つだけの花」
水野:SMAPは、それだけ話しても1時間かかっちゃう気もするんですけれども、どういったところが書くうえで難しかったでしょうか?まず、SMAPという存在のどこからテーマにされようとしました?
柴:「世界に一つだけの花」を選ぶっていうのは、それはもう決まっている。平成に1年1曲でこれを外すっていうのはありえないじゃないですか。
水野:はい、そう思います。
柴:そうなると、まずは「世界に一つだけの花」についての、ありとあらゆる記事を国会図書館に行って、集める。
水野:おお。
柴:山ほど読んだら、今読むと、的外れかもなって思っちゃうものが多かったんですよ。たとえば、当時の週刊誌であの曲がどう受け止められていたか。実は賛否両論の否のほうが多くて。
水野:あぁ、そうなんですか。
柴:<NO.1にならなくてもいい>っていうのを、いやいやそんなことないぞと。負けてどうする、みたいな。
水野:ははは。
柴:いわゆる「あの曲はそんなに好きじゃないぞ」みたいな記事も結構あって。あの曲ってこんな風に受け止められていたんだなと。でもこれ書いてもな…って、悩んでしまって。
水野:ええ。
柴:そしたら、水野さんと槇原さんの対談を発見して。
水野:ああ!対談させて頂きました。
柴:比較的、平成の最後くらいに、文藝春秋でやっていた対談で。平成を代表する曲を語り合おうって。いろいろな記事があるなかで、それぐらいのタイミングで発表された「作り手の言葉」がいちばん信用できるなとは思いました。
水野:なるほど。そういうものなんですね。
柴:ブームの当時って、やっぱりちょっと身構えることもあるんでしょうけれど、10年20年経つと、あの曲は実はこういう意図で書いていたんですよ、となる。あの対談は水野さんがわりと聞き役になって。
水野:そうですね、やっぱりご本人に聞ける機会なんて滅多にないので。あれだけのムーブメントを作られた槇原さんご本人はどう思われていたかっていうのを聞きたかったですね。ただ、出てくるエピソードがやっぱり槇原さんらしい天才的なエピソードというか(笑)。スッと降りてきたとか。
柴:あの対談を読んで、槇原さんが「仏教の教えに結び付くところがあるんだ」と言っていて。なるほど!って思って。そこからいろいろ組み立てたというか、書くことが決まった感じでしたね。
水野:「世界に一つだけの花」の価値は、年を追うごとに大きくなっていったと思うんですよね。SMAPの皆さんが解散までどういうストーリーを辿ったかも、重要だと思うんです。それらの歴史を受けて、時代を思い返すときに、みんなが思い出す参照点になってしまったというか。リアルタイムで皆さんが歌っていたときと、また違うものがあるのかもなって。
柴:そうですね。これ本文には書かなかったんですけど、書いていて思ったことがあって。今の時代ってあの曲が多様性の歌だって、ストンと落ちると思うんですよね。<もともと特別なOnly one>って、それこそレインボーカラーの歌なんだと。SDGsとか言われるようになった。
水野:はいはい。
柴:今の時代に育った子どもたちって「あ、多様性の歌でしょ」って、なんの捻りもなくストレートに受け取ると思うんですけど。当時の雑誌とか評論とかを読むと、そのことはひとつもないんですよね。同じ歌も、時代によって受け取られ方が違うんだなって思いました。
水野:当時は、その問題意識がまだ顕在化していなかったってことなんですかね。もちろんそういうことに対して悩んでいらっしゃる方は当時もいて。だけど、それに対しての意識っていうのは、世間のなかでは見えていなくて。
柴:そうですね。社会的な合意に至ってなかったっていうことなのかも。
水野:「世界に一つだけの花」の賛否の否もあったっていうところを踏まえると、やはり、当時はそれだけ強度を必要とするメッセージだった。要は、社会変革をするために、ある程度の強度がないと意味がない曲だったっていうところも、ヒット曲の要因な気がしていて。
柴:なるほど。
水野:今、多様性を歌うとか、もちろん正しいか正しくないかで言ったら、僕は正しいと思うんですけど。ただ、あまりに正しいことって、歌っても別にヒットしないというか。
柴:そうですね。ガツンと来るかどうかみたいなところですよね。
水野:そうです、そうです。何、当たり前のこと言ってんの?って。インパクトがない。あの時代は、ナンバーワンを目指さないでオンリーワンを目指すみたいなことに、まだ新規性があったり、社会としての渇きがあったというか。
柴:だから波紋を呼んだんですよね。
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