松井五郎さんにきく、歌のこと 9通目の手紙「僕らは”われわれ”のことを書いている」水野良樹→松井五郎
松井五郎様
また嵐がやってくる。
テレビでも散々にそう言っていましたし、市井においても、みんな口々にそんな話はしていましたから、重々わかっていたはずなのですが、いざ実際に跳ね上がっていく感染者数、悪化していく医療現場の状況、それにともなって社会全体が憂鬱な雲に覆われていくこの感覚…それらを目にし、肌に感じると、どうにも戸惑ってしまうものです。
春に緊急事態宣言が出された頃に巻き起こっていた異常事態における張り詰めた緊迫感は、よくも悪くも弛緩し、ある意味ではより深刻で、より重い倦怠感となって僕らを包んでいるような気がします。
いつまで続くのか。
沼のなかに沈んでいく身体を、なかば諦めているような気がしていて、手や足をばたつかせる気力さえ、失っていっているのかもしれません。これもまた一般的な災害における被災と違うのは、災害が、ある意味では起きた瞬間を基点として、復興への時間を「それから」と題して未来に向けていけるのに対し(もちろん、それが被災者を苦しめることも大いにあります)、今回のコロナ渦はねっとりと粘質性をもった「現在」が、ずっと僕らの背中にとどまり続けていることです。無限に続くように思われる「今」に僕らは疲れ、そして苛立っているのかもしれません。
ままならぬ1年でした。こうやって歌詞についての手紙を交わさせて頂きながら、つまるところ、そういったとらえどころのない「今」が二人の言葉のやりとりのあいだに立ち現れているような気がしています。
僕も、この1カ月はいきものがかりのライブツアー中止の判断を発表し、その一方で水面下では違うかたちでライブが実現できないか、スタッフたちとぎりぎりの折衝を続けています。チームは決して一枚岩ではなく、ライブに関わるそれぞれの人々が、それぞれの立場での困難を抱えていて、綺麗事やロマンだけでは話が前に進みません。目を覆いたくなるほどの現実をひとつひとつ解きほぐしながら、歯を食いしばって向き合うことしか打開はなく、それは気を病むには十分な重さを持つ一連ですが、何とか日々をすごしています。
弱音ばかり吐いてしまって情けないですが、「大丈夫?」と聞かれて「大丈夫だよ」と取り繕って答えることにも疲弊してくるような日々で、それをここに吐露することも、また「今」を刻むことに他ならず、やがて振り返ったときのために書いておくべきことなのかもなと思っています。
さて、頂いた手紙のなかで、歌詞を書くうえにおける「自分」というものについての逡巡にあらためて触れて頂きました。いきものがかりにおける水野と、個人としての水野との乖離について、以前も、そして今回も問いかけて頂きました。
作詞家としての松井さんは、作詞家が一般的に背負う役割として、歌い手やアーティストを中心とした“他者の言葉”を書くことを求められるのが常で、まずその「自己」「自分」「わたし」というような言葉で言い表される主格を、俯瞰してみることから始まることが多いとおっしゃっていました。
他者(歌い手、アーティスト、聴き手など)と、松井さんご自身とのあいだに広がる“平野”のなかで、おそらく作詞という行為をするときに、どのように立ち位置をとるのか、どの「わたし」に重きをなすのか、あるいはどの「わたし」から、その“平野”を眺めるのか、常に悩まれていらっしゃるのだと思います。
そして、これは僕の推察ですが、その立ち位置をどこにとるかを考えること自体が、もはや「作詞」という行為そのもののような気もしています。
なにも、言葉を書いた瞬間から「作詞」が始まるわけではなくて、その前段階からその行為は始まっていて、松井さんのように他者に言葉を渡す書き手の場合、広い“平野”を空の上から俯瞰して眺め、どこに降り立って、どこから「作詞」という歩みを始めるのかを考えることさえ、「作詞」の重要な工程のひとつなのではないでしょうか。
そして長くなりましたが、その悩みは、おこがましくも、自分にもあります。いや、もちろん同じだとまでは言い切る勇気はありません。ですが、おそらく本質的には近いところで、悩むことがあるのだと思います。
以前、お伝えしたことと、矛盾することもあるかもしれませんが、やはりこの1年で、変わってきたこともあります。それは「いきものがかり」という存在と自分との距離です。距離という言葉を使うと正しくないのかもしれません。「関係」でしょうか、「あいだ」でしょうか。適当な言葉がまだみつかりません。
正直な話を言えば、「いきものがかり」の歌の主語というのは誰なのかということが、あくまで書くうえにおいて、本当にとらえどころのない難しいものになってしまっているのです。
もちろん口では前回お話したように、聴き手が自身を主格とし、自分の物語を思い浮かべられるようなものをつくりたいと言い続けてきました。ようは“聴かれる”歌よりも、“歌われる”歌を目指していると言い続けてきたのです。
しかし、書いていて、混然とするのです。これはなんなのだろうと。
他者と自分とが混ざったような感覚です。もちろん書くときには自分が存在していて、自分の考えなり、思いなりが、歌のなかに嫌でも反映されていきます。水野良樹という個を拭うことはできなくて、やはり自分は、自分の歌を書いているのだという感覚は消えないのです。
ですが、一方で、吉岡が歌うことによって、それは近しい仲間たちという“他者”のものにもなります。言葉を書くときに、吉岡という存在が与える影響力を僕はやはり無視できないのだなと、この1年、本当に強く思いました。
吉岡聖恵が歌える言葉と、吉岡聖恵が歌えない言葉があるのです。
これは吉岡の技術、才能、如何の話ではなくて、どのシンガーにも等しくある個人としての制限で、人間である以上、誰もがもっているものです。吉岡聖恵という他者の存在は、僕という自己が毅然として在るのと同じように、それもまた毅然としてそこに立ちはだかっているのです。
吉岡という他者と、自分とが混然となるなかで、そこでまず「わたし」の輪郭がぼやけはじめます。
問題はさらにそこからです。僕らは水野良樹として届けるのでもなく、吉岡聖恵として届けるのでもなく、「いきものがかり」として届けます。この「いきものがかり」という法人格?のような存在が、またさらに「わたし」を、混然としたものにさせます。
「いきものがかり」は、いわば“交差点のようなもの”で、そこには無数の聴き手がやってきて、彼らも自分を主格として、歌を聴くのです。そのとき、誰のものでもあって、誰のものでも無い歌という、不思議な答えが立ち現れます。
その一連をみたときに、結局、自分はどこの「わたし」に身を置いて書けばいいのかと、わからなくなるのです。
なんだか禅問答のようですが笑。
秋ごろ、精神的な疲労に耐えられず少し休養をもらった時期に、「自己論」の本をやたら読みあさっていた時期があります。
「自己とはなにか」というのは哲学においては、もうメジャー中のメジャーなテーマで、それこそ星の数ほどの言説が長い歴史のなかで生み出されてきたわけですが、たまたま出会ったひとつの説の、ひとつのフレーズがとても示唆に富んでいました。
自己とは“われわれ”である。
この自己を“われわれ”と見る考えは、もちろん学術的な厳密さを求めれば、そのなかにもさらに細かい論説があって、ただ読みかじっただけの僕が安易に説明できるものではありませんが、あくまで感覚として、僕はこの「自己とは“われわれ”である」というのが、歌を書くときの感覚と、どこかリンクするような気がするのです。
とくに多くの人へと、遠くへと、届いた歌をながめるとき、僕は“われわれ”のことを書けたのかもしれないと、思うのです。
また話が長くなりました。
最後に桑田佳祐さんがつくられた坂本冬美さんの「ブッダのように私は死んだ」について。なんだか素っ頓狂のようなことを申し上げますが、僕は例えるなら“仮名手本忠臣蔵”のように思いました。欲も業も淫靡も正義も、時代を物語をもって表すのは大衆芸能の根本のような気がしていて、桑田さんがあのような歌を書くのは、まさにそれに殉じているのではないかなと思います。
さぁ、今年も終わってしまいます。
この手紙のやりとりも9回目となりました。この苦しい時期に、松井さんと手紙を交わさせて頂いていること、本当に心から感謝いたします。ありがとうございます。来年は、必ずお会いしたいなと思っています。そしてもう一度、この手紙たちについて振り返りたいなと。
お会いできることを信じて。良いお年を。
水野良樹
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