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松井五郎さんにきく、歌のこと 4通目の手紙 「新しい物語を書くこと」 水野良樹→松井五郎

2020.06.15

作詞家の松井五郎さんに、水野良樹がきく「歌のこと」。
音楽をはじめた中学生の頃から松井五郎さんの作品に触れ、強い影響を受けてきた。
もちろん、今でも憧れの存在。
そんな松井五郎さんに、歌について毎回さまざまな問いを投げかけます。
往復書簡のかたちで、歌について考えていく、言葉のやりとり。
歌、そして言葉を愛するみなさんにお届けする連載です。

4通目の手紙「新しい物語を書くこと」
水野良樹→松井五郎

松井五郎様

手紙をいただいて、その返信を書く。
そのあいだのわずかな時間をもう何度か越えていますが、この数ヶ月はほんの1週間、2週間で世の中の空気がガラッと変わってしまう日々です。
激しい言葉のやりとりで心を刺された方の痛ましい事件も起きてしまいました。そんななかですが、さして間をおかず、倫理的な過ちを犯したひとにまた嵐のような“正義”の言葉が降り注いでいく光景が現れたりもしています。
“正義”というのは悔しいほどに強敵で、無敵です。それを使うひとにとって論理はまるで粘土のように柔軟に都合よくかたちを変えることができます。誰かに向けて刀を振り下ろすという行動の手前にはいつだって迷いがあるはずですが、ひとは“正義”を手にしたときだけは、その迷いの門を、いとも簡単にすり抜けていきます。
大袈裟さや曖昧さを恐れず言えば言葉は人間そのものでもあるように思います。人間とは恐ろしいものでもあるわけですから、すなわち言葉も恐ろしいものです。そのことをよく考える時間でした。

さて、「なぜ歌詞を書くのか」という、あまりにもど真ん中のボールを、失礼も省みず先輩の胸に投げ込んでしまいました。ですが、それを一切の虚飾を含めず、ありのまま、まっすぐに返してくださったことがとてもありがたく、嬉しかったです。

書くという営みそのものに感じる面白さ。快楽。
意味や目的に促されて行われるものではなく、本質は論理以前のところにある。それでなくては続けられなかったというのは、重厚に積み重ねられた“理由”よりもよほど強靭なものに感じました。

問いかけてみて松井さんから頂いた答えが、今度は自分自身に突き刺さってきます。

自分は書くという行為にそれほど原始的な快楽を感じているだろうか。
もう少し平たい言い方をするのなら、歌を書くことが「好き」なのか(この「好き」という言葉もやっかいですが。「好きなことを仕事にして…」とぞんざいに言われたときにぐっと胸の奥に滲み出てくる違和感みたいなものを思い出します)。

ちょうどこの6月の頭にもいくつかの締め切りが重なり、制作作業をしていました。そのなかでもよく思いました。ここ数年、実は曲をつくるたびに毎回と言っていいほど考えているのかもしれません。自分は曲を書くことが本当に好きなのだろうかと。

そんなにぐずぐずと迷っているのなら、その席をさっさと俺に譲ってくれと言うひとも大勢いるでしょう。曲をつくることで生活ができるというのは幸運な立場で誰もが与えられる場所ではありません。それは自分などよりも才能豊かだったはずなのに、様々な理由で音楽の道を諦めざるをえなかった多くのひとたちのことを思い出しても思います。だから、その迷いを口にすることさえ憚られるときがあります。

でも僕はやはり、つくっているときのつらさ、自分の技術不足や不勉強が露呈していくときの情けなさ、常にイメージ通りにならないすべて。そういう苦しさのほうが先に立ってしまいます。逃げられるものなら逃げたいとさえ思います。そう言いながらしかし、また鍵盤の前に座っているのですから自分で自分が理解できません。

完全なる矛盾です。ですが事実として僕は何度となく鍵盤の前に座ってしまいます。そしてそこに座り続けて、また曲を書き終えるわけです。

それはやはり「好き」なのではないか、そこに本質的な面白さを感じているのではないか。そう言われてしまうかと思うのですが、何かすっきりと肯けない部分があるのです。「自分という存在を超えたい」という理由も、無限装置に組み込まれたかのようなこの不条理な繰り返しのなかで、なんらかの秩序を手にしたかったのかもしれません。この営みには意味があるのだと思わないと、どこかで壊れてしまいそうだ。そう思ったところも本心としてはあるのではないかと思います。

なんだか「生きる」ことと同じように思います。
物理的には、生物が生まれ、そして死んでいく一連に意味はないのだと思います。ですが、それではとても生きられないから、人間はときに宗教や倫理や、物語(国家、共同体、他者)を持ち出して、秩序をつくり、意味をつくります。やはり僕はまだ“意味”に救われていますし、“意味”に甘えているのかもしれません。

さて、だいぶ前段が長くなりましたが、お手紙で問いかけてくださったことにお答えしなければなりません。いきものがかりという存在が自分とどう関わっているのか。それはひとつの縛りにもなっていないか。

あたりまえのこととして「いきものがかり」はやはり僕自身ではありません。
いきものがかりは水野、吉岡、山下がそれぞれに個人としてできることの3つの円がちょうど重なりあっている場所に立ち上がったものです。全く別個性の3人が重なる部分は自然と狭くなりますから、その範囲は狭いと言えば狭いのですが、重なっている以上、たがいを掛け合わせてもいるわけで、それによってひとりではできない表現に達することもできます。

少なくとも僕は、いきものがかりという存在がなければ世に出られるほどの才能も技術もなかった人間でした。曲作りを始めたそのときから目の前には良きライバルとなってくれる山下の存在がありました。彼と互いに曲を出し合い、おもしろおかしく競い合えたことが自分を成長させました。
吉岡というシンガーの存在は自分を大きく変えてくれました。彼女が自分のメロディを歌ってくれることによって、まさに曲は自分というちっぽけな存在を“超えて”、遠くまで届いていきました。歌に滲んでしまう僕の個人的な感情も、彼女のニュートラルな歌声が普遍的で手にとりやすいものに変えてくれました。いつも僕は小難しく、そして長ったらしく、ポップソングとは何かをうだうだと考え続けていますが、そんなふうに考えることができたのも彼女の声に出会えたからでしょう。それほどに吉岡の声は僕にとっては解けない謎というか、不思議と言い表せず、かつ尊いものです。
吉岡、山下、彼ら二人に出会っていなければ見えなかった景色、手にできなかった技術がたくさんあります。それが僕の前提です。

ですが話を戻せば、「いきものがかり」とは重ならない自分がいることも確かだと思います。いや、むしろ時期によっては“重ならない自分”のほうが“重なる自分”よりも多いときもあったと思います。

とくにある時期から、曲が醸し出したイメージが、曲そのものを勝手に離れて「いきものがかりさん」というある種の人格めいたものを持ち始めたときはかなり戸惑いました。曲が放つ雰囲気だけが肥大化していくような感覚です。

大きな青空に無邪気に白い雲をつくっていく。
いろんなひとに見てもらいたくて、少しでも大きな雲をつくろうとせっせと3人で頑張っていたんですが、いつのまにかそれは自分たちの背丈ではとても手が届かないほど巨大になっていて、あげくのはてには勝手に意識をもって、しゃべりはじめた。そんな感じです(どんな感じだ笑)。

あれを俺らだと言われちゃ、そりゃ困るよと。笑。

これはおそらく舞台に上がる人間や、芸能にまつわる人間が向き合う悩みの“あるある”で音楽そのものと向き合うこととは別種のものなのかもしれませんが、その虚構の人格をもとにリスナーのみなさんは音楽をとらえたりもするので、なかなか整理が難しく感じたことも多々ありました。いや、過去形ではないですね、今もそうでしょう。

でも、これはもうしょうがない。違う、そうじゃないと言い続けることに力を使うよりも新しい雲をつくることに力を傾けるのべきなのかなとも思っています。今までの雲を消し去るわけにはいきません。雲はもう多くのひとに見られているし、愛してもらっています。端的に言えば、僕らだけのものじゃない。そして自分の人生はすでにその雲と強く結びついていて離れがたいものです。もう書いてしまった物語を変えることはできません。自分にできるのは“物語を書き続けること”、そして“新しい物語を書くこと”、それだけです。できることは未来にしかありません。

そのうえで気をつけなければいけないと思っていることもあります。
いきものがかりとは違うものを。と語りだした瞬間に、それはいきものがかりを軸にした思考になってしまいます。それはまたある意味で、いきものがかりに縛られている考え方です。自分がものをつくるときの軸は、やはり自分自身に置かなくてはなりません。

ただ自然に、自分ができることの円を広げていく。深めていく。そのなかにもちろん、いきものがかりに関わっている自分の一部分があり、そして“新しい雲”になりうる他の部分があります。少し、まどろっこしい語り口となりましたが今の自分はそんな風に思っています。

また長くなってしまいました。次の問いかけをお渡ししないといけません。
手紙のやりとりを始めさせてもらってからのこの数ヶ月。世界的に情勢が不安定になった数ヶ月でもありました。この時期に紡がれる言葉は多かれ少なかれ、社会状況の影響を受けるものだと思います。
それが実際に作品のなかにわかりやすい変化となって現れるときもあれば、逆に嵐のなかの灯台のように、せめて言葉だけは不変であろうと、むしろ強固に今までと同じスタイルが貫かれるときもあろうかと思います。

松井さんは世の中の風が自分の言葉に与える影響について、いつもどのように感じ取り、どのように向き合っていらっしゃるのでしょうか。

水野良樹

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