信用できない大人
「思い出 はなし出すなら 今以下のことをネ」
所ジョージさんの歌の一節にそんな言葉があるらしい。
普段、偉そうに音楽について御宅を並べている私だが、人が知っている曲を知らない、ということがかなり多い。
100年後も歴史に残るような名曲も、最近の流行りの音楽も平気で知らない。
まぁ、それは一旦良い。
「思い出 はなし出すなら 今以下のことをネ」
なんて掘り下げたくなる言葉の連なりだろう…。
ちなみにその後には
「今以上のものなんか 聞いててかったるい」
と続く。
さて今回は、その歌詞を知るきっかけをくれた、ある人の言葉について記したい。
その"ある人"とは、お笑いコンビAマッソの加納愛子。
3年ほど前だろうか。誰かが無断でYouTubeに上げた彼女らのネタや、トークでの頭の回転の速さ、繰り出される言葉のセンスに惚れ込んでしまい、気づけば毎週のラジオを楽しみにしているほどのファンになってしまっていた。
私はまだ、好きなお笑い芸人について、聞かれてもないのにその理由を熱く語るほど"痛ファン"ではないので、加納さん自身の話はこれくらいにしておこう(もう語ったという指摘は無視させて頂く)。
先日、彼女の初エッセイ「イルカも泳ぐわい。」(筑摩書房)に出てきた表現に、また「お!」と思わされた。
前述の所ジョージさんの歌詞を引用し、郷愁感や地元愛ついて書いてある最中、
そもそも語尾に「ネ」なんてつける大人は信用してはいけない。
と締められる一文がある。
多くの人は、あるいは普段なら私も「加納らしい尖った言い回しだな」くらいに流してしまいそうである。
しかし、寝る前に心を鎮めながら、その一節に触れた私は、この最近見かけなくなった、そして存在すら忘れていた「ネ」に非常に愛着を覚えていたことを初めて自認した。
幼い頃、テーブルの上にあった書き置き。
「冷蔵庫から出して、チンして食べてネ」
上京したての頃、一人暮らしの息子を心配し、実家から送られてきたクール便に差し込まれていた手紙の最後。
「身体に気をつけて頑張ってネ!」
文末の「ネ」には、愛がある。
そして「イルカも泳ぐわい。」の作者は、もちろんそれも理解している。
ただし、かくも感情に訴えかけ、書き手の印象を左右する語尾一文字を利用して、相手を騙そうとする"信用できない大人"がいることも知っているのだ。
ここで世の中に蔓延る不正や、日々の不満を吐露するつもりはない。
もっと言うと、おそらく加納さんも、本気で所さんが打算的に「ネ」を遣っている大人だとは思っていないだろう。
このnoteを書き始めた時、美談っぽく締めるつもりだった。
しかし、路線変更。教訓として終わろうと思う。
語尾に宿るその人の美学と、それを理解し、計算的に遣う大人がいることは知っておいても良いかもしれないネ。