松葉杖卒業とある日の原爆の日の記憶
今日の通院で松葉杖を返却した。
完全に2足歩行動物へ戻れた。
7月8日に骨折してから丁度1ヶ月で全治1ヶ月だった。
ところで全治と完治は全く違うものだと初めて知った。
全治は早くて4週間と言われていたので、4週間後には元に戻るかと思いきや、(完治とは骨折したことを忘れているくらいの状態)まだまだ完全復活までは時間がかかりそう。
今日の地獄の痛みとの戦いのリハビリと筋トレを教えてもらい、今日から元に戻すトレーニングが始まる。
頑張ろう。
帰りは完全2足歩行動物らしく、合羽橋でショッピングなぞして帰宅。
今日は8月9日。長崎原爆の日。
広島の8月6日から長崎の9日。
毎年思い出す記憶がある。
小学生のときに富山県滑川市の山奥にあった祖父母の家にこの時期は夏休みで大体滑川にいた。
よく近くの温泉に連れて行ってもらっていて、ある日そこの休憩室のテレビで原爆特集が流れていた。
テレビを見ながら、いつもは休憩室でべちゃくちゃ喋っている人たちがその時は一言も話をせず、皆ただただ黙ってテレビを見ている。
山奥の温泉なので、大体祖父祖母世代のおじいちゃんやおばあちゃんで大体戦争体験者だったのだろう。
テレビの音のみ流れていて、他の音がしない。
空気が変わるのを小学生ながら感じていた。
どうして良いのかわからず、買ってもらったアイスクリームを食べながら祖父の顔を見ると、少し恐怖を感じた。
悲しいとか、怒りとか、なんかそういう感情じゃなく、能面のように無表情だったのだ。
祖父は8年以上2回徴兵され戦地に行っていた。
一部の親族を除き全く戦争の話はせず、多分1番可愛がってもらっていたワタシにも一才話はしたことがなかった。
祖父の死後に興味を持ち、祖父2名の軍歴証明を取り寄せ、当時の従軍時記録を調べたことがある。
(3親等以内の血縁者には各都道府県庁で請求閲覧できる)
祖父は昭和13年に初めて徴兵され、機関銃隊に入隊。
凄惨を極めた戦いで有名な1938年の九江作戦に参加した。
数年前に知ったが叔母によると一度酒に酔い当時の悪夢のような光景を話をしていたらしい。その後無事帰国、除隊したが昭和16年に再び徴兵。
昭和19年夏には沖縄へ移動になり、沖縄戦の直前に台湾へ移動し終戦。
21年2月に浦賀に到着し復員、除隊している。
どのような記憶があったのかは知るすべはないが、祖父が想像を絶する経験をしたことは間違いない。もう少し沖縄が長ければ、存在しなかったかもしれない。
あの時の張り詰めたような沈黙や祖父の表情は当時の記憶、出来事の再現だったのかもしれないと今になって思う。
言えない、言いたくない凄惨な記憶が誰もがあの時代を生きていた人はあったのだろう。
もはや聞くことのできない”あの時”の記憶。
ただ、祖父母の時代の人たちが命をかけて守ってくれた未来を生きている今、しっかりと更なる未来へ繋ぐ義務が今の自分たちにはあると改めて思う。
そして、こういう事を思い出しながらノートを書いていると自分の骨折なんてとんでもなくどうでもいいことのように思えてくる。