社会が与えるおしゃぶり
タピオカがここ数年一気にブームになり、最近は廃れてきてはいるものの、まだ街では店舗も点在し、うっすらとブームの余韻は続いている。
タピオカは食感が乳首と似ている。そして、タピオカのサイズにフィットするようにあの少し太めのストローを使用し、吸い上げながら飲む。定番で最も人気なのはタピオカミルクティー。つまり、乳首的なるものを吸いながら、ミルクを摂取する工程が授乳を想起させる。
特にタピオカを愛飲しているのが、10代〜20代前半だ。彼らは、ちょうど思春期〜親の元から離れていく時期である。自立していくにあたって、まだ完全に親から離れていくことはなかなか難しい。その寂しさや葛藤が、乳児の頃の授乳の記憶を呼び覚まし、最後の郷愁を味あわわせてくれるものとして、タピオカが機能する。
そして、その郷愁をしばし味わった後は、自立に向かってタピオカを卒業していく。若さゆえに生じる複雑な感情にフィットしたのが、タピオカという存在であったように思う。
しかしながら、タピオカ的なるものの存在は大人になっても必要だ。自分の存在を無条件で肯定してくれる存在への記憶は、潜在的に残り続けている。おそらく、タバコは、タピオカ的なるものに近いのだろう。ストレスを解消するために、嗜好品として、人はタバコを吸う。映画では憂鬱そうにタバコを吸うシーンがよく描かれる。どこか、複雑な感情に寄り添ってくれるのがタバコという存在なのであろう。
彼らも根本的には寂しく、不安なのである。赤ちゃんが泣いたり、ぐずったりしたらおしゃぶりを与えたり、授乳させることで安心させて泣き止ませるのと同様に、いつまで経っても何か咥えることで落ち着く、という人間の習性は変わらないのである。それは、人は必ず死ぬという厳然たる事実が存在する限り仕方がないことなのだろう。
ただ、様々な社会問題を抱える日本で、おしゃぶりを与えることで国民を落ち着かせ、溜飲を下げてさせるものとして、タピオカやタバコが機能してしているようにも感じる。おしゃぶりで感情を一時的に抑え、安心していて本当にいいのだろうか。社会に対する不満や怒りを押し殺していていいのだろうか。その態度こそが、様々な問題を野放図にしてしまう一因になってしまっていないだろうか。僕は、あまりおしゃぶりには頼らずに、自分の感情を素直に認めて生きていきたいと思う。