ネットも現実世界の一部
少し前になるが、とある法事が終わった。
その家は神道で、厳密には法事ではなく「神事」だが、世間一般的には法事と言ったほうがわかりやすいだろう。
その際、久しぶりに再会した人達といろんな会話をした。
明るい話題であれ暗い話題であれ、法事(神事)で会う人とはどこか厳かな気持ちで会話を進める形になる。
さて、そのような機会で毎回思うことがある。
それは、人と面と向かって厳かな気持ちで会話をすると、ネットのことをふと忘れる、という点だ。
SNSでのやり取り、ネットニュース、そういったものの存在が、ふと頭の中から抜け落ちるのだ。
現代社会においてネットは必要不可欠であるが、人と直接会って厳かな雰囲気のもとで会話をすると、ネットの存在を忘れている自分に気づく。
今は直接会ったことのない人でもSNSで気軽にコミュニケーションができる時代だ。
また、ネットニュースのコメントなどで、見ず知らずの赤の他人の意見もすぐにわかってしまう。
しかし本来、人とのコミュニケーションは面と向かって行うべきものであるし、人の意見も面と向かって聞くべきだろう。
ネット上ではなく、現実世界でしっかりとコミュニケーションを取る。
そんな「人間の原点」ともいうべき感覚を強く味わうと、ネットの存在が薄れるのだ。
特に法事(神事)などで厳かな会話をすると、本当にネットのことが頭から抜け落ちる。
そもそも会話中にスマホなど見ないし、ネット上の話題も気にならない。
そんな時にまでネットのことを気にするのは野暮だとも思う。
厳かな気持ちになるとき、人は自然とあるべき姿に戻るのだろうか。
改めて考えると、ネット上のコミュニケーションは極めて異質だ。
特に、直接会ったことのない誰かと気軽にやり取りをすることは、よく考えたら異常なこととも言える。
それが顔も名前も知らないような人であれば尚更、相当おかしなコミュニケーションだろう。
それより、人として本来あるべき自然な姿は、現実世界で面と向かって会話をすることだと思う。
しかし、だ。
人や世間の価値観は時代とともに変化する。
現代人である以上、ネットは切りたくても切り離せない存在だ。
「人として本来あるべき姿は、現実世界で面と向かって会話をすること」などと書いたが、その「人として本来あるべき姿」も時代とともに変わるのだろう。
例えば、現実世界に嫌気がさし、ネット上で繋がりを求める人もいる。
それ自体が悪いこととは言えない。
特にこんな生きにくい時代であれば尚更。
もちろん、ネット上の繋がりはリスクもあり、トラブルの元になるような不健全な繋がりは褒められたものではない。
が、「健全な繋がり」であれば特段問題はないだろう。
ネガティブなイメージの多いネットでも、ポジティブな繋がりはある。
かくいう私も長年インスタグラムを続けており、ほぼ毎日風景写真等を投稿している。
そして写真等の趣味で繋がっている人は、直接会ったことのない人がほとんどだ。
しかし私はインスタグラム上の繋がりに非常にポジティブなものを感じている。
彼らと気軽にコミュニケーションを取ることもある。
「人として本来あるべき姿は、現実世界で面と向かって会話をすること」とは思うが、ネット上の繋がりには感謝すべきことも多い。
そしてこのnoteもそうだ。
思いつきで無計画に始めたことが、新しい繋がりを生む。
それ自体は何もネガティブなことではない。
法事(神事)などで厳かな気持ちで人と接すると、確かにネットのことは頭から抜け落ちる。
が、それらが終わってひと段落したとき、ネットの恩恵をまた思い出すわけだ。
私が今こうしてnoteに文章をまとめているのも、当然ながらネットがあってこそ可能なことである。
結局、ネットも現実世界の一部なのだ。
インターネットは、他でもない現実の生身の人間達が作り出したものなのだから。
ネットを見ればポジティブな話題もネガティブな話題も目に入る。
それで不必要に疲れたりすることもあるだろう。
それでもネットのポジティブな可能性を、私は信じたい。
それはインスタグラムも、そしてこのnoteも、例外ではない。
最近、改めてこういう視点を再認識するようになった。
もちろん、現実世界で面と向かって行うコミュニケーションの心地良さや重要性は重々承知している。
しかし私はネットを軽視するつもりもない。
そんな気持ちで、noteもしばらく続けようと思う。
最後に
このnoteは今年の4月、完全な思いつきで無計画に始めたものです。
仕事と関係のない場で文章を気ままに書きたいとの思いで始めました。
そんな私の拙い文でも、閲覧されたり、スキを受けたり、サポートをしていただいたりすることもあり、大変感謝しております。
お読みいただいた皆様、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。