バルミューダフォンが生まれたとき、なぜ落胆する人々が生まれたのか、ゆるっと考えてみる
※決して企業や製品、ストーリーを批判する意図がないことはここで述べておく
2021年11月、おしゃれ家電で有名なあのバルミューダがスマートフォンを発表した。
「あのバルミューダがスマホを発売するのか」「一体どんなデザインのスマホなのか」
多くの人々に期待され注目されたバルミューダフォンであるが、その期待とは裏腹に、発表翌日からコレジャナイ感とまで言われ、YouTubeには低評価レビューがアップされる始末である。
かくいう私もバルミューダフォンには、購入意思こそ無けれ期待はしたし、そして製品詳細を見て落胆もした。
一体なぜこのようになったのか。バルミューダのスマホはうまくいくはずじゃなかったのか。私見としてゆるっと考えてみた。
バルミューダはこれまでに何をしてきたのか
バルミューダといえばおしゃれ家電という製品イメージはあるだろう。しかし当人たちは一体何を想い、おしゃれ家電を生み出してきたのか。そのブランドイメージや企業理念をことばにできる人は少ないのではないか。
バルミューダの歴史から読み解いてゆく。
※本旨は次章から始まるため、この章は読み飛ばしても良い
彼らが描く世界
バルミューダのミッションである。
革新的で便利なモノを技術により実現する、と解釈した。
生み出したモノ
バルミューダは何を生み出してきたのか。2例挙げる。
2010年に扇風機を生み出した。
従来の扇風機のようにいかにもな見た目でブーンと音を立て、勢いのある風を送るのではなく、シンプルな形から自然風のように静かで、優しい風を送るほうが人間には心地いいはずだ、と。かすかに残る私の記憶にはこのように写っている。
また2015年にはかの有名なトースターを生み出した。
たくさんの機能を搭載し何でも作れる多機能レンジという製品で競っていたあの時代に、ボタンを減らし、あえてトースター機能だけ、しかもパンを美味しく焼くことに特化した製品は、私の目には異質に映った。
職業人ではなかった私は、こんなモノ売れるのか?と思わずにはいられなかった。そして売れたことへの驚きは今でも覚えている。
彼らはデザインと体験という新たな購入基準を生み出した
これ以外にも数多くの製品を生み出しているバルミューダであるが、前述の2製品から言えるように、彼らの成功は機能(技術)をうまく使い、モノにデザインと体験という新たな選び方を作り出したことだと考える。
扇風機(The GreenFan)には、統一感あるシンプルな見た目から優しい自然風を送るというデザイン、見た目にも風にも優しさ心地よさを感じるという体験を付加した。
トースター(BALMUDA The Toaster)には、無駄を排した見た目と簡単な操作というデザイン、焼きだされるパンは市販品とは思えぬ香りと味という体験を付加した。
こうして今までの家電購入シーンでは重要視されなかったデザインと体験での選び方を成立させた。
こうしてバルミューダは新たなデザインと体験を生み出す企業と認識されたのではないか
デザインと体験による家電への付加価値は、バルミューダの成功の鍵となったようである。
事実、約2万6千円の美味しいパンが焼けるだけのトースターは累計100万代以上売れ、2020年末にはマザーズ上場を果たす大企業へと変貌した。
約4万5千円の保温機能もついてない炊飯器。約6万円の美味しく淹れられるコーヒーメーカー。こうした市場平均を大きく上回る価格の家電を、デザインと体験という付加価値で売ってのける。
こうしてわれわれ一般生活者の認識は徐々に代わり、いつしかバルミューダはデザインと体験で既存価値観を変える企業だと共通認識が生まれたのではなかろうか。
私達はバルミューダに何を期待しているのか
すこし話を戻す。
落胆とは期待がないと生まれないものである。つまり、人々はバルミューダフォンに少なくとも期待はしていたはずである。
では何を期待していたのか。
前述のバルミューダに対する共通認識のように、つまり我々はバルミューダフォンでもデザインと体験によってスマホへの価値観の再構築をしてくれる、と期待したのではなかろうか。
にもかかわらず落胆したということは、バルミューダフォンがデザインと体験による価値観の再構築が不十分であった、ということを意味している。
なぜ不十分であったのか、これを考えてみた。
白物家電だからこそバルミューダは成功したのではなかろうか
UX、CX、デザイン思考などの物事に対する見方・考え方と同様、「デザインと体験による付加価値」というのはモノに対してある程度共通して通用する概念だと言えるだろう。
しかし、それが成功に結びつくには市場内での競争力が必要がある。
バルミューダが「デザインと体験による付加価値」により競争力を生み出し成功できた理由は、それが白物家電であったからと考えている。
ではなぜ白物家電であれば成功するのか。
それは白物家電の特徴から「デザインと体験による付加価値」が競争力となりうるためと考えている。
白物家電の購入に関して言える特徴は次のような点だろう。
誰しもが生活に必要とするため、市場のパイは大きい
しかし一度購入すると壊れるまで買い換えが発生しない
世帯に一つまでしか保有されない家電と複数保有される家電がある
選定基準は基本的に機能であり、見た目重視にはなりにくい
コア機能は各社共通で差別化しづらい
機能が決まっており、生活を大きく変えうる付加機能は生まれにくい
競争を起こしにくく流動性が低い、見た目に大きくこだわらない、機能による他社との差別化が難しい、これが白物家電である。
機能を絞ることで白物家電が揃いきった家庭に入り込む余地を生み出した
いくら美味しいパンを焼けるからといって、今ある電子レンジを買い換えるかと聞かれると、ほとんどの人がNOと答えるだろう。
だからこそ、買い替えではなく買い足しで勝負したのではと考えている。
一人暮らしパックなどと謳って販売される電子レンジにはグリルやオーブン機能はついてないから、トースターという機能に特化することで生活の隙間に入り込む事ができる。
あるいは部屋が複数であれば、扇風機が足りてない部屋だってあるだろうし、一つの扇風機を毎晩移動させるのは面倒だろう。
つまり滅多に買い替えされない家電で勝負することはせず、生活の隙間に入り込める家電で勝負したことが良かった。
見た目という新たな価値観を白物家電に持ち込んだ
バルミューダ製品の中でも唯一、見た目だけで勝負しているのではないか、と思わせる商品は電気ケトル(BALMUDA The Pot)である。
驚くことにこのポット、なにも目新しい機能がついていない。むしろ象印やティファールのそれと違って、金属製の本体が湯沸かしとともに熱くなるし、倒れた際の安全機能もついていない。
不意に触れてしまうとやけどをしてしまうかも知れないし、倒してしまうと熱湯がそこらにこぼれてしまう。
これを見たとき私は「不便でしかない」とも思った。
それでもこのポットを「ほしい」と思わせるのは、まさに見た目の意味でのデザインが優れているからだろう。ありふれた見た目ではないものを使っている、生活空間に存在している。ある種、家電としてのあり方で売るのをやめた結果がこれなのかも知れない。
こうして家電に見た目という価値観を生み出し付け加えた。
魅力の向き先を機能ではなく体験にした
バルミューダが他社と比べても明らかに巧いと思うところは、体験によって人々を魅了するような見せ方だと考えている。
製品の魅力を機能という見方で探してみると、扇風機なら目玉は2枚羽によるランダム風流を生み出す機能であり、トースターなら蒸気により湿度を維持しながらトーストする機能であろう。
しかしそれでは私達生活者は自分の生活がどのように変わるのかを想像しづらい。つまり機能では売れない。
しかしこれが体験であるとどうだろうか。
静かな自然風を生み出す扇風機は、いわば攻撃的な風から生まれるストレスからの開放を想像させるし、美味しく焼けるトースターからは、安い市販品のパンでも毎朝を十分に満足させられるのだと想像させる。シンプルな見た目の電気ケトルからは、コーヒーを淹れるといった日常の1シーンすらイケてる俺たち/私たちを生み出している。
機能を体験に昇華させることで、人々はイメージをしやすくなる。イメージをしやすくなることは、それが自身に及ぼす影響への想像を容易にする。そして人を魅力することに繋がる。
つまり競争が起こりにくいところでは無理に競争を起こさなかった
ここまでで述べたことを言い換えると、バルミューダの勝負のやり方は競争が起こっていない部分では自らの強みを押し出していくということであり、裏を返すと競争が起きにくいところでは無理に競争を起こさないということであったのだろう。
これが新たな価値観を生み出してきた秘密ではないだろうか。
ではバルミューダはスマホで戦えたのか?
本旨。
先に述べたデザインと体験によってスマホへの価値観の再構築をしてくれると期待されたバルミューダフォンは一体何が良くなかったのか。
前章で述べてきた前提があることで、私の考えが少しは伝わるようになると思う。
私が考えている要因は大きくは2つある。
スマホというプロダクトがバルミューダの得意とする「競争を起こしにくく流動性が低い、見た目に大きくこだわらない、機能による他社との差別化が難しい」といった特徴のカテゴリーではなかった
スマホは白物家電と違い、生活に溶け込んでいるプロダクトであるからこそ、購入後の体験を考える習慣が当たり前のようについていた
それぞれ順に説明する。
スマホはバルミューダの強みを活かせる領域ではなかった
スマホはバルミューダの得意とする領域にハマらなかったのか。
白物家電同様にスマホの購入を想像してみてほしい。
いわゆる”2年縛り”が消えた今ですら、家電同様5〜10年単位で使い続ける人はわずか
(中には毎年の発表会に合わせて買い換える”iPhone信者”がいるくらいである)他人のスマホを目にする機会が多く発生することで生まれる、優越感や羞恥心
見た目(≒メーカー)にこだわる人の存在
機能バリエーションでの製品差こそなけれ、機能の質による製品差は存在する
(これほどきれいな写真が取れる、以前より○時間も長く使えるなど、一見軽微と思われる差でも、個人の嗜好性という個人差を持った重み付けが生じる)
これだけでも分かるように、スマホは買い替えサイクルは短く、個人の嗜好性を体現し、製品同士を比較検討するプロダクトなのである。
バルミューダの得意とする白物家電とは全く異なった性質を保つことが分かるだろう。
今までにない驚きや感動を想像できなかった
白物家電と違い、スマホは購入後の体験を考える習慣が既にある対象であったところまでは良いとする。
ではなぜその習慣が驚きや感動の妨げになってしまったのか。
これにはおそらく、機能アップグレードや機能追加を求めてしまう現代人、それに対し今までにない機能を生み出すでもなく既存機能の再発明をしてしまったバルミューダ、という受け手と送り手のアンマッチな構図故であろう。
まずは受け手である。
人々はスマホが新しくなるたびに機能がよりよくならねばならないと考えてしまっている。これは人間が一度上げた生活水準を容易に下げられないのと同じだ。
カメラであれば写真がよりきれいに撮れるようになるのが当たり前。バッテリーであればスマホがより長く使えるようになるのが当たり前。
また時として新たな機能が追加されてなければならないとも考えてしまっている。
私はiPhoneユーザーであるためiPhoneを例に取るが、
かつての暗証番号が指紋認証に置き換わり、そして顔認証となった。あるいはボケ感のある、まるで一眼レフに単焦点レンズをつけて取ったかのようなポートレート写真が撮れるようになったこともあった。
もしかしたらうどんや高性能耳栓と揶揄されるAirPods、血中酸素を図れるApple Watchでさえ、新たな機能と言えるかも知れない。
つまり受け手としての人々は、スマホに機能向上と新機能を求め、それを短いサイクルで繰り返すうちに、如何に自分の生活の質を向上させるのかを想像できてしまう受け手となってしまった。
さて送り手はどうか。
バルミューダフォンが行った機能向上といえば、
日本人に馴染みのある桁表示ができる電卓アプリ、持ちやすさを重視した曲線的な背面、なんだかイケてる風デザインのアプリ、といったところだろうか。
また「”今までの生活を大きく変えうる”新たな機能が搭載されたか」「”今までに体験したことのない”機能が搭載されたか」と聞かれると、正直それもない。
つまり受け手の想像を超えることも無ければ、予想外なこともなかった。
スマホではないナニカをつくるべきだったのだろう
きっとすべてのメーカーが同じ行き先を向き、どれをとってもまるで同じ規格で作られたモノにみえたのだろう。そしてそこに「違うモノの見方をしようぜ」と投げかけたかったのだろう。
しかし実際は、一見同じモノに思えて、他社にないものを追い求め、今までにない体験をもたらすモノがスマホであり、その枠で戦ってしまったためにバルミューダフォン自体は悪い意味で目立ってしまったのだろう。
かつてのiPhoneが「音楽プレーヤー付き携帯」であり「携帯付き音楽プレーヤー」だと考えられたように、バルミューダフォンも「スマホであり、スマホではないナニカ」と成れれば、もしかしたら違った反応だったのかも知れない。
さいごに
もちろん今回の内容は一個人としての考えを思考の捌け口としてnoteにしたに過ぎず、この考察で間違いないと言うつもりもなければ、唯一であると言うつもりもない。
またこれら以外にも価格設定やプロモーションといった消費者心理に関わる点でも論ずるべき部分はあるだろうが、それらは今回の思考の範疇を超えるため記さない。
このように書いてはしまったものの、iPhone登場時のように人々の思考や常識を変え、新たな概念を持った通信媒体としてのプロダクトを生み出す可能性も確かにあったのだと思う。
今後もバルミューダフォンをアップデートし続けるのか、あるいはバルミューダ”タブレット”と言った具合に領域拡大を続けるのか、はたまた通信領域はこれ以上やらないのか、将来はまったくわからないがバルミューダがどのようになってゆくのかは見ていきたい。