花たちがくれる安らぎ
ガラにもなく、テーブルに花を飾っている。活け方などわからないから、見る人が見たら吹き出してしまうに違いない。どうせ自己満足に過ぎないので、きれいならそれでいい。
この夏は、観葉植物をたくさん枯らしてしまった。かわいそうなことをしたと、いまも斬鬼に堪えない。
テーブルの上の花はもらいものである。「ご自由にお持ち下さい」と達筆な紙片が添えられて、水を張ったバケツにていねいに株分された花たちが中庭に置いてある。ありがたく、いちばん貧相な株を頂戴してきた。
花は春よりも秋のほうが種類は多いと、昔、読んだ覚えがある。その是非はともかく、花を出しているお宅では立て続けに何種かの花が咲いたようで、慌ただしく中庭を賑わせた。最初のころにいただいてきた花はしおれてきた。
花にはテーブルの上に置いて、枯れてしまうまでつきあってもらうつもりだ。とりたて花が好きだというわけではない。毎朝の散歩のとき、目にして、きれだと思うと、つい、カメラを向けて写している。しかし、本物の存在感にはおよばない。ただ、生きものが身近にいてくれるだけで心が和む。
殺風景な部屋に、中庭でもらった花をこっそり飾るようになったのは昨年からである。3月、ずっといっしょに暮らしてきた12歳の犬と永別し、生きているものがほしくて中庭に出された花をもらうようになった。感傷的だが切実だった。
まさか、花を相手として、犬のように話しかけたりはしていないが、瞬刻であれ、目に入るだけで癒される。花を飾る人々の気持ちがわかる気もする。静かな、安らぎのひとときを、花たちはくれる。
だが、いい年をした人間が求める安らぎではない。ましてやぼくは男である。面妖でしかない。それでも、花は愛でてくれる人を選ばない。わずかな水で楚々として咲く。かくして、大きな声ではいえないが、今年もひそかに秋の安らぎと感動を味わっている。