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太平洋戦争終戦に向けての動きについて複数のドキュメンタリーを基に書いてみる(2024/8/19 #82)

ここ1週間、夏カゼをひいて、元々遠出の予定が入ってなかったこともあるけれど、おとなしく過ごす時間が多かった。

そのなかで、時節柄、太平洋戦争に関わるコンテンツも多く、それらのインプットもしてみたところ、様々な出来事は紙一重で起こったように思われました。

当然明るい話では無いのですが、自分の思考の整理のために書いてみます。


1945年6月には日本の中枢では終戦の意志が示されていた

まず1つ目はETV特集「昭和天皇 秘められた終戦工作」という番組から。

太平洋戦争終結にあたっては昭和天皇の「ご聖断」があった、ということは何となく知っていたものの、そこに至るまで何があったのかというのは説明できるほど詳しくなかった。

この番組では、内大臣(※)木戸幸一や、後の東大総長となる南原繁などが終戦に向けてどのような動きを取ったのかを当時の関係者のメモなどをもとに説明しています。

(※内大臣=天皇に直接仕え、天皇の個人的な顧問として、天皇に対して政治的、外交的な助言を行う役目を担った)

南原は仲間の教授らと共に、終戦に向けた方策を検討し、木戸の元を度々訪れていたとされます。

当時の日本は、軍事は陸・海軍大臣、外交は外務大臣が所管しており、各々越権することができない状態とされ、木戸らは、この体制では戦争終結の判断は難しく、それらを統括する立場の昭和天皇が戦争終結の判断をすべきと考えました。

木戸が1945年6月「終戦対策原案」をまとめると、天皇も「直ちに着手すべし」という反応を示し、さらに6月22日には首相、陸・海軍大臣などが出席する「最高戦争指導会議」にて終戦に向けた検討を指示したとされます。

それでも実際に終戦を迎えるのは8月15日で、2か月近く経過した後となり、2回の原爆投下など、この時期に多くの犠牲者を出すこととなってしまいます。

元々原爆は日本に使うことを想定して作られていなかった

ここで別の番組もご紹介。BS世界のドキュメンタリー「“原爆の父” オッペンハイマー」。日本に投下された原爆の開発者、オッペンハイマーについての番組。

元々原爆の原理は、ナチス統治下のドイツの研究者によって発見され、その報がもたらされたアメリカでは「ナチス対策」として開発が始まったものでした。

ユダヤ人であったオッペンハイマーもまた、ナチスが原爆を保有したらとんでもないことになると開発に邁進。ほかの科学者を計画に呼び込む際に「これから先の戦争を止められるかもしれない」と原爆開発の意義を説いていたそうです。

アメリカは原爆開発に20億ドルの予算を投じ1942年に開発をはじめ、1945年7月のトリニティ実験で開発の成功が確認されました。

しかしこの時、元々の目的だった「ナチス対策」は、同年4月にドイツは降伏しており、必要無くなっていました。

結果的に、この時も戦争を継続していた日本に原爆が投下されることになるわけですから、この辺りが紙一重と思ったポイント1つ目です。

8月までの2か月の間に何があったのか

ここでまたETV特集に話を戻します。
1945年6月には終戦の方針に傾いていた日本。それでも実際に終戦まで2か月かかった経緯について触れられています。

終戦にあたっては、米英と交渉するか、ソ連に仲介を依頼するかで意見が分かれていました。

先述の南原らは、米英との直接交渉を主張しています。
アメリカではトルーマン大統領など「無条件降伏を主張する陣営(ハードピース)」、スティムソン国務長官など「天皇制維持を主張する陣営(ソフトピース)」とで意見が割れていたことを認識していたからです。

ソフトピースの1人、国務次官のグルーは、日本語によるラジオ放送もアメリカから流していたそうで、番組ではこちらも紹介されています。
それによれば「無条件降伏には、奴隷化は求めない、日本人の全滅も意味しない」といった内容が語られていました。

番組では、木戸幸一の甥である和田昭允氏(存命で、御年95歳)が、ラジオを自作しアメリカからの放送を聴いていた(当時は市販のラジオでは外国の放送は入らないようになっていたとか)ということを回顧しています。当時は高校生位でしょうか。
木戸は、そんな和田少年に「あちらは何と言っているのかい?」と尋ねてきたそうです。

しかしながら政府は、当時は中立関係にあったソ連に仲介を依頼。
が、すでに対日参戦方針を決定していたソ連。
軍備を極東に輸送している間、返答を保留します。

そうこうしているうちに、1945年7月、連合国側はポツダムで終戦後の対応について協議を開始。

ポツダム宣言の草案では「天皇制を維持」を明言する文言も入っていたとされますが、この協議の最中、トルーマンに「トリニティ実験成功」の報がもたらされる。

これにより戦後のソ連対策も見据え、強硬な態度になったトルーマン。
ポツダム宣言を出すより前に、グアムの部隊に原爆投下の指示を出したとされます。
また、草案に入っていた「天皇制維持」の文言も削除したうえで宣言を出します。

ポツダム宣言にソ連が署名していなかったことを見た日本政府は、ソ連の仲介による終戦の可能性がまだあると見ていたのか、宣言に対しては「ノーコメント」と対応。
これが「黙殺」と訳され、原爆投下の大義名分にもなったとされます。
(でも先述の通り、そもそも宣言前から投下の準備を急いでいた・・・)

こうして1945年8月、広島、長崎と相次いで原爆が投下され、またその前後では全国の地方都市への空襲が続けられ、多数の人命が失われます。

先述の「世界のドキュメンタリー」によればアメリカでも原爆を都市に投下すべきか否かについて議論が出ていたそうです。

都市ではなく、例えば東京湾に落とすことで、多くの犠牲者は出さずに威力を示せるのではないかとの意見もあったとか。

しかしオッペンハイマー自身が、最も効果を発揮できる条件を軍人にアドバイスするほどで、結局都市に投下されてしまいます。

その原爆投下と相次いでさらにはソ連が対日参戦。
こうした事態に見舞われ、ポツダム宣言受諾のご聖断がなされるに至りました。

何かを書き残しておくことの意義について

元々終戦の意向が国の中枢で示されていた6月から2ヶ月。

普通に暮らしていれば(有事であればなおさらか)あっというに過ぎる期間に起きた出来事の結果、より大きな被害につながったというのが紙一重と思ったポイント2つ目でした。

ETV特集の最後は、終戦工作の存在を決して公にはしなかったという南原が弟子に語った「結局8月15日までかかってしまい、我々の活動は意味が無かった」といった趣旨の言葉で締めくくられています。

ただ番組を観れば、南原のインプットが木戸の「終戦対策原案」に反映されたと思われ(実際のところは分かりませんが)、意味が無かった訳では無いと感じています。

ということで、複数のドキュメンタリー番組を行き来しつつ、太平洋戦争終結に向けた動きの一側面について書いてみました。

最後に本題とは関係無いところで、感じたことを1つ。
この手の番組を観ていると、毎年のように「新たに分かった事実」というのが出てきます。

それは何故なのか?
戦後80年近く経過し、当時の関係者(親族も含む)がこの世を去り、遺品の中から今回の番組で出てきたようなメモなどが発掘されるから、ではないでしょうか。

しかも、当時はこういった経緯を東京裁判以外では公にされる機会も無く、皆が墓場まで持っていこうとしていた。それが文字通り墓場まで行って出てくるのではないかと。

それを後世の人が読み解き、何かの示唆を得ることにつながる。

書いた人は、短期記憶のためにとっておいたメモ(それが書かれたページは1枚の紙。まさに紙一重・・・)かもしれず、まさか80年後に掘り起こされるとは思ってもみなかったものも多いでしょう。

改めて「何かを書き残しておく」ことの重要さを感じた次第です。

今回は以上です。








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ひろさと
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