見出し画像

函館散歩で見たものを歴史順に書いてみた

先月「函館少年刑務所スタディツアー」に参加するため函館に行ったのですが、

散歩好きの私としては、せっかく行くのだから前後の時間で色々行ってみよう、ということで周辺を散策しています。

振り返ってみると、訪れた先々が、イイ感じに歴史的な時期がずれていると感じたので「訪問順」ではなく「そのスポットの時代順」で書いてみます。


函館発展の礎を築いた人物とは?

まずはこちら「箱館高田屋嘉兵衛資料館」。

二棟並んだ倉庫の中が展示室になっています

函館は、1800年頃までは人口わずか3千人の寒村だったそうで、当時はそこより西にあるいまでいう松前町に、蝦夷地(現在の北海道)統治の拠点がありました(統治といっても、道南の一部と、各地の港に影響力を持っていただけとされる)。

蝦夷地のニシン等を上方に持ち帰り、綿花の肥料用として販売し財を成した「北前船」による交易が盛んだった時代。

淡路島出身の高田屋嘉兵衛は、松前藩の統治方法に疑問を抱いたり、幕府の役人との交流を持つなどして、松前城下ではなく、人口の少なかった箱館(当時の表記)に貿易の拠点を築き始めました。

これが現在に続く函館発展の基礎となったとされています。

この建物自体は「高田屋造船所」の跡地にコンブ倉庫として明治36年(1903年)に作られたものだとか。

その中に高田屋嘉兵衛にゆかりのある展示物が並べられています(残念ながら写真撮影NG)

ちょうどここに来る前から、『菜の花の沖』(司馬遼太郎の小説。高田屋嘉兵衛が主人公)を読んでいて(全6巻とボリューミーなため、なんなら今も読み途中w)、

そこには北前船の描写が出てくるのですが、文字だとわかりにくい。

そんな中、資料館に嘉兵衛の船の模型が展示されていたので「こんな巨大そうに見える舵(ミニチュアですが)を、人が動かしてたのか・・・」と具体的にイメージすることができました。

嘉兵衛の北前船
悦という漢字の上に見える出っ張りが舵
これを船上の舵柄で操作する
(画像は資料館のパンフより引用)

箱館奉行所で、ちょっとしたズレの影響の大きさを知る

続いてはこちら「箱館奉行所」。

嘉兵衛が活動していた時代(1802年~)に、幕府が蝦夷地を直轄するため奉行所が置かれたものの、幕府直轄の統治が難航し閉じられます(1821年)。

ところがペリー来航をキッカケに箱館を開港。1854年再び奉行所が開かれたのでした。

この50年前には人口3千人程度の寒村だったのが、高田屋嘉兵衛が礎を築き、北前船の交易で発展を遂げてきた結果、アメリカも注目する港になったのかと思うと、その発展の勢いが物凄いことだったのだと感じます。

しかしその奉行所は港湾から近く、外国からの防備上不利なため、内陸の地に移されます。そしてそれを守る外堀として幕府の命でつくられたのが、かの有名な「五稜郭」なのです。

五稜郭タワーから撮影

ところがどっこい、この五稜郭は外国からの攻撃を守るために使われず、明治維新によって江戸を追われた旧幕府軍が立てこもり「箱館戦争」の舞台の1つとなります。

奉行所の建物は、箱館戦争後1871年に解体されますが、2010年に一部建物が再建されたものです。

ところで五稜郭タワー内にある展示を見ると、旧幕府軍の榎本武揚らは「仕事を失った多くの旧幕臣の生活を安定させるために蝦夷地を開拓し、同時に北辺の防備にあたらせるため」に蝦夷地にやってきたそうで、その考えをしたためた嘆願書を持参していたそうです。

しかし、蝦夷地上陸後、新政府側の知事はいち早く青森へ逃げてしまったため嘆願書を渡す機会を逃し、戦争に突入してしまいます。

榎本武揚は戦後、投獄されたのち釈放され、開拓使として活躍したことを見ると、この嘆願書の考え方は新政府の方針に沿っていたかもしれません。

ちょっとしたすれ違いで、結果が大きく異なるあたり、歴史の面白さを感じるとともに、現代に生きる自分の行動も、ちょっとした違いが結果の大きな違いに繋がるのだろうと感じます。

西洋情緒を感じられるエリア

時代は明治となり、領事館や教会など、西洋の趣のある建物が増えていきます。

それが残るのが元町エリア!

沢山の観光客の方が、この向きの写真を撮っていました!

が、このあたりほとんど写真を撮らず通り過ぎてしまったので、坂の上から町を見下ろした一枚と、西洋っぽい雰囲気のレンガ倉庫の写真を貼っておきます(雑ww)

金森レンガ倉庫のあたり

青函連絡船で、物流の要衝として栄える

歴史スポット散歩、最後はこちら!

こちらは青函連絡船「摩周丸」を改装し、青函連絡船にまつわる資料を展示している場所。

青函連絡船は1908年(明治41年)に就航開始。
北海道各地から鉄道で運ばれた荷物を、本州青森へ輸送する機能を担います(そして青森から再び鉄道で全国各地へ)。

1925年(大正14年)には、輸送力増強のため、荷物を貨車に積んだまま、貨車を船に乗せる「車両航送」という方法が開発されます。これにより北海道の水産物が関東・北陸まで運ばれ、当時流通革命と呼ばれたそうです。

(100年後の今、鮮魚を新幹線の空きスペースを活用し、その日北海道で獲れたものを、即日関東まで届けられるようになっており、流通も日々進化してますね)

当時の様子。画面右上の線路が、真ん中上あたりの船につながっている

個人的にツボだったのが、当時「蒸気タービン船」を日本で初めて搭載したのが青函連絡船だったらしく、函館では「タービン」という言葉が「新式で速い」という意味として流行し、「タービン洋服店」や「タービン靴店」というお店も現れた、という説明文。

現代から見ると「タービン」を屋号にするとはなかなか信じがたいものの、いまわれわれが「AI」など新しいとあやかって使っているものを、後世の人が見るとクスっと笑っているかもしれず、まあ言葉の変遷なんてそんなもんなのだなあと思います。

ともかく、青函連絡船の輸送力強化によってヒト・モノの流れの要衝となった函館は、200年前には人口3千人程度だったのに、1980年には34万人と100倍になっていったのです!!

五稜郭タワーから眺める函館市街
(360度市街が広がってます)

しかしながら、青函連絡船の海難事故も発生し、より安全な輸送方法として「青函トンネル」が開発され、1988年に連絡船は終航となり、今となっては北海道新幹線も函館市街地を通らないルートとして確立されてしまいました。

このように見ると国内政治、外交、技術の変遷などなど様々な要素が絡んでの栄枯盛衰を、函館から感じることができます。

ということで今回は、函館で訪れた場所を「そのスポットの時代順」に並べかえて振り返ってみました。

こうしてみると、訪れた先が時系列でつながることもあり、面倒くささもありますが、面白くもありますね。

どなたかの参考になれば幸いです!



いいなと思ったら応援しよう!

ひろさと
もしサポートを頂けましたら、インプット(書籍、旅など)の原資として活用させていただきます!