見出し画像

記憶の配当を得るために、どんどん書いていこう (2024/10/22 #98)

先日狂犬ツアーで訪問した長門湯本。
その前後に訪れたところも含めて「なんだかつながるなあ」と思うことが色々ありました。

ちょうど1か月ほど前に『DIE WITH ZERO』を読んで考えた話を書いており、その中で「記憶の配当」というキーワードが出てくるのですが、

金を払って得られるのは、その経験だけではない。その経験が残りの人生でもたらす喜び、つまり記憶の配当も含まれているのだ

出典:DIE With Zero

さっそく記憶の配当をもらったのではないか、そのように思えました。


神社・仏閣への興味が恩湯プレミアツアーを一層面白くした

まずは恩湯(おんとう)再建プロジェクトについて学ぶプレミアツアー。

このプログラムで恩湯が「神様から授けられた湯」というキーワードが出てきて、なぜか仏様だけでなく神様もまつられているお寺・大寧寺にも足を運びました。

大寧寺の本堂

大寧寺の見学が終わった後も、講師である大谷さん(大谷山荘社長)をつかまえて「そもそも何故「神授の湯」のストーリーに目をつけたのか?」と質問してみると・・・

「知り合いの哲学者の先生に「古事記くらい読んどかなきゃダメだ」と言われ、仕事の合間に読み進めた結果、「神授の湯」の話はいけるのかもと思った」とのこと。

ちょうど今年、人生ではじめてお寺で坐禅を組む経験をしたり、神社に興味を持って調べたりしていたので、神様・仏様が出てくるこのプログラムの説明をより一層面白く聴くことが出来ました。

大谷さんの話で古事記にも関心を持ったので、とりあえず電子書籍を購入~(まだちっとも読んでないw)。

大寧寺にて、とある大名の栄枯盛衰がつながった!

この大寧寺は戦国武将・大内義隆が、家臣だった陶晴賢(すえはるかた)の謀反を受け、追い詰められた後自害した場所でもありました。

湯本の北にある仙崎から船で脱出を試みたものの、天候が悪く断念し、この地に戻ってきたそうです。

大内家主従の墓 由緒書き(手前)
奥の方に見えているのがお墓たち

ここで大内氏は滅亡ということになるのですが、今年の冬に行ってきた山口市で室町時代に栄えた「大内文化」を見に行ってました。(五重の塔は改修中でシートに覆われてましたがw)

瑠璃光寺の五重塔(改修中)

そんな大内家の栄枯盛衰を感じさせる場所と場所がつながったのです!

大寧寺についての予習を全くしていなかった私は、大谷さんに連れてこられるまで全く大内家滅亡の地とは知らなかったので驚きでした。

(ついでにいえば、陶晴賢が毛利家に敗れた厳島合戦の舞台たる宮島にも今年行っており、いやー色々つながります)

仙崎の金子みすゞ記念館へ

狂犬ツアー3日目午後は、狂犬ツアーでご一緒したヨネヤマさんの車に乗せていただき仙崎へ。

↓ヨネヤマさんのツアーレポートはこちら

--
ここでいきなり余談になりますが実はツアーの最終日、履いていた靴のソールがはがれていることが発覚・・・。
仙崎に行く前にヨネヤマさんに長門市街にある「東京靴流通センター」へ運んでいただき、替えの靴を購入したのでした・・・
山口県で「東京靴流通センター」のお世話になるとは思ってもみなかったことです。
--

「道の駅センザキッチン」で昼食をとり、ヨネヤマさんに別れを告げた後は「金子みすゞ記念館」へ足を運びます。

センザキッチンから眺める海

みすゞ通りと呼ばれる通りは、昔は商店街として大賑わいだったようですが、今は住宅メイン。通りには金子みすゞの作品をあしらった掲示物が点在しています。

みすず通り
こんな感じで家々にみすゞ作品をあしらった
展示がされてます
こちらは『大漁』。後ほど出てきます

金子みすゞと言えば、東日本大震災後のACのCMで流れた「こだまでしょうか、いいえ誰でも」のほか、「みんなちがって、みんないい」といったフレーズが有名ではないでしょうか。

正直私は、そういったいくつかの作品を知っている位で、金子みすゞという人がどういう経緯で注目を集めたのか知ることもありませんでしたが、こちらでその経緯を知ることになります。

--
金子みすゞは若くして詩人としての才能を発揮するも、1930年に26歳で亡くなってしまうと、それ以降忘れられた存在となってしまったそうです。

その後1966年、矢崎節夫という大学生が岩波文庫『日本童謡集』に掲載されていた『大漁』という作品に感動。
(先ほど出てきた、みすゞ通りに掲示されてたものですね)

もっと読みたいという一心から金子みすゞについて情報を集めはじめ、16年経過し、みすゞの実弟とつながることができ、彼の持っていたみすゞの遺稿に出会うことができたのでした。
--

この経緯が書かれた新聞記事が本館入るとすぐ展示されており、それだけ世に出てなかった時期があったのか・・・と非常に印象深いものがありました。ちなみにこの矢崎さんが「金子みすゞ記念館」の館長です。

館内は撮影禁止なので写真はありませんが、金子みすゞの幼少期から亡くなるまでの間に過ごした場所・時代背景についての解説や、時代ごとのみすゞの作品、関連する品々が展示されており、決して広くない空間ながらも見ごたえがありました。

(気になった解説は音声メモで読み上げて、スマホにメモしてみました。周りのお客さんがいるタイミングだと独り言言ってる感じなので、その辺は配慮して)

「金子みすゞ」と「やなせたかし」がつながった!

で、今回のテーマである「記憶の配当」。ここで何がつながったかというと・・・

この日企画展示室で開かれていたのが「やなせたかしが受けとめたみすゞの感性」という企画展(ちょうど先日17日で終わってしまったようです)

ここで2人にはいくつか共通点があると展示されています。
①幼い頃に中国で父親を亡くしている

②金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」(みんなちがって、みんないい)と、やなせたかしの「手のひらを太陽に」はいずれも作られた当初は知られていなかったが、後になって有名に。

といった具合です。

やなせたかしについては、今年見たドキュメンタリー番組をキッカケに伝記を読み、記事を書いていました。
まさかここでつながってくるとは!

記憶の配当を、より強くするには「書く」のが大事

ということで、神社仏閣・大内家・やなせたかしと、3つの記憶が、今回の旅先で出会ったものと結合して、私にとっての「記憶の配当」を与えてくれた気がします。

そして3つの記憶とも、書いていたからこそ、思い出すことができたのではないかと感じます。

例えば山口市で観たものを書き残してなかったら、大寧寺で「山口市で見たな」と、結びついたかは不明です。

そして書けば書くほど、記憶のストックができていき、より新たな配当をもたらしてくれる。

こう考えると資産をため込んで、経験への交換をしていかないのは非常に勿体ないことだと感じますね。

次はどのような記憶と、新たな経験が結びつくか楽しみです。

いいなと思ったら応援しよう!

ひろさと
もしサポートを頂けましたら、インプット(書籍、旅など)の原資として活用させていただきます!