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30年目のあの日の朝がやってくる

#107

1995年1月17日午前5時46分52秒。
忘れることはないが、思い起こすこともない。
日々の生活に追われていると、
震災の記憶は少しずつ希薄になる。
阪神・淡路活断層に「割れ残り」があり、
30年以内に M7.9 クラスの大地震が
再び起きる可能性が高いといわれている。
僕の実家は神戸の須磨にあり、
オリックスの本拠地だった GS 神戸は
球場で試合中に打ち上げられる花火が
自宅のベランダから楽しめる距離にある。
あの日の朝、本棚から本が崩れ落ち、
三畳の僕の部屋は本の山で埋もれた。
キッチンの食器棚の茶碗は粉々に砕け、
粕汁の鍋がリバウンドして床を白く染めた。
枕もとに置いていたメガネのレンズは
片方が抜けて部屋の隅に転がっていた。
あらゆるモノが想像を超えて暴れ回り、
靴を履いて暗闇の中で夜明けを待った。
30年前のあの日の記憶は断片的だ。
夜が明けて電気が灯りテレビが映し出す
倒壊した阪神高速の惨状に体が震えた。

不自由な生活がしばらく続いたが、
生活は大きく変わることはなかったから
被災者ではあるけれど被災者ではない。
そんな微妙な立場に戸惑いながら過ごした。
勤めていた大阪市内の会社に出勤できず、
1週間後、いつもは華やかなクルーズ船が
神戸ハーバーランドから大阪までの足となり、
難民を乗せたような難破船に変わっていた。
ブルーシートを床に敷き詰めた船内は
リュックを背負った人であふれていた。
徒歩と電車とバスを乗り継ぎ4時間かけて
大阪・梅田のオフィス街にたどり着いたとき、
いつもと変わらない都会の日常に愕然とした。
5時間前の0時46分だったら
本棚の下敷きになっていたかもしれない。
3時間後の8時46分だったら
阪急三宮駅の瓦礫の下にいたかもしれない。
あの時間でなかったから生きている。
あの場所でなかったから生きている。
1月1日を能登半島地震の追悼で迎え続ける
未来に何かを覚悟しなければならない。

今週の虎党の呟き😔

生死を分けた紙一重の瞬間は偶然ではない。



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