第12回IAPD-JAPAN宗教塾 聴講メモ
第12回IAPD-JAPAN宗教塾 聴講メモ
第12回IAPD-JAPAN宗教塾(パネルディスカッション)
2024年6月17日
-パネリスト:東和空住職、フマユン・ムガール氏、ミカエル御國新一牧師、酒生文弥住職
-主題:「信教の自由について」
ー聴講メモ(個人的なメモですので正確ではない部分もありますのでご容赦ください)ー
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信教の自由という言葉は、お寺で使うことはない、法律用語のように感じられる
信教の自由は個人のもの
自由という言葉を宗教視点から説明することが必要
仏教は、明治維新前は無かった、明治維新前は仏道であった。
信教の自由を使う先をどう考えるのか
使徒行伝第5章、マタイによる福音書 第27章からの引用
神様は信じるもの
お祈りする場所は選ばない
どこでもお祈りすることは出来る
日本は信仰の自由はあるが言論の自由がない
サイレントマジョリティーになってはいけない
心の自由、精神の自由
家庭連合は宗教だと思われないようにメディアがミスリードしている。
宗教であることをもっと証すべき
政治的な関わりからの信仰の自由はおかしなことになっている
法律用語が飛び交っている。
宗教の言葉で語る場をもっと作っていく必要がある
すべての自由の根源は「魂の自由」です。そして無論「いのちの自由」です。そうした根源を明確にして行きましょう。
聖歌を歌いながらの平和行進
家庭を大切にすることを思い起こすことが必要
いろんな思想がごちゃ混ぜになっている時代にあって
ブレインウォッシングしなければならない時代になってきている
宗教者にとっては、信教の自由ということは関心事であるものの一般の人には関心事ではなく法律用語には無関心
仏教は、長男がお寺を継ぐという流れが、昔から続いているが、地方では次男が継ぐケースもある柔軟に対応してる
各地域や地方毎に、そのエリアでの宗教があり、そこで生活するにあたっては、それを学ぶ必要が出てくる
その学びことが宗教といえるのかもしれない。
日本人は聞く事が苦手、真理もあえば、教えもあり、その部分を学ぶことは大切である。
ひとりひとりの心に寄り添うものである必要がある。
二世の問題は、日本独特な問題になっている。
イスラムでは、学校でもキリスト教の人もいればイスラムもいる自分の宗教、信仰にしっかりとした気持ちがあるのでブレることはない。
また、インドなどでは、もっと多くの宗教があり、共同生活を送っている。何の問題もない、日本人は多様性について学び直すべき。
二世問題は、メディアによって作られた言葉でしかない、正しく判断していく必要がある
ーーーー以上ーーーー
聴講して、感じたことは、やはり、言葉の大切さと、知ってもらうことの大切さについてだった。
言葉の意味やイメージの違い、言葉の定義の違いは、誤解を生み分断や不信へと繋がっていく、本来の意味とは異なるイメージや意味を持って使われてしまっている言葉も多い。法律用語なのに、一般用語の様に使われていたり、法律用語としての意味とは少しミスリードされた意味でメディアが拡散していたり、そこから生まれた誤解は、なかなか解消するのが難しい事であったりする。
聖書のバベルの塔のお話でよく出てくる言葉を異なるものとされた事により、分断されてしまった人々の話は、現代社会にも通じるものだと言えるだろう。
宗教とは、信仰とは、自由とは、神とは、真理とは、それらの言葉に共通の認識がなければ、会話してもすれ違うだけに終わってしまうという事になると、知っておく事は大切となる。
少しづつであったとしても、伝えていく努力は大切であるということだろう。想いを伝え、真実の姿をみせていく中で、何が本当なのかを知ってもらうことの重要さを認識した上で、ひとりひとりが自分の出来る事を行っていく事が大切なのだということだろう。
両親のもとに生まれたなら、まず、両親から学ぶのは当たり前な事、そこには、両親の信仰があれば、その信仰を自然に学ぶ事になる。それは、何ら不思議なことではなく、ごく普通のことでしかない。その事をおかしいと言う事自体が間違いであることは自明な事なのに、メディアのミスリードで誤った認識を多くの国民が持ってしまっているのは哀しいことだと言えるだろう。
日本人の信仰は、神道、仏道であったというのは、間違えないだろう。日本人は、道という言葉で、歩みや人生や学びを表現する民族であると思う。それは、人生そのものが、生きる道であり、そこに寄り添い共にあるべきものとしての知恵であり指針であり行動原理であるのが、◯◯道であるからなのだろう。
残念なことに、西洋文化が流入してきた後、戦後の教育の失敗により、日本人の持っていた道の心が失われていった事により、日本社会は、悪化の方向に流れてしまってきた感じがしています。宗教や信仰に関する事も、悪化の方向に流れてしまっていき、オウム事件により、その悪化は最大になってしまい今日へと至っている気がしました。その悪い流れを止めるためにも、宗教者や、信仰者は、伝えていく事をづつけていく事が必要なのだと思います。
それぞれの立場、それぞれの信仰、それぞれの想いを、ただ伝えていく事、そこに強制も強要もなく自由に見聞きする環境だけがあること、ヘイト無く、受容と尊厳を持って互いが接する中で、語りあう事が、大事であると言えるでしょう。