「聞く」ちからを神学する(その1)
『聞く技術 聞いてもらう技術』をめぐる神学的探究:まえがき
東畑開人さんの『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書、2022年)を読みました。たいへん豊かな内容で、あらためて教えられることの多い本でした。
聞くことについて、私が本格的に考えるようになったのは25年前、アメリカの神学校で平和学を学んだ時からのことです。紛争解決やメディエーション、修復的正義など、対人間の対立や諍いに対応するためのスキルを学ぶ中で、「能動的な聴き方」をくり返し練習しました。今までとは違った仕方で人の話を聞くことができるようになっただけでなく、留学生活で経験した悩みや困りごとを聞いてもらう経験にも恵まれました。帰国して札幌に住んでからは、教わった聞く技術を日本の文化において活用する方法を模索してきました。
そういうわけで、聞く技術については日本語の文献もそれなりにカバーしてきました。その内容は概ねアメリカで学んだことに沿っていましたから、よく言えば学びの補強、悪く言えば学びの焼き直し、といった感じでした。『聞く技術…』はその点で、以前に読んだ本とは趣を異にする部分がいくつもありました。論点はあくまでもシンプルで覚えやすく、それでいて中身には深みがあり、時間をかけて思いめぐらすうちにどんどんと発想が膨らむような、そんな読後感がありました。読み始めてまもなく、この本は読みやすいが急いで読んではいけない本だ、と感じました。私にそう思わせたのが、まえがきの次の一節です。
私も、東畑さんと同様、浅はかにも「聴く」方がより難しく、より能動的で、より重要だと思い込んでいました。そうじゃない、ということをさらっと言われて、ハッとしたのです。そして瞬時に、そうだよな、とも思いました。つまり、私自身、アメリカ流の紛争解決に割り切れないものを感じてきたことを、気づかされたのです。
気づきのきっかけとなったのは、サークル・プロセスとの出会いでした。ピースメイキング・サークルとも呼ばれるこの手法を、2011年から仲間と始めた平和教育のプログラムに取り入れて、東アジアの人たちと模索をくり返してきました。輪になって座り、トーキングピースを手渡しながら、それを持つ人だけが話す、というシンプルな形で行われる語りの実践は、ファシリテーターが能動的に聴いてパラフレーズするというメディエーションとは非常に異なっていました。メディエーションの「聴く」は能動的で、サークルの「聞く」は受動的。サークル・プロセスでは、特定の参加者に語りかけるのではなく、輪の真ん中に自分の言葉を置くようにして語ります。語りを受けるかどうかは、それを聞いた人が自由に選びます。一見、語りっぱなし/聞きっぱなしのようなこのやり取りが、「聞く」という難行を可能にしていることに気づかされたのです。
教会でも「聴く」ことが尊ばれます。牧会カウンセリングへの関心が高まったこともあり、教会で「傾聴」のスキルを学んだり、教会外で「傾聴」ボランティアを手がける信徒も珍しくないようです。教会生活においても、ただ「聞く」だけなら誰でもできると思い込み、それゆえ「聞く」ことを当然視して、その価値を認め損なってきたのではないか、という気がします。それゆえ、東畑さんが指摘するとおり、語られていることを真に受けるよりも、言葉の真意を詮索したり忖度したりすることに血道をあげてきたように思われるのです。
神学校で紛争解決を学んだときの中心となる聖書の箇所は、マタイ福音書18章、いわゆる「つなぐこと・解くこと」の教えでした。その冒頭で、イエスは信徒間の対立に向き合う最初のステップとして、「2人だけの間で」直接対話するよう教えています。そして、現実には直接向き合うことを避け、仲間どうしのゴシップが対立をエスカレートさせるので、それを防がなければならない、というふうに話が進んでいくわけです。陰口や噂話が対立を深めることは確かにあります。ただ、直接対面さえすればいいのかといえば、そう単純ではないでしょう。そこで相手の言い分を言われたとおりに「聞く」のか、それとも相手への不安や不信を覚えたまま、真意を暴き出そうとして「聴く」のか。この違いは決して小さくないように思います。
「聞く」よりも「聴く」ことが容易に思われる背景には、直接的な意思疎通を忌避しがちな日本の文化的性質があるのかもしれません。その傾向は、教会において「聴く」ことが尊ばれ、誰もそのことを疑問に思わない現状にも見てとれます。親身に「聴く」ことに努めるあまり、相手の胸の内を忖度することに汲々として、やっとの思いで言葉になった思いを「聞く」ことがおろそかになっていないか、自分にとっては不信仰や冒涜としか思えない言葉に、「聞く」スイッチを切り耳をふさいではいないか、ふり返ってみる必要を感じます。