エンジニアになりたい理由 上

今、フロントエンドエンジニアを目指して、就職活動をしている。
やはり就活は疲れる。それが僕が思いつくかぎりの最初の感想だ。

自己分析、志望理由、これからどうなりたいか。

正直そんなものを完璧にわかってしまったら、生きるのなんて超簡単だと思う。

わからないから、生きづらい。
わからないから、疲れる。

でも面接でこんなこと言ったら、お見送りになるに決まっているし、ましてや書類選考の時点で落とされる。

だから文章を書くことで、ほんの少しでもそれらの助けになるのなら書かないはずがない。
結局僕らは与えられたフィールドで戦うしかないのだ。だからやるしかない。それが嫌なら起業でもして構造自体を変えていけば良い。だけどそれに命をかけられる自信など到底ないから僕はこのフィールドで戦うしかない。

あー、誰かこの構造変えてくれないかな。


きっかけ


学生時代、二度、プログラミングを勉強してみようと思い立ったことがある。
一度目は、Pythonを勉強していた友人に誘われて。
二度目は、間接的にだが、姉に勧められて。

大学2年生のときだったであろうか、プログラミングスクールでPythonを勉強していたトミーという友人に

「プログラミングを理解することは今後間違いなく重要だからお前も勉強した方が良い」と言われた。

そいつは卒業したスクールで講師業もしていたから、こいつに習えば簡単じゃん!と安直な考えもあり、とりあえず勉強してみることにした。

大学入学時に購入したPCを持っていたが、トミーがプログラミングをやるならMac一択でしょ!と言うので新宿にあるApple Storeに二人で最新のMacを買いに行った。

余談だがApple Storeで働く人は、容姿が端麗な人が多い。

この時担当してくれたお姉さんをナンパし、連絡先を教えたが、おかしなことに5年以上経った今でも連絡は来ていない。一昔前ならメール受信問い合わせをして、確認してみることができたが、この時はもうすでにスマホの時代。ガラケーなんて宇宙の彼方に消えて行っていた。

Macの購入に関しては、トミーがそのお姉さんにあーだこーだと仕様について話してくれた。
「キーボードはUSキーボードで!」とトミーが言っていた。
いいよね?
とトミーが聞いてくるので何が何だかわかっていなかったが、これもまた承諾した。もうほぼ全てトミーが決めていた。それから今まで僕は一丁前にUSキーボードしか触っていない。

お金なんてなかったから、ローンを組んで購入した。学割が効いて、金利は0。これにはだいぶ助けられたが、大学生からしたらなかなかにでかい買い物だったと思う。毎月の支払いには毎度苦しめられた記憶がある。

その日にMacは手に入れられたので、カフェに入り、トミーに色々とセットアップしてもらった。
「エディタはこれね。VScode。」
ん〜何を言っているのかよくわからない。
それが最初に思ったことだった。
その後、僕らは帰路についた。
でも頭の中は、「いやいや、トミー、ちょっと待ってくれよ。ここから俺は何をしたら良いんだよ!」だった。
確かトミーにこの質問をした気がするけど、トミーの返答は覚えていない。

それからトミーに何から学べば良いかを聞いたりしながらHTMLとCSSについて学んでみることにした。どうやらWebサイトを作るために必要な技術らしい。
結論から申し上げるが、3日も経たずにやめた。何が何だかよくわからず、飽きてしまった。
残ったのは最新型のUSキーボードのMacと、二年間に渡る毎月約8,000円の支払いだけだった。

僕はトミーにふつふつと殺意が湧いた。

幼い頃から海外に憧れて育った。
恐らく入り口はキングカズこと三浦和良。18歳になったらカズみたいにブラジルに行く!と豪語していた。
僕は早速その夢を周囲に公言し始めた。大人に、そして同級生たちに。

大人たちはよく「そりゃ楽しみだ」と僕の夢を応援してくれた。しかし、意外にも同級生は残酷で「ブラジルよりヨーロッパに行った方がいい」と的確なアドバイスをしてくれた。その日からブラジルに行く夢は諦め、ヨーロッパに行くことが新しい僕の夢になった。無論、ヨーロッパが国ではないことはその後結構経ってから知ることとなる。

友人の父がダビングしてくれたロベルトバッジョのDVDを何回も繰り返し見た。近所のサッカー好きの兄ちゃんがダビングしてくれたスペインリーグのDVDを何度も何度も見た。

そして最終的にロナウジーニョに傾倒した。

世界最高峰の舞台で観客を魅了する、本物のファンタジスタに憧れた。その日から
「僕もロナウジーニョになりたい!」
と再び彼の母国ブラジルへ行くことを決意する。ブラジルカムバックの瞬間である。ブラジル→ヨーロッパのルートがどうやらアツいらしいと小学校低学年の僕は確信する。

リバウド、カフー、ロナウド、ロベカル、ロビーニョ、カカ、アドリアーノそしてロナウジーニョ。みんなブラジル人。
だから僕もブラジル→ヨーロッパの道を志すことにした。

それから僕は遊びのサッカーでも少年団のサッカーでもパスをしなくなった。ブラジル人になりたくて。とにかくドリブルしまくった。

元々FWだったが、中学生になるとMF(ボランチ)と言われる中盤のポジションを自ら希望し、やることになった。ロナウジーニョと同じポジションが良かったからだ。
後になって気付くのだが、ロナウジーニョのポジションは左ウイング。簡単に言うとFWだった。気付いた時にはもう遅かった。僕はもうすでにボランチの選手になってしまっていた。

中学生の頃、世界がもし100人の村だったらを読んだ。
どうやら日本という国は恵まれていて世界には飯もろくに食べれない、いわゆる貧困に苦しむ人たちがいることを知った。衝撃だったが半信半疑であった。

いつか自分の目で確かめてみたい。そう思った。
大人になったら、この目で確かめようと決意した。

大学生になり、バイトしてお金を貯め、フィリピンに留学した。

フィリピンにはいわゆるスラム街と呼ばれる貧困地域が存在する。
留学中、学校側からはスラムには絶対行くなと釘を刺されていたが、そんなの従うわけがない。
好奇心を抑えることなど僕には到底不可能であった。

スラム街を訪れた後、中学生の時に読んだ、世界がもし100人の村だったらに書かれていたことは本当だったんだと感じた瞬間であった。

それから1週間後にスラムを再訪問。
今度はサッカーボールを持って。

当時大学生であった僕にできることなど彼らとサッカーをすることくらいしかなかった。
あの瞬間は今でも忘れることができない。
最後、
「また戻ってくる。約束な!」
と日本語で書いて彼らにボールをプレゼントした。
当時は留学と言っても短期留学。英語なんて話せなかったし、書けなかった。だから日本語で書いた。

なんとも厨二病を拗らせてしまった人が書きそうなメッセージだが、あのメッセージは彼らへの約束なんかではなく、自分との約束だった。

2年後、僕は自分との約束をちゃんと守った。

スラム街には、また、新しいサッカーボールを持って行った。
サッカーボールをもう一度プレゼントした。
今度は英語で「I made it!」と書いて。

当時もまた、今度は3ヶ月という前よりも長い期間でフィリピンに留学した。目的は英語とプログラミングを学ぶこと。

フィリピンに行く前は、カナダに留学していた。カナダだけに留学して、少しでも英語力を向上させることが本音だった。

しかしカナダに行く前からフィリピンに行くことは決めていた。
その理由は、留学前に姉から言われた言葉が原因だった。
「英語だけできても英語が話せる人たちの中に入ったらそれは武器でもなんでもなくなる」

だから英語も学べてプログラミングも学べるスクールに留学した。

当時はWebデザイナーになりたかった。
Webサイトを作れるようになったら世界中どこにいたって働けるし、いわゆるノマドと呼ばれる働き方ができる。大好きな旅を続けながら働ける。そんな安易な考えでWebデザイナーを志した。

今考えてみれば、僕は昔から自分の夢を決める時、安易な考えのもと夢を決めていることに気付いた。
サッカー選手もWebデザイナーも。

サッカー選手は10年以上、目指していた。
でもなれなかった。

同級生や先輩、後輩でプロになった人もたくさんいるし、日本代表で活躍している人もいる。
でも僕はなれなかった。

これは自分の中で結構な挫折で、恐らくついこの前までしばらく心のどこかで引きずっていたと思う。

サッカーをやめた後は自分のやりたいことを好奇心に任せ、何事も挑戦してみた。
でも何事も続かなかった。

Webデザイナーの夢なんて1ヶ月やそこらで打ち切った。

なぜなら、スクールの勉強についていけなくなったから。

当時のカリキュラムはシンプルで最初の1ヶ月でHTML、CSSを学び、その後にJSを学ぶという一般的な学習ロードマップと同じ流れだった。

HTMLとCSSまではなんとかついていけたし、ある程度楽しさがあった。
でもJSで完全に崩れ落ちる。

JSの学習に差し掛かった頃、友人が自殺した。

僕の心は崩れ落ちた。
新しいことを学ぶ気持ちになんてなれなかった。

本当に本当に辛かった。

何もできなくなった。

だからWebデザイナーの夢も諦めた。

話は戻るが、バックパッカーを経験したくらいの時からずっと、ずっと不安だった。

よく周りからは、
行動力がすごいとか、
とりあえず挑戦する勇気は武器だよとか、
コミュニケーション力に優れているとか、
すぐ人脈を広げて帰ってくるのはすごいとか、
そんなことばかり言われた。

嬉しかった。
嬉しかったが、実は不安で不安で仕方なかった。

なぜなら僕には実態のある武器がなかったから。
それは今も変わらない。

バックパッカーをしたところで、お金は一円も生み出せなかった。
ブログをやればいくらかお金になったのかもしれないけど、これも始めてみたは良いもののすぐ頓挫。

どうやら、僕には続ける力が壊滅的に欠如しているらしい。

お金を生み出せる武器が欲しくて仕方がなかった。

それを持ち合わせていない自分が不安で不安で仕方なかった。

だからずっと、何かを生み出すスキルを持っている人に憧れていた。
そしてそのスキルを持ち合わせている人って誰なんだろうと考えた時に閃いた。

エンジニアだった。

頭の中ではわかっていた。
エンジニアが最高にイケてる職業だってことを。

アメリカの起業家やCEOを見ても、技術界隈出身の人が大体の割合を占めている。

今の時代、何かを生み出す能力を持った人はほぼ全員プログラミングができる。
知っている。気付いていた。
でも二度も挫折した僕は、自分に「エンジニアは向いていない」と言い聞かせていた。
だからプログラミングを自ら避けていた。
でも心のどこかでは、自分も何かを生み出してみたいと感じていた。その気持ちにも気付いていた。

その時出会ったのがG's ACADEMYだった。

これならいけるかもしれないと思い、申し込んだ。
そして三度目の正直にしてようやく、エンジニアという職業が見えてきた。
まだまだおもちゃの剣くらいの武器だが、磨いて磨いて日本刀くらいにはしていきたいなと思っている。

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