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自分の気持ちを知らないから他人の気持ちがわからない

依存体質とか自己愛の強い人が「自分が気に入らない人」を小馬鹿にして貶めるのって、それをされる相手の気持ちなんてどうでもいいんだよね、「他人を傷つける己」の異常さも恐ろしさもわからない、攻撃したい気持ちで口汚い言葉を吐く己の姿に酔う、本当に見苦しいなと思う。

何でこんなことができるのか、相手の気持ちを想像しないのはまず自分の気持ちを知らないからなんだよね。
「知らない」ってのは「本音では自分はどうありたいのか」を掴んでないってことで、感情のうわべ、「腹が立つ」「ムカつく」「憎い」のネガティブな色の重さに耐えきれなくて”すぐ”何とかしようとする、それが攻撃一択になる、上っ面の感情にまず己が振り回されるから罵倒される相手の気持ちなんて想像する余裕がないんだろうなと感じる。

どうして腹が立つのか、相手の何にムカつくのか、「己の何を刺激されてネガティブな感情が湧くのか」をちゃんと理解しないままに勢いで攻撃するから、出てくる言葉はきついものになる、でも実際は「中身がない」、そこから建設的な話ができるかっていうと100%そんなことはない。
ただひたすら「相手を貶めて黙らせる」のが目的だから、幼児が腕を振り上げてわぁわぁ喚くような幼稚な姿を平気で晒す。
で、少し落ち着いた頃にそんな振る舞いをした自分について「そのときはそう思ったから」「だって相手がこんなことを言うから」と正当化する、”絶対に反省しない”が依存体質や自己愛の強い人の特徴。

自分の気持ち、何を大事にしていてどう在りたいかを知っていれば、攻撃ではなく「思いを伝える」を選ぶんだよね、「あなたのこの言葉に傷ついた」「私はこう思っている」と具体的に言える、自分の痛みに集中してそれを相手に知ってもらうことを考える。
依存体質も自己愛の強い人もこの「自分の痛みに集中する」ができない、表層の感情が苦しいことや思考の混乱に耐える力がない、”考える”まで自我が行き着かない。

相手を罵倒すればそれで「勝ち」と思っているみたいな人も実際にたくさん見るが、相手が冷静に問題の本筋を持ち出しても絶対にそれは見ない、ひたすら己の感情が最優先で発言する、妄想や捏造も当たり前で「相手より上」の自分を見ないと気が済まないんだろうね。
それほど弱い、「他人を傷つける己」を正解に”できる”自我は他人から攻撃を食らうことには大ダメージを受けるのを見る。

虚勢を張らないといけない、尊大な態度で「アンタには負けない自分」を見せないといけない、自分の感情に溺れる寸前だから必死に表面を取り繕うんだよ、そんな切羽詰まった気持ちは表に出る。
落ち着きのある人は冷静に自分の気持ちを口にできるからね、攻撃ではなく「対話」で互いのことを理解しようとする。
この「理解」こそ依存体質も自己愛の強い人も恐怖を覚えるんだろうなと思う、”相手を知る”ことは自分を曲げないといけないみたいな否定的な捉え方をしている。
だから「攻撃」するんでしょ、求める結果が「コイツが自分を理解すること」だから口汚く罵倒するんでしょ、相手が自分にひれ伏して謝罪し許しを請う姿しか認めないんだよね。
相手はそう感じさせられるんだよ、自分がどれだけ「そんなつもりはない」と否定したって、じゃあどうしてまともに会話しないのか、”相手の言葉を冷静に聴けないのか”、矛盾だらけで不毛な言葉の応酬しかないでしょ。
強さがあるなら、自尊心が正しく育っているのなら、「自分と等しく相手にも感情があり気持ちがある」って想像するんだよね、それを無視できないんだよね、自分がされたら悲しいからさ。
自分には大切にしたい己の姿がある、それを傷つけられたからつらいし悲しい、それをきちんと伝えられるのは強さなんだよ。
それを「対話」で解決していくんだよ、自分が負けるとか折れるとか歪められるとかじゃなくて、「新しい在り方を知っていく」機会なんだよね。

「自分の感情が正解」にしがみつくほど、理解してもらうことはできなくなる。
己の感情と気持ちはどんなものなのか、中身に具体性を持って明確なイメージがあると理性がはたらく、相手を否定一辺倒で叩きのめすことより「自分の気持ちを正しく知ってもらいたい」「伝えたい」意思が生まれる、それを表現する言葉でもって届ける強さが自尊心であって、自分を大事にするから「攻撃」は選ばないんだよね。

これがコミュニケーションの最初だと私は思うが、理性も知性も品性もすべて態度に出るからね、問題の核を話し合うことを避けて罵倒や人格否定に走る人ほど自尊心が低いのだなと感じる。

自分の気持ち、「こうありたい」を正しく掴んでいれば、攻撃で相手を黙らせる選択をすればその本音を叶える現実から遠ざかるとわかる。
で、この「こうありたい」を「コイツのいない世界」とかまたその場の感情で安易に決めてしまうのが依存体質や自己愛の強い人で、普段から己と向き合うことをしないからそのとき湧いてきた感情を「正解」にするんだよ。反省しないのはそのときの自分しか見ていないからで、言ってみればその瞬間にしか生きることができないんだよね。

他人の気持ちを想像するには、自分の気持ちを知っていないといけない。
思考停止でいつまでも相手の言動を「やらかし」として持ち出すが己がしたことは完全に棚上げするような有り様は、いつまで経っても相手の状態ありきで己の安定が決まるから、かえって混乱が深くなるんだよ。
自分が本当に安心するのはどんな状態なのか、人とどう関わり交わるのが幸せだと感じるのか、この現実で自分はどんな在り方を望むのか、ちゃんと知っていれば「相手にも等しくそれがある」と想像できる。
それを話し合って理解し合って”ほどよく”関わる部分を一緒に見つけるのが、情愛じゃないのと思う。

人と何か諍いが起これば嫌なしこりを残したまま縁が切れる終わりを繰り返す人、「仲直り」は相手が自分を受け入れることであって己の正しさの承認ばかり頭にある人、気がつけば孤独だよね、問題の解決から逃げる限り他人との間に信頼も情愛も育たないんだよ。

いろんな人の間を渡り歩いて己の被害をせつせつと訴える人とかいるけど、己の情緒の安定を他人に求めれば自分も相手のそれを叶える役目が生まれると気が付かない、「大事にされる自分」だけが欲しいのに相手から窮屈な甘えを感じると”すぐ”突き放す、そんな有り様だから嫌悪を持たれるのさ。

「他人の気持ちがわからない」人は、等しく自分の気持ちについても知らない。
自分の気持ちを知らない人は他人の気持ちを尊重することもできない。
「尊重される自分」が見たいなら、何をもって尊重されていると感じるかには自分の在り方を掴んでいることが欠かせないでしょ、「己を知る」が最初なんだよね。

「自分と向き合う」を真摯にこなせる人が、相手の状態を正しく見る力を持てるよねって話。

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ひろた かおり
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