言葉の相性
今日のスペースを聴いてくださった皆さま、本当にありがとうございました!
話したことの繰り返しになるのですが、言いたかったことをまとめています。
結局、「何を言われたか」より「誰に言われたか」の方が意識に強くはたらきかける、相手との関係性で言葉の受け取り方は変わってくる。
恋愛関係を前提として一緒の時間を過ごしている男性の、他人行儀な
「待っているね」
の文字に違和感が限界になり、「これ以上話すのは無理」になって、別の理由を作って終わりを決める。
これが、たとえば別の人からのもので、”その丁寧さが気にならない相手”なら、どうとも思わず受け止められる。
これが、”もっと気さくな”感じの「待ってるね」だったら、男性に違和感も覚えなかった。
女性側は、男性に対して「待ってるね」と”気さくに”言える程度の親密度を持っていたからこそ、この違いを無視できずに「合わない」と判断した。
もう一つ、会っている時は普通に方言で会話をするのに「LINEになると突然標準語になる」ことへの違和感、丁寧さを”演出している”と受け取ってしまう違和感。
関心が深くなるほどに自分とは違う感覚が鼻につき、楽しく会話をする気が失せていく。
言葉を交わす気持ちが減ることは、そのまま自分の感情をスルーする流れを生んで、相手に向けていた己の思いすら最後はどうでもよくなる。
話を聴きながらつらいなぁと思ったけれど、生身の人間同士の「会話」は、これくらいダイレクトに感情を左右するものだと実感した。
言葉の相性は、そのまま感覚の相性になると思う。
相手の「待っているね」に覚える違和感は、「自分なら近しい相手に対して待ってるねと気軽に言う」の違いを表に出して、その表現を選ぶ相手とは「感覚が合わない」という冷静な現実を見せてくる。
たった一言でも、言葉そのものよりその下にある感覚ですれ違えば、伸びていた好意の芽が止まる。
コミュニケーションの中心は会話で、言葉で、それを出す心の有り様が己とは別なのだと実感する相手とは、どうしたって深い仲になる前向きな気持ちが生まれない。
「言葉遣い」の相性は関係の下地から外せなくて、片方が合わせることにも限度がある。
数回のやり取りでも「合わない」と実感したら気持ちを言葉にする力を失う、「好き」の維持を左右する部分に言葉の相性がある。
難しいよねぇ、先の話だと気は合うし男性の性格が極端に悪いようなこともなく、順調に恋仲に進めそうな雰囲気だったという。
それでも、一緒にいる時ではなく離れている間のコミュニケーション、LINEでのやり取りでずっと感じていた「どうして標準語なんだろう」「丁寧すぎる」などの疑問は、フラストレーションを心に蓄積させて些細なきっかけで「もうダメ」まで進んでしまう。
言葉の相性の難しさは、それを相手と話題にしづらい、「何でそうなの?」と正面からなかなか尋ねにくい点にもあって、先のケースで女性は男性に自分の違和感を伝えることなく疎遠にした。
言葉はデリケートで、それを使役する人間の心の有り様が一番直截的に出る、だから「あなたの表現の仕方は私とは合わない」と伝えれば確実に傷つける、そう思うから言えないままで終わってしまう。
それを伝えること自体が、相手への敬意や尊重を棄てることになる、そんな可能性だってある。
言葉はデリケート、だから心の相性がわかる、言葉遣いの感覚が合うことは、そのほかのコミュニケーションでも互いの理解を深める中心になる、と思ってる。
ただねぇ、言葉遣いは”その時々で”変えられるのも事実で、人や場所、場面によって上手いこと使い分ける人も大勢いる。
それが出来るのは抱えている語彙と経験値の多さ、踏んできた場数による。
痛い目に遭って学ぶ、人を傷つける言葉遣いを知って慎む、控える、別の表現を考える、そこまで思考が進めばいいんだろうなと思う。
スペースでも話した、「自分の感情を見ることを諦めない」は、この言葉遣いの変化を前向きに支えてくれる力で、自分のために言葉を作る、選ぶ、その姿勢が他人への敬意や尊重につながると思ってる。
言葉はデリケートで、己を形作って他人に知らせる大切な入口だからね。
「感情から言葉へ」「言葉から文章へ」、この連続はものすごく苦しいし大変なんだけど、文章が連なって輪郭を生み世界を創る、己の感慨を慈しむ手段に言葉がある、だから言語化はまず自分のためにするのが最善で、何度でも書き出して”考える”、そしたら脳がこの反復に耐える力を持つ、”楽しくなる”。
ってTwitterにも書いたんだけど、人に向けて吐く言葉はそのまま自分に返るからね、大切にしたいねぇと。
人との「言葉」の相性は、自分を愛する気持ちにも必ず左右されるよって話。