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「動ける余地を残す」ことの重要さ

何かあったとき、また行動を起こそうとするとき、「動ける余地を残す」のが大事だなと思う。

依存体質や自己愛の強い人たちの、我を通すことをやめられずにかえって追い詰められていくさまを見ていると、「後に引けない状態をみずから作る」ことこそ避けたい。

衝動に任せて動くからどんどん居場所が狭くなる。
不穏な空気に耐えられない、自分の価値が貶められている可能性を今すぐに変えたい、気持ちはわかるが冷静さを欠いた言動は正当性が見られずに余計に事態を悪化させる。

「自分は正しい」「自分は間違っていない」「相手は自分を認めるべき」
そんな強迫観念は、いつだって相手ではなく自分を滅ぼすのだ。

何がまずいかって、「やったことは消えない」のが現実で、自分は溜飲を下げても相手に与えた嫌悪感はどうしようもなく、いつまでも引きずられて陰口を叩かれるのが依存体質や自己愛の強い人がたどる道だ。

状態を客観的に見る、落ち着いて自分の気持ちを見つめる姿勢は、その時間が動ける余地を作る。
「いま何をするべきか」、逆に「何をしないほうがいいのか」、冷静に判断すれば相手を攻撃するより賢く”望む結末”へのルートが見えてくる。

何度も書いているが「自分の本音を正しく知る」のが自愛であって、望む結末は何なのか、”相手をコテンパンに傷つけてすっきりすること”で本当にそこにたどり着けるのか、「仲直りまでは望まないが関わらずにいたい」と本心では思っていたのにかえって相手の攻撃を誘ってはいないか、考えるべきだと思う。

「自分だけの正義を相手に理解させる」のではない、「わかりあえないのだからそれで置いておく」強さが、居場所を広くさせる。

自分のことを理解しない他人のほうが多いのだ。
自分だって他人を理解しないのと同じで、お互いの「正義」が違うのは当たり前と思えば仕方ないで済ませられる。
これを「冷たい」とか「情緒がない」とか思うのもわかるのだけど、じゃああなたが大事にしている価値観を否定してくる相手をあなたは受け入れられるのですか、という話になる。

「そこを話し合い、歩み寄るのが愛情」とこういう人は口にするが、それが叶うのはあくまでもお互いに”そうしたい”と思っている場合のみで、片方が理解を放棄している状態でこちらが何を語りかけたって、押し付けにしかならないのだ。

で、「わかってくれない!」とジタバタするほど相手の嫌悪を買い、確執は深くなる。
何度もLINEを送っては未読スルーを責め、友人たちに「こんなひどいことをされている」と触れ回り、SNSでは悲嘆に暮れる様子を描き、「理解されない可哀想な自分」を出す。
その言動を相手や他者が見てどう思うか、「一方的な人だな」と評価される自分を想像できない。
そんな姿を晒してしまえば、気分が変わって前向きな言葉で連絡したいときにはもう出来ないのだ、「自分勝手な行動」だと我に返るから。
これが「動ける余地を失った状態」で、最終的に損をするのは自分なのだとわかる。

バタバタと大騒ぎして「こんな目に遭っているの、助けて!」と他人を頼り、巻き込み、さんざん相手の悪口を吹聴して「自分は正しい」を認めてもらおうとしても、その姿こそ醜悪で同情を覚えるものではない、と気が付かない。
都合よく話を作り上げても、真実が違っていたらおかしな目で見られるのは自分、という”その後”がわからない。

こんな振る舞いで自滅していく人を多く見てきた。

依存体質や自己愛の強い人は常に味方を欲しがるけど、「他人が味方するに足る自分」はどんなものか、という視点がない。
信頼は自分の期待通りに持たれて当然ではない、「信頼できると思われる自分」を伝えない限り、叶うことはないのが現実。

「動ける余地を残す」ためには、頭を冷やすのが最初なのだ。
仲のいい人に打ち明けるより先に、「盾になってくれそうな人」を探す前に、「自分はどうありたいのか」を見つめる強さがその後を決める。本当に。
冷静になれば黙ることができる。
黙るのは悔しさではない、「道を誤らないための胆力」なのだ。
考える。
なぜこうなったのか、何がいけなかったのか、そして自分はこれからどうするのが正解なのか。
望む結末は何なのか。
考える時間が動ける余地を作る。人に話したくなったとき、一方的に相手を貶めて「自分は悪くない」を押し付けるのではなく、「こうしたかったのにならなかったのは、自分と相手にこんな考え方の違いがあったから」と対等な目線で状況を口にできる。
その姿に人は信頼を覚える、「事態を正しく理解しようとしているのだな」と。
だから「一緒に考えよう」「望む結末について選択肢を探そう」と力を貸す気になれるのだ。

つらかったことも、悲しい気持ちも、本当に理解してほしいと思えば対等を忘れない姿勢が必須だ。
「自分は正しい」「間違っていない」、それはどこまでも自分の事情でしかなく、第三者から見たときにどうなのか、はまた違うのだ。それが”世間”なのだ。
それを理解していれば、”相手の非を自分の望む通りに存在させようとする”と、みずから悪い手を打つ可能性に気がつく。


「後に引けない状態をみずから作る」と選択肢を失うのが最悪で、納得できないことでも最終的に受け入れるしかなくなる。
自分の理屈が世間ではどう思われるのか、どう判断されるか、そしてどんな結末にたどり着くのか、自己愛の強い人は「我を通したくても通用しない」と知り大きな恥をかく。
でかい口を叩き非常識な要求を通そうとしても、筋がおかしければ通る道理はないのが”世間”だ。
そして他人に「自分は悪くない」と吹聴していたぶん、終わった後で「恥ずかしい人」「器の小さい人間」と認識される。現実はそんなものだ。

「動ける余地を残せない人」が、最終的に大損する。

世間は甘くない。
世界は思い通りにはならない。
それは冷静に事態を見ればいっそうわかることで、ならばこそ、選択を間違えないためには自分の本音から逃げない強さが要る。
「どうありたいか」をちゃんと把握しないから道を誤る。”悪い手”にしがみつく。
他者を貶めようとするほど、その咎が自分に返るのは当然なのだ。


「動ける余地を残す」のは自分のため。
100回言うが「本音を知る」のは自愛だよって話。

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