古代魚と雨。
雨。
雨が降っている。
さわさわと窓を嘗めるように雨音は滑り続けて。
狂おしいくらい優しい音を立て続けている。
僕は深い夜の中に、ただひとり。
ぼんやりとベッドに腰掛けている。
カーテンを開けてみる。
可視できないほどの細い雨の糸が。
暗く遠い空の上から振り続ける。
さっき観終わった古い映画のDVDのタイトル画面が、薄くて頼りないテレビのモニターに張り付いていて、テーマ曲のクラシック調の曲を繰り返し流している。
まだ映画の余韻が頭の片隅に残っていて、頭の一部分を痺れさせ続けている。
とても悲しい映画で、登場人物の誰も幸せになれないような映画だった。
けど、心のどこかに引っかかっている。
僕の中にある何かを何度もノックし続けるような映画だった。
でも、この感覚をどうやって表現したら良いのだろう?
この作品は何を訴えていたのだろう。
僕にはわからない。わからない。何も。
誰かにLINEしようとしてアプリを開いてみたけど。
こんな気持ちを共有したい相手が見つからなかったし。
どうやって伝えていいかもわからない。
いつも、僕は、こんな調子で。
雨音と、古い映画と、昏い部屋。
ベッドで膝を抱えている僕は、まるであの古代魚みたいに思えてくる。
くぐもった水の音が聞こえてくるようで。
深い深い海の底に沈んでいくようで。
それが恐ろしいのか、心地よいのか、何もわからない気持ちで。
上下左右、過去未来、喜怒哀楽。
そんな全てが頼りなく、おぼろげに感じてしまうようで。
僕は、家を出ることにした。
走ることは好きだ。
自分の足で、一歩一歩移動しながら、自分の心の中の何かと会話する。
とある有名な作家が、ランニングは「悪魔祓い」だと言っていたけど。
確かに何か心の中にある靄のようなものが少しずつ晴れていくように、いつも、感じる。
お気に入りのウェアに着替えて、走り出すための準備を整える。
ゆっくり呼吸して。
上半身からゆっくりと筋肉をほぐしていく。
自分のカラダと会話しているような。
この瞬間が好きだ。
まるで何かの儀式のように敬虔な気持ちで。
僕は丁寧に身体をほぐしていく。
10分程度、ゆっくり身体をほぐすと待ちきれないように急いで外へと飛び出す。
ドアを開けると、冬の始まりのツンとした空気と、雨の匂いが混じり合っていた。
堪らない。
外気の香りを嗅ぐ瞬間がとても好きだ。
雨は、ほとんど止みかけていて、わずかに地上を湿らし続けていた。
重力に逆らわないように、滑るように、走り始める。
雨の冷たさは感じない。
柔らかく、包まれているように感じる。
灰色に聳え立つコンクリートの塔の隙間を縫って。
大好きな川のほとりまで行こう。
街は静まり返っていて。
形のない異形たちが、世界の深淵で息を潜めて僕を見やっているんだ。
とてもひそやかに。
呼吸の音と足音が反響して響く。
国道の橙色の光が、濡れた街を照らしている。
時おり行き交う車の群れは、深海魚のようで。
僕もまるで海の夜を泳いでいるみたい。
シーラカンスみたいに。
歩道橋を登ると。
闇を染めるたくさんの色彩が網膜を焼く。
パープル、オレンジ、グリーン、イエロー。
深海魚たちが。
夜の海で、発光し続けている。